2017年5月21日主日礼拝説教 「恵みの戒め」
<ユダヤ人のこだわり>
わたしは九州出身で、最近はどうか分かりませんが、九州というと九州男児という言葉があるくらい、男性がいばっているような印象があります。もちろん、九州の中でも地域的な差はありますし、また、やはり家庭ごとに違うと言えば違います。また、女性がうまく男性を立てているだけで、実際の力は女性が握っているのだ、九州は本当は女が強いんだという説もあります。でも私が若いころの印象では、その後、住んだ関東や関西に比べて、実際に強いかどうかは別として男性が男性ということにこだわっていて、そのこだわりの強さはやはり九州は特別といえるように感じます。
でも考えますと、男である、ということにこだわって生きていく、それはそれでしんどいことだと思います。男はかくあるべき、男はこんなことをしてはいけない、逆にこんなことをしていては男の沽券にかかわる、そうやって生きていく男性もしんどいだろうなと思います。
しかし、九州の昔の男性に限らず、だれにでも大なり小なりこだわりがあります。良い意味でのプライドがあります。自分ではそんなものはないように思っていても、やはりどこかにあると思います。意識していなくても、意識していても、絶対にそこは譲れないものがあると思います。
ローマの信徒への手紙でパウロは繰り返しユダヤ人に対して警告を発しています。ユダヤ人にも強烈なこだわりがありました。これまでも何回か申し上げましたように、ユダヤ人には自分たちは神に特別に選ばれた民であるという強烈な意識がありました。そしてその特別な民として神から与えられた律法を持ち、また、その律法に記されている割礼というものを持っていました。割礼というのは、特別に神に選ばれた民であるということの目に見える肉体的な証でもあったのです。律法や割礼というのはユダヤの人々にとって、私たちには思いも及ばないほど、存在の根幹に関わるような問題でした。割礼は生後8日目に男子の包皮を切り取ることですが、これは創世記で、まずアブラハムに神が命じられたことでした。創世記の17章、またレビ記12章などに割礼について記されています。その律法に従って、主イエスご自身もまたお生まれになって8日目に割礼を受けられたのです。いまでもユダヤ教徒の方々は赤ん坊に対して割礼をするのです。昔、ヘブル語をちょっとだけ学んでいたころ、イスラエルに留学経験のあったヘブル語の先生が、イスラエルでホームステイ先の家族の実際の割礼の様子を録画した映像を見せてくださいました。家族がみなそろって、赤ちゃんを、ユダヤ教の指導者、ラビのもとへ連れていって、割礼を施してもらうのです。割礼自体はあっという間にすみます。赤ちゃんは泣いているんですけれど、赤ん坊の産まれたユダヤ教徒の家族にとっては、現代においても大きな喜びの瞬間なのです。
2000年前のパウロの時代、まだキリスト教がユダヤ教に対して新興勢力であったとき、当時のキリスト教の教会で、ユダヤ人以外の人が、つまり異邦人が、主イエスを信じるようになっても、割礼をさせるところがあったようです。それに対して、パウロは異を唱えていました。使徒言行録の15章ではクリスチャンである異邦人に割礼を施す必要があるかどうか議論されたことが記されています。これは有名なエルサレム会議と言われる会議です。結論としては必要はないということになったのですが、初代教会で大きな議論となるほど割礼というのは大きな問題でした。
しかし、これは単にユダヤの人々が勝手に自分たちの伝統や習慣に誇りを持っていたということではありません。旧約聖書から新約聖書の流れの中で、たしかに神はイスラエルを特別に選ばれたのです。神はユダヤの民を特別なものとして選ばれました。創世記12章で、信仰の父と呼ばれユダヤ人の父祖であるアブラハムに対して、<あなたを祝福の源とする>と神はおっしゃいました。そして「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われました。神は地上のすべての民を祝福へと入れるご計画を持っておられました。しかし、その祝福の源としてアブラハムが選ばれその子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人が選ばれたというのは明確に聖書の中に記されています。