大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 4章1~25節

2017-07-14 13:42:14 | ローマの信徒への手紙

2017年6月25日 主日礼拝説教 「神の約束のたしかさ」 吉浦玲子牧師

<信仰の父>

創世記の15章で神はアブラハムにおっしゃいます。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」

アブラハム、このときはまだアブラムという名前でしたが、その信仰は揺らいでいました。彼は75歳で故郷を旅立ち、あなたの子孫を祝福するという神の約束を信じて歩んできました。創世記15章の時点で、旅立ってかなりの年月がたっていたのです。明確な年数はわかりませんが、10年以上たっていたかもしれません。しかし、依然としてアブラハムには子供は授けられていませんでした。子孫を祝福するとおっしゃったにもかかわらず、子孫どころかたった一人の子供さえまだアブラハムにはいなかったのです。

創世記の12章に遡りますと、アブラハムは完全に故郷を捨てて、財産すべてをもって旅立ったのです。いざとなったら故郷に戻ることができるというような旅立ちではありませんでした。それだけアブラハムは神に忠実に歩んできたのです。

その歳月の中で、共に旅をしてきた甥のロトとの別れ、戦争、アブラハム自身のいくつかの失敗、さまざまなことがありました。時に失敗しながらも、長い歳月、アブラハムは精一杯、神に従って歩んできました。その歳月の中で、神はいつになったら自分に子供を与えられるのかアブラハムには疑いが生じて来たようです。創世記の15章にはとてもはっきりとしたアブラハムの神への抗議が記されています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」あなたはわたしに子供を与えてくださらない、だから使用人であるエリエゼルに家を継がせるしかないではないか?従順に神に従って歩んできたアブラハムが、ある意味、いまふうの言い方をすれば神に向かってキレている場面と言ってもいいでしょう。

そのアブラハムを神は外に連れ出して、空の星を数えよとおっしゃいます。現代の都市部では見える星の数は少ないですが、当時は空気も良く夜は真っ暗でしたし、ことにアブラハムは街中に住む者ではなく、草の生えた広い土地を転々として放牧する生活でしたから、たくさんの星が見えたでしょう。

ちなみに、調べてみますと、だいたい人間が見ることができる星は六等星くらいまでと一般的に言われるそうです。しかし、空気が良い場所でかなり目の良い人であれば七等星くらいでも見える場合があるそうです。七等星まで入れますと地上から見える星の数はだいたい8000くらいになるそうです。8000と耳で聞くとそれほど多くないように感じますが、実際に満天の星の輝きを見た時、それはやはり数えきれないほど多くの星だと感じることでしょう。

「あなたの子孫はこのようになる。」神はそうおっしゃいました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

先週も信仰義認の話をしました。信仰によって神は私たちを義としてくださる。正しいとみなしてくださる。私たちの行いによるのではない、そう御言葉から聞きました。信仰の父と言われるアブラハムは、この場面で、神を信じました、そのことにおいて、信仰の父なのです。そのアブラハムは私たちの信仰の父でもあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」私たちの信仰の源流、信仰の源泉はここにあります。

<信じることの困難>

 しかし、一方で、信じるということは人間にとってけっして簡単なことではありません。重大な仕事を始めようとするときに共に仕事をする相手が信用できるかどうか慎重に考えます。結婚でもそうです。信じていたのに裏切られた、そういうことはこの世界にはいくらでもあります。私たち自身もまた、人生において結果的に人を裏切ってしまうことになるということもないわけではありません。信じてくれていた人を心ならずも裏切ってしまうこと、それは人間の人生の中にいくたびかあることです。ですから私たちはなかなか人を信じることができない、でも一番信じられないのは自分かもしれません。

 では、相手が神であれば簡単に私たちは信じることができるでしょうか。

 聖書の記述を見ますと、アブラハムは神と会話をすることができたようです。アブラハムののちの時代のモーセや預言者たちも手段は様々でありましたが、神の言葉を聞くことができました。しかし、そんな神の言葉を聞ける人々であっても、神を信じることは困難を伴うことでした。モーセもエリヤも信仰が揺らぐときはあったのです。そして冒頭で申しましたように、アブラハムもまた、神への信頼が揺らぐときがあったのです。アブラハムや預言者ではない私たちであれば、なおさら、神を信じるということには困難があるかもしれません。

 しかし、奇妙な言い方でありますけれど、信仰の困難にあるときこそ、人間はむしろ神とあいまみえることができるのです。神の恵みを感じることができるのです。創世記15章でもアブラハムは神に抗議をしていました。あなたのおっしゃることは当てにならないではないか、そうアブラハムは神に思いをぶつけたのです。そのアブラハムに対して神はお答えになりました。

 ローマの信徒への手紙4章ではアブラハムと並んでダビデの詩が紹介されています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は幸いである。」これは詩編の32編冒頭の言葉です。ダビデ王自身、大きな罪を犯した人でした。不倫と王という立場、権力を利用した殺人を犯しました。それ以外にもダビデは生涯神の前で罪を犯しました。そんなダビデは自分が罪びとであることをよくよく知っている人でした。その自分の罪の大きさにおののきつつ、神に向かい、ダビデはむしろ神がその罪を裁かれる方ではなく、なお憐みをもって赦してくださる方であることを知りました。<主から罪があるとみなされない人は幸いである>これは新共同訳の詩編32編の訳を見ますと「主に咎を数えられない人は幸いである」となっています。実際に罪とがはあるのだけど神はそれを数えられない、そのことが幸いなのだとダビデは言っています。罪とがを神が数えられないのはキリストのゆえですが、ダビデやアブラハムの姿をみるとき、神への不信や自分自身の信仰のつまずきのなかで、人間はむしろ神と出会うことがわかります。信じられない人間や罪の中で苦しむ人間と神ご自身が出会ってくださるのです。

 主イエスの弟子であったペトロもそうでした。主イエスを見捨てて逃げた、主イエスの逮捕ののち三度も主イエスを知らないと言った、その自分のどうしようもないふがいなさ、情けなさの中で、なおペトロは主イエスの愛のまなざしと出会いました。復活のキリストと出会いました。

 わたしたちもまた信仰が揺らぐとき、自分の弱さに気づくとき、そのときこそ神と出会います。神が出会ってくださいます。神ご自身が、私たちを信じる者としてくださいます。先週、ルターの話をしましたが、宗教改革者ルターもまた、長い信仰的な困難ののちに、神の光と出会いました。行いではなく信仰によって義としてくださる方と出会いました。私たちも神と出会います。神の方から出会ってくださいます。そして信じる者としてくださいます。アブラハムを外に連れ出し星を数えて見よとおっしゃった神は、信じることのできない私たちにもまた、目の前の現実から外に連れ出し、神の恵みの約束を見せてくださいます。こんなにも豊かなものがあなたにあたえられるのだという約束を私たちにみせてくださいます。

