大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録3章11~26節

2020-06-21 12:02:39 | 使徒言行録

2020年6月21日大阪東教会聖霊降臨節第四主日礼拝説教「あなたへの祝福 」吉浦玲子

【聖書】

さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。

聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。

あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。

あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。

こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

 

【説教】

<癒しの奇跡以上のもの>

 私たちは神からの祝福や恵みというものを実際のところ過少に考えています。もちろん、病が癒される、経済的に助けられる、目標としていたことが達成できた、等々、そこに神の助けや祝福を感じ、感謝をするということはあります。時に奇跡としか思えないようなことが起こることもあります。しかし、神の祝福の本質は、自分の切実な願いが叶うとか、奇跡的な体験をする、といったところには、ありません。病が癒された、とんでもないことが起こって助けられた、じゃあそのような奇跡的な体験をしていない人は祝福を受けていないのか?そうではありません。今日の聖書箇所でペトロは、人間が考える以上の神の祝福、恵みについて語っています。

 さて、ここに一人の男性がいます。その男性はペトロとヨハネにつきまとっていたとあります。この男性は今日の聖書箇所の前のところで、<イエス・キリストの名>によって、足を癒された人でした。その箇所は二月に説教をした箇所です。男性は神殿の「美しい門」のところで物乞いをしていた人でした。その人が癒されました。ペトロが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」とこの男性の右手を取って立ちあがらせると、生まれながらに足が不自由だったこの人の足やくるぶしがたちまちしっかりして、躍り上がって立ち歩き出したのです。男性は生まれて初めて、大地を自分の足で踏みしめて立ち、歩きました。それもよろよろとおぼつかなく歩いたのではなく、神を賛美して歩き回ったり踊ったりしたのです。

 その歩き出した男性がペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入ってきたのが今日の場面です。神殿に来ている人々は、その男性が毎日、門のところで物乞いをしているのをよく知っていました。その男性が歩き回って神を賛美しているのですから、人々はたいへん驚きました。今日の聖書箇所の前のところでは「我を忘れるほど驚いた」と記されています。この生まれつき足の不自由だった人にしてみれば、歩けるようになった、それは当然、大いなる祝福であり、恵みでした。その姿を見て人々は集まってきたのです。「集まってきた」の箇所は「走り寄ってきた」と訳されている聖書もあります。「なんだ?!なんだ?!」と多くの人々がこの男性とペトロたちのところへ駆け寄ってきました。医学の進んでいなかった当時、生まれつき足が不自由な人が歩き出すなどということは信じられないとんでもないことでした。足の不自由だった人に注がれた神の祝福が、この男性自身を変えたと共に、人々をも引き寄せたのです。足の不自由だった人に注がれた祝福がさらに他の人々を神の祝福に向かって導いたのです。本当の祝福は、一人にだけとどまらないのです。周りに伝播していくのです。人々は表面上は、センセーショナルな出来事に驚いて集まってきました、奇跡の出来事に我を忘れて走り寄ってきました。しかし、人々を集められたのは神です。人々に祝福を与えるために集められました。足を癒していただいた男性は、自分では分からないままに人々を祝福へと導く者と変えられていました。そして、これからペトロが語るのは、この男性の身の上に起こったことを越える祝福についてであり、恵みについてでした。

<無知とは>

 集まってきた人々にペトロは説教をします。2章に記された聖霊降臨の日に続いて、聖書に記されているペトロの説教です。2章の説教と同様、まずペトロは、主イエスが神から来られたお方であることを語ります。そのお方をあなた方は十字架にかけて殺してしまったと語ります。ここで特にはっきりと語られていることは、「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」とありますように、人々が主イエスを殺したのは無知のためだということです。

無知とは何でしょうか?主イエスを「十字架につけろ!」と叫んだ人々は、神への知識がなかったのでしょうか?けっしてそうではありません。彼らはむしろしっかりと聖書を学び、律法を守ってきた人々です。十分に神や聖書への知識はあったのです。15節に「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが」とあります。<命の導き手>とは命の創始者、命の先頭を行く者というような意味です。主イエスは、死ではなく、命へと人々を向かわせるために来られた方でした。しかし、人々は、その命への導き手、命の創始者を殺しました。人々は「命」というものを知らなかったのです。「命」に対して無知だったのです。聖書や神への知識はあっても、そこに<命>がなかったのです。神との生き生きとした愛の交わり、喜び、まことの平安のなかに<命>があります。彼らは<命>に無知であるゆえに、杓子定規な硬直した心を持っていました。まことの神の愛を知りませんでした。

足の不自由だった人は<命>を知っていたでしょうか?彼も知らなかったのです。4章を読みますとこの男性は40歳を過ぎていたとあります。40年以上、この人もまた<命>を知りませんでした。しかし、彼は、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」と右手を取った時、その手を握って立ちあがったのです。馬鹿なことをいうなと拒否をしなかったのです。それは一瞬のことだったかもしれません。しかし彼は、イエス・キリストの名を信じたのです。名とは聖書においては実体そのものを指します。差し出された手を握り返し、イエス・キリストその人を信じて、立ちあがったのです。<命>に向かって、キリストによって導かれて立ちあがったのです。ペトロが「自分の力や信心によって、この人を歩かせ」たわけではないと語っているように、足の不自由だった人はペトロによって足を癒されたわけではありません。ただキリストを信じる信仰によって、キリストその人から命が与えられました。足の不自由だった人に手を差し伸べたのは、実際のところキリストその人であり、彼はキリストの手を取って立ちあがったのです。