ある方は、これを湖に投げた石の波紋に例えておられます。石がぽちゃんと水に落ち、波紋が同心円状に広がっていきます。石が落ちたところがイスラエルであって、そこから救いがはじまります。その救いが波紋のように人類全体に広がっていく、そんなイメージです。救いはイスラエルから、神の壮大なご計画の中で、そのイスラエルから始まった救いの波紋はこの日本にも届きました。その神のご計画のなかでの律法であり、律法で定められた割礼なのです。ですからパウロも単純に律法や割礼を否定しているわけではないのです。なによりパウロ自身がユダヤ人であり、律法のエキスパートであったのですから。17節や18節「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」という言葉はけっして皮肉でパウロは言っているわけではありません。あなたたちは確かに律法を重んじ、神を誇りとしていたでしょう、ということをパウロは言っています。
<何を誇るか>
では、パウロはどこに問題を見ていたのでしょうか?ひとつには福音書の中でイエス様ご自身も繰り返し、律法学者たちを批判なさっていたことと通じるのですが、律法の形骸化の問題がありました。律法は神と隣人への愛に生きるための戒めでした。律法は一人一人が生活の中でその愛の精神を実践するものでした。しかし、21節以降を読みますと、律法は実践はされていないようでした。23節に「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」とあります。24章の「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」という言葉はイザヤ書の52章に預言されていた言葉です。
そしてもうひとつは「誇り」という問題があります。ローマの信徒への手紙で、こののちも繰り返し出てくることになるのですが、さきほど、17節に「律法に頼り、神を誇りとし」とありました。また23節には「律法を誇りとしながら」ともありました。本来、特別に神に選ばれた民であるイスラエル、ユダヤ人は、神を誇りとして生きる民であったはずです。
しかし、パウロの時代、ユダヤ人は、神を誇りとするのではなく、律法や割礼を誇りとしていたのです。律法そのものは誇るものではなく、さきほど申し上げましたように実践するものです。たとえばどんなに優れた法律を国や自治体がもっていても、それを床の間に飾っているように実践しなければまったく無意味です。その法律の精神を生かした、まちづくり国つくりをしないと意味がないのと同じです。割礼は律法の実践がなければただの肉体的な傷にすぎません。
それは、本来、誇るべき神以外のものを誇るようになったからだとパウロは語っているのです。神を誇らず、自己中心的な民族愛に陥ったからだというのです。神への誇りのない律法や割礼への誇りは、偏狭な民族愛であり、自己愛に過ぎないのです。その結果、表面的には律法を守っているようでも、その心には神への愛も隣人への愛もない、欺瞞があふれるようになります。そしてまた、そのような自己愛は排他的になります。自分と異なる他者を排除する者となります。エルサレム会議で議論された異邦人への割礼の強要も自分と異なる他者の排除の風潮の中で、自分の文化への同質化を強要するものでした。
神への誇りが自己愛にすり替わり、排他的になる、これは誰でも陥りやすいことです。律法や割礼というとなにか遠いことのようですが、私たちの日々でも往々にしてありがちなことです。信心深い、敬虔そうな態度はとりながら、本当の意味での愛の実践に生きていない、そういうことは2000年にわたって教会において起こってきたことです。神への誇りのない自己愛は、罪の本質である人間の自己中心性のあらわれそのものだからです。ですから、神を愛そう隣人を愛そう、排他的にならないようにしようと願っても、なかなかそれは難しいことです。