<神の約束>

 ところで神はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」とおっしゃいました。それがアブラハムへの約束でした。パウロはその土地を与える子孫とは誰かということをのべています。当時、その子孫とは当然、イスラエル人だと、イスラエルの人々は考えていました。イスラエルの人々は皆「われわれはアブラハムの子孫である」と考えていたのです。ですから神の約束である土地を受け継ぐのは自分たちであると考えていたのです。しかし、自分自身イスラエル人であるパウロは13節で語ります。「神はアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたことです。」つまりそもそもアブラハムに約束が与えられたのは、イスラエルという血筋に対してではなく、アブラハムの信仰に基づくものなのだというのです。信仰に基づいて与えられた約束は信仰に従う者にも与えられるのだとパウロは語っています。イスラエルという血筋は、それはとりもなおさず律法を担ってきた血筋でありますが、その律法によっては義とされないし、律法に頼る者が神の約束にあずかるのではないとパウロは語っています。信じる者がアブラハムの子孫なのだとパウロは語っています。

 さらっと読むと「なるほど、信仰によって私たちもアブラハムの子孫なんだ」と思うのですが、自分自身のことをイスラエル人中のイスラエル人だと自負しているパウロの口から「信じる者がアブラハムの子孫であり、信仰によって世界を受け継ぐ者となる」という言葉が出るというのは驚くべきことです。そもそも聖書は、法律の概念が強く出ている書物です。キリストの十字架による贖いというときの「贖い」という言葉も当時の法律に基づいた概念です。世界を受け次ぐというときの「受け継ぐ」は、遺産の相続ということです。当然、遺産相続も厳密に法的な対象者が受け継ぐのです。マタイによる福音書の冒頭は、アブラハムから主イエスにいたる系図が記されています。これは主イエスが正当なユダヤにおけるダビデの子孫であるという血筋を示したものです。正当な王ダビデの血筋であり、メシアとしての存在の法的な根拠がこの系図で記されています。それほどに法的な根拠を重視するイスラエルにあって、イスラエル人であるパウロが、「信仰のみ」によって世界を、神の約束を受け継ぐ、神の遺産相続をする権利があるのだと語っていることは驚くべきことです。しかしこれはパウロが勝手に新しい説を唱えたということではありません。18節に「彼は希望するすべもなかったときに、なお望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、多くの民の父となりました。」<多くの民の父となった>つまりアブラハムはイスラエルだけの父ではないということですが、これは旧約聖書に根拠のあることです。たとえば、アブラハムはもともとアブラムという名前でした。この名前には「偉大な父」という意味があるそうです。しかし、やがてアブラハムと名前を変えるように神は命じられます。アブラハムには「諸国民の父」という意味があるのです。また創世記の12章でアブラハムの最初の旅立ちの時の神の言葉にも「地上のすべての氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とあります。アブラハムは地上のすべての氏族の祝福の源なのです。アブラハムの血筋の子孫だけが祝福されるとは約束されていません。アブラハムによってすての氏族が祝福に入るのです。

 そしてその約束は成就されました。主イエスの十字架と復活による罪の贖いの業によって成就しました。アブラハムに約束された祝福の中に、今、私たちはいます。それにしても、アブラハムと主イエスやパウロの時代の間には1000年以上の間隔があります。1000年という時間の流れを私たちは直感的に感じることはできません。しかし、神の約束はそれほど壮大なスケールを持っているのです。

 逆に神は1000年と言わず、なぜすぐに約束を果たしてくださらないのか?神はのんびりされているのか?それは人間にはわからないことです。ひとつはっきり言えることは、神は大いなる忍耐をもってすべての人間を救おうとなさっているということです。救いの計画を持っておられるということです。

 アブラハムの約束は成就されましたと申し上げました。たしかに、私たちは今、キリストによる救いの内に神の遺産を相続する者として生かされています。しかし、神の約束はまだ続きます。神の土地を与えられる、それが最終的な約束の成就です。今はその約束が果たされつつある時間だといえます。その約束の完成までの途上を私たちは歩んでいます。キリストが再び来られ、御国へと、神が与えてくださる土地へと私たちが入れられる、その時までの時間をわたしたちは生きています。神の約束、神のご計画は人間にはわからないスケールなのだと先ほど申しましたが、私たちは神の約束をいつになったら成就されるのかとやきもきしながら、不安に思いながら生きていくのではありません。キリストの到来によって、私たちにはすでに神のご計画の確かさを信じることができる者とされているからです。聖霊によって、確信を強められて生きていきます。かならず私たちが受け継ぐ約束の未来に向かって歩む時、その日々の一歩一歩も真の希望に満ちたものとなります。


ローマの信徒への手紙 3章21~31節

2017-07-14 13:38:32 | ローマの信徒への手紙

2017年6月18日 主日礼拝説教 「信じることの喜び」 吉浦玲子牧師

<ところが今や>

「ところが今や」とパウロは切り出しています。

 ところが今や、すべてが変わったというのです。キリストの十字架と復活の出来事は世界史的に見れば、イスラエルという辺境の地で、ごく小さな宗教グループのリーダーが30歳そこそこで、権力者の陰謀によって死刑にされたという取るに足らない出来事でした。当時、世界を支配していた大ローマ帝国にとっては痛くもかゆくもない出来事でしたし、イスラエルにとっても、権力者の妬みをかった人間が葬られただけの出来事にすぎませんでした。当時の歴史書に小さく書かれているだけでの出来事です。しかし、十字架と復活は一方で天地創造のときからの人間の歴史の中で最大の決定的なことが起こったということでもありました。ですから、「ところが今や」なのです。すべてが変わったのです。

 西暦では、キリストの誕生を境に紀元前紀元後、と呼び分けます。紀元前がBCビフォークライスト、キリストの前、紀元後がADアンノドミノ、主イエスキリストの時という呼び方をします。このADのカウントは実際はキリストの生誕と数年ずれていると言われますが、ビフォークライスト、アンノドミノ、これは象徴的なことです。もちろん世界共通に使う暦としては、キリスト教国である西欧の考え方を押し付けるのは良くないということで、最近は数字はいっしょなのですが言葉としてBCやADを使わないという考えもあります。しかし、ビフォークライスト、アンノドミノ、キリストの前後によって歴史が違うものとされるというのは、象徴的なことです。神の出来事が人間の歴史に切り込んでいるということです。まさに「ところが今や」ということとつながることです。

 「ところが今や」神と人間の関係が変わったのです。「神の義が示された」とあります。神の正義が、神の正しさが示されたとパウロは言うのです。しかし、これはおかしなことではないでしょうか?そもそも正しくない神などいるのでしょうか?ノンクリスチャンの方であっても神といえば、少なくともただお一人の神と言えば正しいに決まっていると普通、思われるでしょう。

 多神教の世界、また神話の世界では、神々と言われる複数の神たちがいて、その中には良い神様悪い神様がいることも確かにあります。しかし、そのような人間が人間の世界を神々に反映させて作り上げられた人間臭い神々ではなく、聖書にしるされているような天地創造の神、全能の神と言えば正しいに決まっている、そう人間は普通は考えるのではないでしょうか?

