休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

馬見丘陵の古墳① ~牧野古墳~

2020-02-02 22:41:57 | 史跡を歩く

 近鉄五位堂駅から北へ、かつらぎの道を通りながらぶらぶらと15分から20分ほど歩くと、牧野古墳がある公園に着く。この日は、牧野古墳の石室の公開がされており、それに併せて古墳を見学することにした。

 古墳の公開は、年に2回春と秋に地域のボランティアグループの方が行っている。受付のテントで名前等を記入した後、ガイドさんと一緒に懐中電灯を片手に古墳の石室へ向かう。

 

 牧野古墳は、三段築造の円墳とされ、一段登った上から二段目の所に両袖式の横穴式石室が開口している。

 

 牧野古墳の石室の規模は、全長が約17mあり、玄室の長さが約7m、幅が約3m、高さ約4.5mとなっており、羨道が長さ約10m、幅約2m、高さ約2mとなっている。石室の大きさでは、県下で5位なのだそうだ。

 石室の中へは、羨門をくぐる際少し腰をかがめて入って、仮設の階段を下りて、羨道を通っていく。

 

 羨道の両側の見るだけでワクワクしてくる。羨道を通っていくと玄門があり、玄室の中に足を踏み入れると巨大な空間になる。天井もかなり高くなっている。

  

 玄室は、両側の側壁が持ち送り構造になっていて、上に行くほど狭くなっている。ガイドの方の説明では、「まみ山三里小石一つなし」という言葉があり、この辺りでは、石材があれば、それは古墳の石材を意味するのだそうだ。

  

 玄室を構成する石もかなり大きい。そして奥には石棺の一部が残っている。刳抜式家形石棺の蓋石だそうだ。発掘調査では、この刳抜式家形石棺のほかにもう一つ組合式家形石棺が安置されていたのが確認されている。

  

 玄室の奥、家形石棺と奥壁の間からは多くの副葬品が見つかっている。副葬品としては、鉄鏃や馬具類が多く、その副葬品の置かれている場所が、斑鳩町の藤ノ木古墳との類似を感じさせる。

 

 牧野古墳と藤ノ木古墳との時間差については、そんなに何十年も違わないだろうが、藤ノ木古墳の方が古いのかなという話をガイドの方とさせていただいた。ちなみに牧野古墳は6世紀末に築造されたと考えられている。

 

 天井の方が黒くなっているのは、昔の人が、この古墳の中で焚火等をして遊んだ跡なのだそうだ。昔は、土砂で石室の中がかなり狭かったらしい。

 牧野古墳の被葬者については、延喜式の記述を根拠に、敏達天皇の皇子で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子の成相墓ではないかと言われている。

 

 これだけの巨大な石室を作ることができる人物というのは、そう多くはいないであろうから、ある程度蓋然性はあるという気はする。

 この古墳の東側に、これも馬見丘陵にある文代山古墳の石棺の底石が安置されている。

 

 文代山古墳は、5世紀後半に築造された、一辺48mもある大きな方墳であり、その古墳の長持形石棺の底石で、古墳の近くの池の橋として使われていたものをここに安置したものだそうだ。

 

 一見、ベンチの様にさりげなく置かれている。ベンチだと思って座る人もいてそうだ。

 

 この場所から、見た牧野古墳。段構造が見て取れる。

 

 牧野古墳の見学を終えて、地図上では近くにある佐味田宝塚古墳を探すも、行きつけず。住宅街を歩いて行って、家の裏側にそれらしきものは見えるのだが、アクセスする道がない。

 結局、断念して帰る。これからの課題だな。(笑)

 


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