キリストからの手を取り立ちあがる、それが命への道です。しかし、人々は、キリストからの手を拒否しました。彼らは<自分は自分の力で立っている>と思っていたからです。キリストの手など必要ではないと考えていたからです。キリストの手を取るには、まず心が変わらなければ無理なのです。

<悔い改めによって開かれる未来>

 ですから、ペトロは言います。「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と。これは足が不自由だった人のように、差し出されたキリストの手を握り返しなさいということです。自分のプライドを捨て、自分のこれまでの生き方を捨て、自分の頑迷な思いを捨て、キリストの導きに従いなさいということです。知識の信仰ではなく、命の信仰へと、聖霊の導きによってキリストへと向きを変えなさいということです。そしてキリストの手に自分の全体重をかけて立ちあがるのです。キリストのこの教えは良いな、でもこちらはスルーしよう、というように、自分が主体的に取捨選択してキリストと向かうのではなく、全体重、全存在においてキリストにゆだねるのです。

 そこから新しい命に生かされる日々が始まります。喜びの日々が始まります。神との愛の交わりに生きる日々が始まるのです。足の不自由だった人は、立ちあがって、神を賛美しました。単に足が癒されてうれしいというだけではないのです。そこに神の力を彼は知ったのです。神の愛を知り、喜びを知ったのです。そして希望が与えられたのです。希望がなければ、神は賛美できません。カチカチの固い心では神は賛美できません。彼は40年、希望のない日々を送っていたのです。しかし今や希望が与えられました。希望というのは未来が開かれたということでもあります。うつむいて過去にとらわれるのではなく、未来へと心が開かれたとき希望が与えられます。そしてその未来は、神が備えられた未来です。

<契約の子として>

神は、私たち一人一人に大いなるご計画をお持ちです。私たちの生まれる前から、私たちがキリストと出会う前から、すでに神はわたしたちへの計画をお持ちでした。24節「預言者は皆、サムエルをはじめ、その後に預言した者も、今の時について告げています」とペトロは語ります。これはキリストの到来と、救いの成就について、旧約聖書の預言者たちによって預言されているということです。「今の時」とは、まさにキリストの十字架と復活によって救いが成就した今の時です。「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。」と続きますが、契約の子とはイスラエルの人々を指します。ペトロの話を聞いている人々は、無知のゆえに命への導き手である主イエスを殺しましたが、なお救いに定められている契約の子でありました。では、イスラエルの民ではない私たちは契約外なのでしょうか。ペトロはさらに続けて「すべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と語ります。あなたから生まれる者とは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストです。イエス・キリストのゆえにイスラエルの民ではないすべての民族もまた祝福に入れられるのです。 預言者たちに預言された「今の時」はすべての人々に救いが開かれた時でありました。

 今ここにいる私たちもまた、信仰において、アブラハムにつながる「契約の子」です。神の壮大なご計画の内に、祝福を与えられる者です。そしてその祝福は、ひとときのものにとどまりません。足の不自由だった人が、歩けるようになったところで、その人の救いの物語が終わるのではないように、私たちもまた、未来に向けて祝福の中にいます。

 何年も病で寝たきりだった方を知っています。若い時に5年ほど寝たきりで、治療薬の進歩によって、回復することができました。しかしその方は言われました。病の時より、むしろ癒されてからの方がしんどかった、と。なぜ若い貴重な時間を自分は寝たきりで過ごさなければならなかったのかと悶々としたのだそうです。失った時間が悔しくて悔しくてならなかったそうです。取り返しがつかないような損をした気持ちになったそうです。そんな中、その方は教会に行き、信仰を得られました。その方は、自分が病気になった意味が分かったから信じたわけではないそうです。寝たきりで過ごした時間の意味が分かったわけではない、ただ分かったのは、新しい未来がある、ということだったそうです。過去の意味は今の自分には分からないけれど、それもいつかは神が示してくださるときが来るかもしれないけれど、ただただ自分には未来があると分かったそうなのです。過去も未来もすべてを支配されている神が、愛によって自分に未来を開いてくださることが分かった、だから、洗礼を受けたそうなのです。

 今日の聖書箇所の足の不自由だった人も40歳を過ぎていました。当時の平均年齢からいいますと、この年で癒されても、普通に考えますと、これからの人生で、失った40年間を補うことは難しいように思います。しかしなお、この人は神を賛美しました。失った40年を恨んだのではありません。神と共に生きる、神と愛の交わりの中に生かされることの素晴らしさを知り、神によって開かれる未来に希望を持ったのです。

 私たちも命に生かされます。神の未来へと導かれます。そこに希望があります。いま、私たちも心を柔らかにして差し出されたキリストの手を取ります。キリストの手は私たちの上にあります。地面ではなく、目の前の現実ではなく、上を見る時、聖霊によってそのキリストの差し出された手が見えてきます。その手をつかみます。全体重をかけてつかみ、新しい命を得ます。