 しかし、また一方で、正しいはずの神様がなぜこんなことをなさるのか?と疑問に思うような不条理なことがこの世界に満ちているのも事実です。神は本当に正しいのか?正しい神はおられるのか?神の義はどこにあるのか?疑問に考える人がいても不思議ではありません。

 伝道者として教会におりますと、様々な方が来られ、さまざまな相談をされることがあります。聞いていて、本当につらくなる、多くの苦しみを抱えておられる方も時々おられます。その苦しみはけっしてもともと本人に非があるわけではない、育った環境が劣悪であった、さらに悪い人にだまされ、かつ自分自身も今は病に侵されている、そのような深刻な複合的な不幸を背負った方がときどきおられます。神様はなぜこの人をこんな境遇に置かれるのか、その方の背負っておられる重荷の一つでも軽くしてくださらないのか、そういうことを思うことも多々あります。

 一つ結論めいたことを申し上げますと、神の正しさというのは人間にはほんとうのところは人間には決してわからないのだということです。神の正しさは、人間がみて、それは正しいとか間違っていると判断をする範疇を越えたものだということです。幼稚なたとえになりますが、幼い子供は、自分を病院に連れていって痛い注射をさせる大人は嫌だと思うでしょう。親は子供の健康のために病気を治すために、いってみれば愛のゆえにやっていることを、幼い子供は手足をばたばたさせて全力を振り絞って拒否しようとします。人間と神との関係もしょせん幼い子供と親の関係を越えることはできないのです。いや、神と人間の隔たりはもっともっと大きいと言えるでしょう。神の正しさを人間は理解できないのです。

 本来、神の義を、神の正しさを到底わかることはできない人間に、「ところが今や」神の義が示されたのです。キリストの十字架と復活という事柄を通して神ご自身がご自身の正しさを人間に示されました。愛という形で示されました。人間の首根っこをつかまえて正しさを伝えられたのではありません。手足をバタバタさせて嫌がっている子供を押さえつけるように伝えられたのではありません。救いと新しい命を与える、そのことをもって、御自身の義を示されたのです。私たちは神の義を、神の愛によって、知ることができるようになりました。神の義はキリストの十字架による贖いという神の愛によって私たちに知らされました。

<ルターと「信仰のみ」>

 ところで、今年は宗教改革500周年と言われます。厳密に何をもって宗教改革の始まりとするかは実のところ諸説あります。しかし、一般的には1517年のルターによって95箇条の提題がウェッティンベルグの門に提示されたことをもって宗教改革の始まりとされます。

 ルターは法律家になることを両親に求められながら、あることがきっかけで修道院にはいったと言われます。雷の激しい夜、雷に打たれる命の危機を感じ、青年ルターは思わず祈りました。「命を助けてくださったら、一生神に仕えます」と。そして無事、助かりました。そしてその後、その祈りの通り、修道院にはいって修道士になりました。ルターはまじめな修道者として生活をしました。祈りと聖書研究の日々を送りました。しかし、その心には平安がありませんでした。彼は神の義、神の正しさということに悩み苦しみました。ローマの信徒の手紙に記されている神の義という問題が彼にとって深い問いとなったのです。司祭となり、自分がミサを行うようになっても、正しい神の前に、自分のような正しくない間違った者が立つことができるのか深い恐れを持っていたのです。

 ルターは決して不道徳なことをしたり修道院の戒律を破ったりしたわけではありません。むしろまじめすぎるくらいにまじめな生活をしたのです。しかし、彼には、自分の中で本当の信仰の喜びがないことを知っていました。ルターにとって神は怖い存在でした。彼は悩み苦しみました。その霊的な悩み苦しみののち、たどり着いたのが28節の「人が義とされるのは律法の行いによるものではなく、信仰によると考えるからです。」ということです。行いによって義とされるのではない、ただただ信仰によって義とされる、正確に言えば、義とみなしていただけるということです。正しくはない者が、キリストを信じる信仰によって、ただそのことのみよって義とされる、その言葉を霊的に受け止めた時、ルターは初めて心から神の恩寵を感じ、心の平安を得たのです。

 自分が正しいとされることに自分自身の努力や行為は何ら関係がない、「人の誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。」ただただ主イエスを救い主と信じ、そのキリストを与えてくださった一方的な神の恵みによって人間は義とされる、そこに思い至ったとき、ルターは本当の神の恵みを感じたのです。いわゆる「信仰義認」と言われる事柄です。現代、プロテスタントの教会に長くおられる方であれば、「信仰義認」とか「ただ信仰のみによって義とされる」ということはお聞きになったことがあると思います。そしてそれはまあそうなんだとお考えになるでしょう。自分の行為や努力によって義とされるのであればそれはとてもしんどい信仰です。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は人間の行為を重んじていたところがあります。そしてまた、歴史の教科書にも載っていたいわゆる免罪符、贖宥状(しょくゆうじょう)というものを発行して、お金で救いが買えるようなこともありました。人間の行いによって救いが与えられると考えられるような当時の状況がありました。その当時のローマ・カトリックの環境の中でルターは苦しみ、ようやく、「信仰のみ」で救われるという確信に至ったとき、平安を得たのです。ですからルターはその後、当時のローマ・カトリック教会を批判したのです。ただ信仰のみに立つべきだと。神の恵みに立て、と。

<私たちも恵みのうちに>

 しかし、どうでしょうか?現代のプロテスタント教会に所属する私たちは本当に「信仰のみ」というところに立っているでしょうか?時々申し上げることですが、日本においては多くの人が生真面目ですから、信仰のみと言っても、どうしてもがんばって立派なクリスチャンになろうとします。がんばって「信仰のみ」をやろうとしてしまいます。ただ信じて恵みによって生かされているというより、努力して良いクリスチャンになろうとしがちです。結果的に律法的になってしまいます。信仰のみではなくなるのです。

