
屋形橋を渡って、左へ曲がっていく、この辺りから道の勾配が急になる。道路わきの細い歩道を歩いていくと、遠くに談山神社の門らしき建物が見えた。
ついに来たぞ。談山神社だ。喜び勇んで、東大門をくぐる。もう、そこは談山神社の境内、ではあるのだが・・・。
先に道が続いているのみ。ここからさらに登っていくのか・・・。
歩いていて、ふと、多武峰は、中世、山城が置かれていたことが多々あり、道沿いにある石垣などを見ているとさもありなんと思う。さぞかし要害の地であったのだろう。
調べてみると、多武峰の御破裂山から冬野にかけて、中世の山城の跡が残っているそうだ。
山道を歩いていくと、左手に奇妙な形の石と町石が道端に立てられている。町石は、多武峰街道の終点を示すもので、一の鳥居から、52石目にあたるのかな。
その横にあるのが、摩尼輪塔と呼ばれる宝塔。摩尼は、宝珠のことだそうで、上円部には梵字で「アーク」と書かれているそうだ。密教の如意宝珠を表しているという話も聞いたことがあるな。
仏さまがよく手のひらに乗せているやつですね。乾元2(1303)年の銘が刻まれているそうだ。(確認できなかった。)1303年というと、鎌倉時代の後期、鎌倉の執権は、第10代北条師時、名前しかしらんね。
ちなみに摩尼輪塔は、国の重要文化財に指定されている。
摩尼輪塔から少し歩くと道が平坦になってきて、土産物屋らしきものの姿が見える。コロナ禍の影響もあるのか観光客の姿はほとんどなかった。
右手を見ると、保護柵の中に古そうな石灯籠が立っていた。
花崗岩で作られた六角形の石灯籠で、高さは2m67㎝と結構大きい。後醍醐天皇の寄進と伝えられる。
元徳(1331)3年と刻まれた銘が残っている。ということは、鎌倉時代の末期、まもなく後醍醐天皇を中心とした討幕運動が起こる。後醍醐天皇の寄進ということは、そこには神仏の加護を願い、討幕の思いが込められたものなんだろうか?
多武峰は、この奥にある吉野とつながる場所である。太平記の世界とつながってくるのかな。
ここが、談山神社の入り口。ここで拝観料を支払う。ああ、また登らないといけない。
頑張んべえ!
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