4年ほど前、わたしが大阪東教会に赴任してまだ間もない頃、教会におりましたら、来訪者がありました。この教会の隣の教会と言っていい、ルーテル教会のかたが来られました。実はその方はもともと私が所属していたY教会の教会員だったのですが、その2年ほど前にルーテル教会に転会されていた方でした。彼女は、私がすぐ近くの大阪東教会に赴任したことを知って訪ねてきてくださったのです。実は彼女とはY教会時代、もめたことがありました。二人とも教会の役員をしていたのですが、意見が合わなかったのです。わたしはけっこうきついことを彼女に言いました。当時ずいぶん彼女を傷つけたと思います。私はその時、自分は正しいと思っていました。実際、けっして私は間違ったことは言っていなかったと思うのです。でも、自分の正しさを盾に彼女の思いを切り捨てるようなことをしていたのではないかという悔いもありました。そういう苦い思い出があったので、余計、彼女が訪ねてくださったのはうれしかったです。短い時間、話をして別れました。彼女と和やかに話をする機会をあたえてくださった神様に本当に感謝でした。でも改めて私はやはり彼女と揉めたとき、神よりも自分の正しさを盾にしていたと悔い改めました。
<霊によって>
パウロは律法を破りながら律法や割礼を誇っている人々を批判し、その最後で「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」と語っています。新共同訳聖書の“”付の霊という言葉は聖霊を指しますが、聖霊によって心に与えられた割礼、これは何でしょうか。わたしたちキリスト者はすでに神のものとされています。神の恵みのもとにあります。そのことを聖霊によって知らされます。
私たちが神を誇るのではなく自己愛へと陥るのは、神の恵みが見えなくなっている時でもあります。厳しい現実のなかで神を見失っている時、私たちは神以外のものに頼ります。自分に頼るといってもいいでしょう。逆に自分に頼るとき、神を見失うとも言えます。
ある牧師がある地方の教会に赴任をしたときのことを語ってくださいました。その教会は市内でも規模としては大きな教会だったそうです。しかし、数年前に分裂した経緯がありました。多くの人が教会を出て行った過去がありました。教会の中で激しい対立があったのです。それぞれに自分が正義だと、それこそ双方が御言葉を盾にして主張した。聖書にこう書いてあるだからこうすべきだとそれぞれに主張したのです。でもそれは御言葉を自分の正しさの盾として利用していることであって、神に聞くという姿勢ではありません。それは律法や割礼を誇っていたユダヤの人々の姿勢にも通じます。その結果、教会が分裂してしまうという悲しいことになってしまった。その教会が揉めてどうしようもない時期に無牧となり、そののちその牧師は赴任したそうです。そしてどうにか教会は落ち着いていきました。その牧師はどっちが正しいとか問題点を整理したり、理屈や道理で問題を解決しようとしてもできないのだとおっしゃいました。もどかしいような、そんなことで良いのかと思われるかもしれませんが、結局、共に御言葉に聞いていく、その時間を淡々ともっていくとき、意見の違いや争いを越えて、そこに神が働かれることが見えてくる、そこから痛んでいた傷が回復していくのだとおっしゃいました。御言葉を盾にして争っていた人々が、御言葉によって癒されていったのだとおっしゃっていました。
パウロは聖霊による割礼と言いました。私たちはユダヤ人ではなく異邦人ですが、すでに私たちには割礼があるのです。聖霊によって刻まれた割礼があります。神のものとされたしるしがあるのです。イスラエルから始まった救いがすでに私たちに及んでいます。神は私たちの上に豊かに働いておられます。その働きにゆだねたら良いのです。自分の力を振り回すときその働きが見えなくなってしまいます。そしてますます自己中心性に陥ってしまいます。でもそれは自分の力で自己中心でないようにしようとしてできることではありません。神にゆだね神に求めることです。そのとき私たちは自分の周りにある神の働きに気がつきます。最初に九州男児の話をしましたが、神の働きに気がつく時、自分のこだわりやプライドからも自由になります。ほんとうに平安が与えられます。
先週、教会学校の子どもたちが蒔いたアサガオの種から昨日、芽が出ていました。硬くて小さな種から青々とした芽が出てきていました。私たちもまた時として頑なで罪に陥ってしまうものです。自分のこだわりの中に閉じこもるものです。でも、聖霊が、そのかたくなさの殻を割ってくださいます。神の恵みの中を生かしてくださいます。そして豊かに成長させていただきたいと思います。