 よく敬虔なクリスチャンという言い方をします。これは世間の方がクリスチャンに対して好意的に「あの方は敬虔なクリスチャンだ」という言い方をされる場合が多いでしょう。皮肉の場合もありますけれど。クリスチャンの前置詞のように使われます。クリスチャンは敬虔である、その言葉の中にはクリスチャンは汚れなくてまじめで控えめで寛容で愛にあふれている、そんなイメージがあります。そしてクリスチャン自身もそうあらねばならないと無意識的に思っている面もあります。

 大学時代、同級生で学生結婚をした人がいました。子供ができて、その学生結婚をした友人は夫婦で赤ちゃんを置いて良く遊びに行っていました。赤ちゃんはだれがその間面倒見ていたかというと、人の良い同じクラスの男性の同級生でした。当時わたしがそれを聞いて「えー?なんで親が遊びに行ってる間、彼が赤ちゃんの面倒見るの?それもしょっちゅう。彼、たいへんじゃない?」と友達に言ったら「だいじょうぶだよ、彼、クリスチャンだから」とその友達は答えました。当時、私はクリスチャンではありませんでしたが、クリスチャンだからって、友達の子供をしょっちゅう面倒を見て、それが当然なんてことは変じゃないかと思いました。当時、そのクリスチャンの男子学生とは特に話をすることもなくてどういうつもりでお人よしにそういうことをしていたのかはわかりません。でも友人が、「大丈夫、彼はクリスチャンだから」というところに、なんとなくこの国におけるクリスチャンのイメージが現れている面があると思います。クリスチャンだから親切でまじめだと感じているのです。おそらく「敬虔なクリスチャン」のイメージは、日本人の気質と日本独特のキリスト教の伝道の歴史のなかで、なんとなく「クリスチャンと言えば敬虔」「敬虔といえばクリスチャン」そういう雰囲気が醸成されてきたところがあるのでしょう。そしてまたそれがクリスチャン自身にとって足枷となり、また、精神的なプレッシャーとなってきたところもあるでしょう。

 せっかく主イエスが来てくださり、私たちは律法から解放されたのに、今度は自分でクリスチャンの枠を作って自分を狭めてしまっている、紙に書かれた律法から解放されたはずなのに、別の枠に再び捉えられている、そういうところが、多くのキリスト者に意識的にも無意識的にもあります。パウロが「ところが今や」という「今」の時間軸を、むしろ逆行するようなことを人間はするのです。キリスト以前の状態に戻ってしまうのです。

 それは神の恵みは目に見えにくいからです。ヘブライ人への手紙の11章の「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、見えない事実を確認することです」とあるように、信仰というのはそもそも見えないものを信じることです。聖霊によって心に与えられた愛の戒めは見えません。それに対して律法という紙に書かれた掟は見えます。また、神の恵みは肉眼では見えません。聖霊により頼まなければ神の恵みはほんとうのところは見えません。神の恵みは単純に、収入が増えたとか、悩みごとが解決したということだけであらわされるものではないからです。他人から見たら不幸としか言えないような状況の中にも神の恵みが注がれ、その恵みゆえに力強く生きるのが信仰者のあり方です。その恵みは信仰によってとらえるものです。神の恵みは肉眼にはなかなか見えないのに対して、自分の行動は見えます。だからつい自分の行動を問題にします。人間は見えることにどうしても捉えられるのです。だからといって努力して良いクリスチャンになること自体は悪いことではないのではないか?善い行いをすることは良いことではないか、そう思わるかもしれません。しかしそれは言ってみれば「まじめな不信仰」なのです。神の恵みを受けることよりも自分の行動を上においているということです。

 そんなまじめさはひととき、わきに置きましょう。「主にまかせよ、汝が身を 主は喜び助けまさん」という讃美歌291の歌詞があります。この讃美歌のように、主にお任せしましょう。そのときほんとうの神の恵みが見えてきます。そして私たちは自分のまじめにすがる必要がなくなります。神の光が見えてきます。信仰の喜びに満ちあふれます。ルターは信仰のみということに思い至ったとき、聖書のすべてが新しい光に照らされたように理解できるようになったと言います。ルターはそれまでも学校で聖書を教える立場にあった人です。しかし本当に喜びをもって聖書を読むことができるようになったそうです。神の光に照らされるとはそういうことです。自分自身が神に照らされ、新しくされるのです。


ローマの信徒への手紙 3章9~20節

2017-07-14 13:18:24 | ローマの信徒への手紙

2017年6月11日 主日礼拝説教 「あなたは正しいですか?」 吉浦玲子牧師

<正しい者は一人もいない>

 今日の聖書箇所の見出しは「正しい者は一人もいない」です。<正しい者は一人もいない>これはずいぶんと厳しい言葉ととられるかもしれません。パウロはこのローマの信徒への手紙のなかで、これまでお読みしたところでは、神から自分たちは特別に選ばれていると考えているユダヤ人であれ、そのユダヤ人から異邦人とさげずまれている人々であれ、皆、平等に神の裁きの前に立つのだということを、語ってきました。そしてその流れの中で「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と、今日の聖書箇所では畳み掛けるように問うています。先日お話した3章の冒頭では、神の御言葉をゆだねられたという点においてユダヤ人は優れていると語っています。しかし、それから一転して、「優れた点は全くありません」と今日の聖書箇所では語っています。ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下(もと)にあるのです、と語っています。優れているところはあるといったり、優れた点は全くないと言ったり、矛盾しているようにも感じます。まるで今日の聖書箇所は前言を撤回するような言葉です。厳密に言いますと、1節の<優れている>というギリシャ語の単語と9節の<優れている>という単語は異なるものです。しかし、単語は違っていても、いずれにせよ、他に比べて優越する、まさっているというニュアンスのある言葉です。パウロは当然、その矛盾を分ったうえで、ここで語っています。

 たしかにユダヤ人は神の言葉をゆだねられてきた、その点のユダヤ人の価値をパウロは3章の最初のところで認めていました。しかしその特別の価値を含めても、結局のところ、すべての人間は皆、罪の下にあるとパウロは語っています。そのことにおいて、すべての人間に優れた点はないのだと強く語ります。ローマの信徒への手紙の講解説教をはじめて、繰り返し、「罪」ということを語ってきました。しかし、実は、パウロが明確に「罪」という言葉を使っているのはここが初めてになります。これまでも人間の「罪」ということをパウロは語ってきましたが、ここで初めて明確に「罪」という単語を出して、今日の次の聖書箇所である「信仰による義」へと話をつなげていく流れになっています。

