休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

多武峰紀行⓺ ~談山神社東大門・摩尼輪塔など~

2022-02-13 22:59:21 | 史跡を歩く

 屋形橋を渡って、左へ曲がっていく、この辺りから道の勾配が急になる。道路わきの細い歩道を歩いていくと、遠くに談山神社の門らしき建物が見えた。

 

 ついに来たぞ。談山神社だ。喜び勇んで、東大門をくぐる。もう、そこは談山神社の境内、ではあるのだが・・・。

 先に道が続いているのみ。ここからさらに登っていくのか・・・。

 歩いていて、ふと、多武峰は、中世、山城が置かれていたことが多々あり、道沿いにある石垣などを見ているとさもありなんと思う。さぞかし要害の地であったのだろう。

 調べてみると、多武峰の御破裂山から冬野にかけて、中世の山城の跡が残っているそうだ。

 

 山道を歩いていくと、左手に奇妙な形の石と町石が道端に立てられている。町石は、多武峰街道の終点を示すもので、一の鳥居から、52石目にあたるのかな。

 

 その横にあるのが、摩尼輪塔と呼ばれる宝塔。摩尼は、宝珠のことだそうで、上円部には梵字で「アーク」と書かれているそうだ。密教の如意宝珠を表しているという話も聞いたことがあるな。

 仏さまがよく手のひらに乗せているやつですね。乾元2(1303)年の銘が刻まれているそうだ。(確認できなかった。)1303年というと、鎌倉時代の後期、鎌倉の執権は、第10代北条師時、名前しかしらんね。

 ちなみに摩尼輪塔は、国の重要文化財に指定されている。

 摩尼輪塔から少し歩くと道が平坦になってきて、土産物屋らしきものの姿が見える。コロナ禍の影響もあるのか観光客の姿はほとんどなかった。

 右手を見ると、保護柵の中に古そうな石灯籠が立っていた。

 

 花崗岩で作られた六角形の石灯籠で、高さは2m67㎝と結構大きい。後醍醐天皇の寄進と伝えられる。

 

 元徳(1331)3年と刻まれた銘が残っている。ということは、鎌倉時代の末期、まもなく後醍醐天皇を中心とした討幕運動が起こる。後醍醐天皇の寄進ということは、そこには神仏の加護を願い、討幕の思いが込められたものなんだろうか?

 多武峰は、この奥にある吉野とつながる場所である。太平記の世界とつながってくるのかな。

 

 ここが、談山神社の入り口。ここで拝観料を支払う。ああ、また登らないといけない。

 

 頑張んべえ!


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