 実際のところ、手紙の流れに沿って考えた場合、今日の聖書箇所だけで独立して話をするのは難しい面もあります。「罪」だけが語られて、ここだけでは救いがないようにも取れる箇所だからです。そして、繰り返し申し上げてきたことですが、それなりに善良にまじめに生きてきたのに、教会に来ると罪人と言われる、頭では罪のことを理解できても、何となく心ではそれはどうも解せない腑に落ちない、そのような感覚は多くの人が持つのではないでしょうか。自分がことさら完ぺきだとも立派だとももちろん思ってはいない、いやむしろそれなりに欠点や足りないところは多々あると自覚しつつ、ああ自分はダメだなあと時に落ち込みながら、でもまあがんばって社会生活を行っている、できるだけ人さまには迷惑をかけないように心掛けて生きている、それなのに教会では罪人と言われるのか、そう感じる人が多いのではないでしょうか。

 ですから、パウロの言葉はある意味、過激に聞こえますし、厳しく感じますし、場合によっては聞いて落ち込んでしまうところがあります。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。」<優れた点が全くない>そこまで言われないといけないのか、そんな思いを抱く方もおられるのではないでしょうか。

 ただ、ここで少し注意をしたいのは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。」という言葉です。ユダヤ人もギリシャ人も罪をたくさん犯しましたとはパウロは言っていません。「罪の下にある」そう言っています。これはなにかといいますと、「罪に支配されている」ということです。私たちはけっして「罪の上に」あるのではないということです。「罪の下」にあるのです。パウロ自身が別のところで語っている「罪の奴隷だ」ということです。パウロはあなたがたはこんなに悪いことをしたと、ここで語っているのではなく、罪と人間の関係性を語っています。

 私たちは頑張って生きています。時々だめだと落ち込みながら、反省しながら、やり直しながら生きています。しかし、罪の本質というのは、人間が自分でどうにかできるというものではないということです。人間が反省して心をいれかえてやり直したらいい、そういう生易しいものではないということです。人間が罪の上に立って罪をコントロールできるのではないということです。罪の下(もと)にある私たちは、自分で自分の罪をどうにもできません。

<罪に捕えられている人間の姿>

 10節からパウロは旧約聖書を引用して語っています。今日詩編14編を最初にお読みいただきました。このパウロの引用は詩編14編からの言葉を含みますが、全体としては詩編14編からだけの引用ではなく、イザヤ書や他の箇所からの言葉も組み合わせたものになっています。当時、このような旧約聖書からの言葉を合成したような詩が一般に語られていたのではないかと推測する聖書学者もいます。おそらく当時の人々が良く耳にしていた言葉を引用して、パウロは罪の下にある人間の姿を説明したと考えられます。

 「正しい者はいない。ひとりもいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」ユダヤ人は神の言葉をゆだねられていました。主イエスやパウロの時代、聖書学者はたくさんいました。しかし、聖書の言葉の研究はしても、聖書の内容はよくよく知っていても、本当の意味で神を求めている人はいないのだという痛烈な言葉です。嘆きの言葉です。

 旧約聖書の時代のイザヤやエレミヤをはじめとした預言者の嘆きと同じ嘆きが、この言葉の響きの中にあります。この嘆きは、当時のイスラエルだけではなく、今日でも、罪の下にある人間の嘆きでもあります。日本に住んでいるクリスチャンでない方々は<神も仏もない>という言い方をします。あまりにひどい現実に嘆くことにおいて、パウロの引用した言葉と通じるところはあります。悲惨の中にある人の嘆きとして共通するところがあります。もちろん、聖書の考え方としては、神や仏がないのではありません。神はおられるのに、人間自身が神から離れている、神を見失っているということです。そもそも、神に造られながら、神を求めていないのが罪の姿です。良く罪のことを的外れといいます。神という的から外れている、そこにこの世界の悲惨の源があります。その世界の悲惨を嘆く言葉をパウロは語っています。

 「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」これも厳しい言葉です。先週も名前を出しましたが、植村正久という改革長老教会のすぐれた説教者の言葉に、「腐っても鯛、というが腐った鯛ほど扱いにくいものはない」という言葉があるそうです。植村正久はこの言葉を人間の罪の状態の比喩として語ったそうです。罪人だと言っても、人間は、「役に立たない」とまでは言われる覚えはないと思います。しかし、イエス・キリストへの信仰を抜きにした神との関係においては、やはり、人間は「役に立たないもの」だったのです。「無益な者」だったのです。そうではないと反発する人間の心が、自分自身のことを「鯛」だと感じている心なのだというのです。たしかに自分にはダメなところはあるかもしれない、「でも腐っても鯛だ」と居直っているのが人間の現実だと植村正久は語っていたそうです。でも、タイであれアワビであれ、罪の下にある限り、人間は虚しい存在なのです。罪の下にある限り扱いにくく、役に立たないのです。

 13節からのちはその虚しい人間の有様が描かれています。13、14節では人間が言葉において罪を犯すことを語っています。15節ではその行いの有様です。その結果、人間はみずからは望んでいない悲惨の道を歩くのだと語られています。彼らの目には神への畏れがないと18節にあります。いま、聖書研究祈祷会では箴言を学んでいます。その箴言のもっとも有名な言葉と言っていいかと思いますが、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉が箴言1章7節にあります。神を畏れる、神を神として敬う、そこから神と人間の関係が回復されていきます。神の前で人間が豊かに生きる道があたえられます。そこから人間の本当の幸せが始まると言っていいでしょう。しかし、人間は神を畏れることができません。もちろん、古今東西で、人間のコントロールできない自然現象や運命の前で神を怖がるという意味でのおそれはあったでしょう。それが原始的な宗教の始まりであるとも言われます。しかし、人間は賢くなるのです。そして自分は賢くなったと考え、神を畏れなくなります。神を畏れるのは、知恵のない、科学技術のレベルの低い人間だと考えるようになります。先週、ペンテコステの礼拝においてバベルの塔のお話をしました。人間はたえず自分が神になり変わろうとします。そして自分で何でもコントロールできると考えます。人間がどんどん賢くなって、強くなって、神などいらず、すべてをコントロールできると考えていくとき、人間自身も、世界もいっそう悲惨になります。科学技術の発達そのものを聖書は否定していません。でも神を畏れない人間にはその技術を正しく使うこと、コントロールすることはできません。それは20世紀の悲惨な戦争とホロコーストの出来事を考えればすぐにわかることです。人間が賢くなって世界は素晴らしいものになったのか、まったくそうではありませんでした。罪の下にある人間は、自分の都合の良い勝手な欲望のために、まわりのものを利用しようとします。そこから世界の悲惨が生み出されます。神を畏れない、罪の下にある、罪の奴隷である限り、人間は悲惨な道を歩みます。

<神の憐れみのなかを歩む>

 だから神は、神を畏れない人間を一網打尽にやっつけよう、、そうは考えられませんでした。マタイによる福音書の9章36節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と主イエスのご様子が描かれています。神を神とも思わない、罪の下にある人間の悲惨を見て、なお主イエスは憐れまれました。同情されました。それは単に、ああかわいそうにという同情ではありません。はらわたよじるほどの思いをもたれたのです。飼い主のない羊は、迷います。群れから離れた羊は、その習性から、やがて野垂れ死にするのです。今日の聖書箇所の12節に「皆迷い」とありますが、罪の下にある人間は皆道に迷うのです。行きあぐねるのです。

 しかしその人間に、限りない神の憐みが注がれました。自分で自分の罪をどうすることもできない人間のために主イエスがその罪を贖ってくださいました。主イエスの十字架によって私たちは罪の奴隷から解放されました。罪の下にあった者が罪から解放されました。

 罪の奴隷から解放されたということは、もう一つの面から言えば、もう自分自身の力で正しくある必要はないということです。これは次の聖書箇所につながるところでもあります。私たちは精一杯、自分自身でどうにか自分をしていこうと頑張ってきました。自分自身で自分を正しくしようと頑張ってきました。

 それはとてもしんどいことでした。急な坂道を一生懸命自転車で漕いで昇るようなことでした。なぜいきなり坂道というかというとご存じのように私は長崎の出身ですから、長崎は坂道が多く、坂道に苦労したからです。もちろん大阪にも坂道はあります。しかし、長崎は本当に坂が多いのです。ですから、長崎で自転車に乗るのはたいへんです。私の実家の近くにやはりとても自転車では上がれないような長くて急な坂道がありました。当時は電動アシスト自転車などもありませんでしたから、そんなところを誰も自転車では上りません。しかし、その坂道を競輪の選手は訓練に使っていました。もちろんプロの競輪の選手ですから、その坂道を自転車で昇っていくのです。その姿を見てすごいもんだなあと感心した記憶があります。

 その坂を思い出しながら思うのです。私たちも主イエスなしで、自分で自分を正しくして生きて行こうとするのは、とんでもない級で長い坂道を自転車でこいで昇っていくようなものです。労多く、むなしいことです。普段生きていくとき、そんなことは意識しないかもしれません。でも自分のちっぽけな正しさのエネルギーで一生懸命ペダルをこいで生きていく、そのたいへんな生き方から解放されなさいと聖書は語っているのです。一生懸命漕いで坂を上がっても、結局、皆道に迷うのです。そんな弱り果てるようなところから神様は自由になりなさいとおっしゃっています。自分で自分の罪をどうしようもできないことを知り、言ってみれば神様に白旗を上げなさい、キリストと共に歩みなさい。そこから本当の自由の道が与えられるのだと聖書は語っています。キリストと共に歩む道にもまったく困難がないわけではありません。坂道もあります。でもキリストと歩む時、坂は低くされ、その歩む足は軽くされます。罪の下から放たれた心も体も軽く喜びにあふれます。


使徒言行録 2章1~13節

2017-07-14 13:04:44 | 使徒言行録

2017年6月4日 ペンテコステ礼拝 説教「みことばがあなたの近くに」 吉浦玲子牧師

<神の出来事としての教会の誕生>

 御子イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマス、復活を祝うイースターとならび、キリスト教の三大祝祭のひとつであるペンテコステを迎えました。

 ペンテコステは聖霊の降臨を祝います。その聖霊の降臨のときの様子が今日お読みした聖書箇所に記されています。聖霊に降臨の10日前、主イエス・キリストは天に昇られました。そののちキリストは地上には不在でした。そのキリスト不在の9日間を弟子たちは、どのように過ごしていたのでしょうか。かつてキリストが十字架におかかりになり死なれたのちのように怯えて過ごしていたのでしょうか。そうではないようです。彼らはその期間、祈りつつ待っていたのです。主イエスが約束された聖霊が与えられる日を待っていました。彼らはふたたび自分たちの前から主イエスがおられなくなった、そのことにまったく不安や恐れがなかったといえばそうではなかったかもしれません。しかし、彼らは心を合わせて熱心に祈っていたのです。今日の聖書箇所の前の部分を読みますと、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた(1:14)」とあります。また、主イエスを裏切って自殺したイスカリオテのユダの代わりの使徒を選出しています。彼らは、祈りつつ、いまできることをやりながら、来るべき日を待っていたのです。

 その祈りつつ待っていた共同体に聖霊が降りました。今日の聖書箇所には、そのときの激烈な、そしてまた神秘的な様が描かれています。突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたとあります。

 私たちは聖霊というと、霊という言葉がありますから、なにかふわふわした捉えどころのないもののように感じてしまいます。しかし、聖霊は、神です。父なる神、子なる神と並ぶ、神です。その神がおくだりになる、そのときに家中に響くようなものすごい音がしたというのはある意味当然なのです。かつて出エジプトの民のまえで神が顕現する時、シナイ山ははげしく山全体が震えた、そして雷鳴を持って神は答えられたと出エジプト記にはあります。そういうことを考えますと、神である聖霊が降られる時、激烈なことが起こるのは不思議でもなんでもありません。

 そしてまた、<その激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ>とありますが、この天とは、単に上の方、空と言うことではありません。神の支配されている所、つまり人間の世界の外から来たということです。そしてある先生はこの箇所の「風が吹いて来るような」の<来るような>というところが重要なのだとおっしゃっています。つまり、風が吹いてきたわけではない、風が吹いて来る<ような>としか表現できない、人間の捉えることのできない現象が起こったのだということです。人間の理解を越えた出来事、つまり神の出来事が起こったということです。

 ペンテコステは教会の誕生日だと言われます。2000年前のこのとき、神の出来事が起こり、教会が建てられたのです。さきほど、ペンテコステの前に新たな使徒を弟子たちは選出したとありました。しかし、使徒が12人そろったそのときが教会の誕生ではありませんでした。天から風の吹いて来るような激しい音がした、その神の出来事によって、教会は誕生したのだと聖書は語っています。ある神学者は教会はこの世界のどのような組織とも社会とも異なると語っています。神が建てられたのですからそれは当然です。見た目の組織や制度はこの世の組織のように見えることはあります。また人間の集まりとしてそこに人間的なさまざまな思惑や意見もあるでしょう。しかし、教会は神によって建てられ聖霊によって導かれている、それはペンテコステの日から変わらぬことなのです。

<言葉の回復>

 その神なる聖霊がくだったとき、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した出したとあります。たいへん不思議なことが起こりました。120名ほどの人々がそれぞれに語りだした。異様な光景です。しかし、ここで何か熱狂的な陶酔状態が起こったわけではありません。今日お読みした最後のところでは、その光景を見て「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」という人もあったことが記されています。実際、異様な光景ではあったのでしょう。が、それは単なる陶酔状態や酩酊状態ではなく、あくまでも言葉を語り出したのです。それも神の福音をそれぞれに外国の言葉で語り出したのです。その言語を知っている人には、明確に聞き取れる言葉として語られたのです。

 この出来事は、最初にお読みしました創世記のなかのバベルの塔の出来事と関連していることを御存じの方もおられるかと思います。ノアの箱舟で有名なノアののちの時代、人間は思い上がって、その傲慢の象徴と言うべき高いバベルの塔を造ろうとしました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言ったとあります。天まで届く、というのはまさに神への挑戦です。神の領域を犯そうとする思い上がりがあったということです。そして自分自身が有名になる、それは神を第一にするのではなく、自分が第一になろうとすることです。その人間の愚かさを見て、神は人間の言葉を混乱させられました。それまで同じ言葉をしゃべっていた人々の言葉を互いに聞き取れない言葉にされました。そして人間が集まって、一緒になって愚かなことをなすことを止められました。バベルというのは混乱という意味です。バベルの塔以来、人間の言葉は混乱していたのです。人間の自己中心的な心により、言葉が混乱したのです。神が混乱させられたのです。

 しかし、ペンテコステの日、言葉の混乱が取り去られたのです。ひとりひとりが自分の国の言葉ではなく外国の言葉を話しだしたのです。もちろんペンテコステのまえにも、違う言語を話す同士の人間も、外国語の習得は行っていたでしょう。また通訳なり翻訳を通して意思の疎通を図ることはできていました。実際、この当時、ローマと言う強大な帝国があり、その帝国は、力によってさまざまな言語をもつ多くの民族を支配していたのです。ローマの意思はローマの標準語を話す人々以外にも伝えられたのです。

 しかし、ペンテコステの日に伝えられたことは、神の言葉でした。

 愛の言葉でした。その愛は単に優しい言葉とか、困った人を慰める言葉とか、社会的に差別されている人を解放する言葉といったようなヒューマニズムの言葉ではありませんでした。その言葉は神の救いの言葉でした。人間の愚かさ、罪から救う言葉でした。罪によって切り離されていた神と人間の関係を回復させる言葉でした。十字架と復活の言葉でした。人間のすべての苦しみの根源にある罪から救われるための言葉でした。天まで届くバベルの塔を造ろうとし、たえず神に成り替わろうとする人間の心には平安がありませんでした。たえず<もっと高く><もっと強く>と際限なく駆り立てられ、疲れていく病んでいくような人間を安らかにする慰めの言葉でした。

<聖霊の働き>

 ペンテコステの日、今日の聖書箇所ののちの場面となりますが、ペトロの大説教が行われ3000人の人が洗礼を受けたとあります。これは神の業が言葉によって伝わったということです。確かにそれは人間の言葉によって語られたのです。神がテレパシーや超常現象を使って人間に伝えられたのではありません。ペトロ自身の言葉として伝えられました。神は人間を用いられ、そしてその言葉は聞いていた人々に通じたのです。それはペトロの説教が巧みだったからではありません。まさにペトロに聖霊が与えられていたので、その語る言葉が命の言葉として人々に伝わったのです。実際、ペトロは、ある意味、とんでもないことを語っているのです。人々の罪をはっきりと語ったのです。普通なら、聞いている人々は怒り狂いペトロや弟子たちは酷い目に遭っても仕方のないことを語ったのです。「ですからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」とペトロは語っています。イスラエルは十字架にイエスをつけて殺した、つまり「あなたがたは殺人者だ、罪人だ」と言っているのです。この場には出身地はさまざまであっても、ユダヤ教徒もしくはユダヤ教への改宗者がいたと思われます。つまりまさにイスラエルに連なる人々がいたのです。そのイスラエルの罪をはっきりとペトロは語りました。それに対して、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれた」とあります。聖霊によって自らの罪を悟り人々は悔い改めたのです。その人々が3000人洗礼を受けたのです。

 この聖霊はいまも私たちに働いています。その働き方はさまざまです。最初のペンテコステの時のように、時として激しく聖霊が働かれる時もあります。しかし、多くの場合は、そうではありません。むしろ私には聖霊の力は及んでいるのだろうか?と思うこともあるくらい感じにくいかもしれません。しかし、教会に導かれている、ここにおられるすべての方に聖霊の力は及んでいます。聖書を読み、御言葉に心打たれる時、聖霊は働いています。

 熱狂主義と混同されては困るのですが、聖霊が働く時、涙がこぼれる時もあります。悲しいわけでもなく、映画や小説を読んで感動するのとは違う不思議な思いに囚われて涙がこぼれる時があります。いつものように普通に祈りながら涙がこぼれるときがあります。あるいは、ふとした人の言葉に神の御旨を感じ打たれてふるえるようなこともあります。

 そしてさらにキリストを主と信じ洗礼を受けるとき、なお聖霊は私たちの内側に与えられます。今日の聖書箇所の3節に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまった、とあります。<大きな>炎のような舌が、皆の上にとどまったのではなく、<分かれ分かれ>に現れ、ひとりひとりのうえにとどまったのです。これは、聖霊が十把一絡げにあたえられるのではなく、一人一人に個別に与えられるということです。そして、その聖霊を与えられた一人一人が言葉を語り出したのです。

<神の良き道具として>

 ギリシャ語の原語では、3節の「舌」という言葉と、4節の他の国々の言葉とある、「言葉」は、同じ単語になります。「舌」というギリシャ語には「言葉」という意味もあるのです。つまり舌が分かれ分かれに現れた時、それぞれの人に言葉が与えられたのです。人とつながる言葉を与えられたのです。宣教の言葉を与えられたのです。だからといって、皆が皆、講壇の上に立って説教をする役に召されているわけではないでしょう。毎日、だれかに神様のことを話ししなさい、自分の信仰を証する機会を持ちなさいということでもないでしょう。しかし、なお、私たち一人一人は、それぞれの場でそれぞれのあり方で、宣教をする言葉を与えられているのです。それは私たちの力で行うことではありません。聖霊に満たされた私たちのうちで聖霊が働いてくださり、私たちを用いてくださるのです。

 言ってみれば私たちは神の良き道具として用いていただけるのです。道具と言われると、何か主体性がなくてつまらないように感じられるかも知れません。しかし、本当に聖霊に満たされて用いられる時、本当の意味で、私たち一人一人の個性、神からの賜物が生かされるのです。そして用いられた時、私たちも喜びに満たされるのです。

 聖霊について、ある神学の先生はこうおっしゃっていました。父なる神、天地創造の神はあまりにも大きな存在で、人間には理解することができない、だから人間の姿をとってへりくだってこの世界に来られ人間に理解できる言葉を語られたのが子なる神、イエス・キリストである、そしてさらに、その神が小さくへりくだり、とうとう私たちのうちに存在してくださるようになった、それが聖霊なる神である、と。

 小さく小さく私たちのうちにいてくださる神、聖霊ですが、聖書には「聖霊に満たされ」とあります。前にも言いましたが、満たされというと、気体か液体のように、充満しているイメージがあります。しかし、最初に言いましたように聖霊は神なのです。その神である聖霊に満たされるとはどういうことでしょうか。それは聖霊なる神に人間が委ねた状態であるといえます。存分に聖霊が働いてくださっている状態と言えます。聖霊はペンテコステの時以来、そしてまた洗礼を受けた時以来、確かに私たちのうちに働かれますが、私たちの勝手な思いで、聖霊の働きを邪魔するようなこともあります。しかし私たちが心素直に聖霊なる神に委ねる時、聖霊は私たちのうちで大きく働いてくださいます。聖霊が私たちを存分に用いてくださいます。愛の言葉を語る者としてくださいます。まことの喜びの言葉を伝える者としてくださいます。


ローマの信徒への手紙 3章1~8節

2017-07-14 12:57:28 | ローマの信徒への手紙

2017年5月28日 主日礼拝説教 「神は真実な方」 吉浦玲子牧師

 リュティという神学者は今日読まれましたローマの信徒への手紙3章1節からを「天国への門」であると言ったそうです。今日読まれた箇所は、日本語としては難解なところはなく、なんとなく理解できても、背景がわからないとスッと入って来ない所かと思います。ただ、どうもパウロは厳しいことを言っているらしいと、まず感じます。神の誠実とか人間の不誠実、また神の怒りや裁きといった言葉が出て来ます。この箇所は「天国への門」なのかもしれないけれど、多くの人がその先に進みがたい雰囲気があります。

 一方で、ある神学者は今日の聖書箇所を「人間の屁理屈が現れている箇所」といった言葉で説明をしておられます。実際、伝道者パウロは多くの自分への反対者に対して、その反対者たちの言葉が屁理屈であって信仰的でないことを、多くの手紙に置いて指摘しています。今日の聖書箇所でも、パウロは自分への反対者を想定して、言ってみれば仮想的な議論を展開しているのです。議論のシュミレーションをしていると言ってもいいかもしれません。意味の取りにくいところは、パウロ自身が、当時自分へ向けて非難された言葉をそのまま引用して反論していることからくるようです。

<ユダヤ人の優れた点>

 まずパウロはユダヤ人の優れた点について述べています。今日の聖書箇所の前の2章では、ユダヤ人であれ異邦人であれ、神の裁きの前では公平なのだということをパウロは述べています。律法を与えられているから、また、肉体的に割礼を受けているから、神の裁きをまぬがれることはないのだと語っています。

 しかしなお、神に特別に選ばれた民としてユダヤ人には優れた点があると今日の聖書箇所でパウロは語っています。それは先週にもお話したことと関連しますが、旧約聖書のアブラハムの時代から、ユダヤ人は選ばれた民としてあった、特別な存在意義があった、そのことをパウロは認めているのです。そしてそれが具体的に語られているのが2節の「神の言葉をゆだねられたのです」ということです。神の言葉を委ねられているという点に置いてユダヤ人は優れている、その特別な存在意義が認められるというのです。たしかにユダヤの人々はその長い歴史のなかで「神の言葉」を保ち続けていたのです。もちろん、主イエスによって、また、パウロによって、「神の言葉」をゆだねられ、保ち続けてきながら、その神の言葉に本質的には、従順ではない、見かけだけ従順なふりをして、その心において神の言葉を軽んじているという批判は受けています。しかしなお、ユダヤ人は神の言葉を託され、その言葉を担って来たことは間違いないのです。パウロ自身もファリサイ派と呼ばれる聖書の専門家でした。そのファリサイ派をはじめ、神の言葉を熱心に研究し、守ろうとしていた人々がユダヤ人だったのです。紀元前6世紀の王国の崩壊、バビロン捕囚、そのような悲惨なイスラエルの長い長い歴史の中で、「神の言葉」は捨てられることはありませんでした。むしろ、そのような悲惨をくぐってきたゆえにユダヤの人々は「神の言葉」を自分たちの存在の根幹にかかわるものと認識したのです。ですから、国の崩壊という壊滅的な出来事にあってもなお「神の言葉」を歴史のかなたにうずもれさせることなく担って来たのは事実です。そのことにおいてユダヤ人は優れているとパウロは評価しているのです。

 「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで神の誠実が無にされるとでもいうのですか」とパウロは畳みかけていいます。たしかにユダヤ人は「神の言葉」をになって来ました。しかし、担いつつ、先ほども申し上げたように、神を心において軽んじ、神と隣人とに対して不誠実なことをユダヤ人はしていました。それに対して、「神の言葉」を担っている者たちが不誠実だからといって担われている「神の言葉」の主である神ご自身が不誠実であるとは言えないとパウロは言っているのです。

 たとえば主イエスを信じる信仰者が、やはり罪人であり、人から見て不誠実なことをするということも現実的にはあり得ます。あんな人が信じている宗教なんて信じられない、あの人が信じている神なんて価値がないのではないか、そう感じられてしまうということは残念ながらあります。教会の歴史においてもそうです。初めて教会に来られた方と何回かお話しして、かなりの確率で出てくる話題は2000年の教会の歴史の中で、教会が行って来た罪深いことへの質問です。十字軍もそうですし、アウシュビッツを作った国家はキリスト教国だった、そんなこともあります。近年でもさまざまに国際的な紛争においてキリスト教を信じている国や民族が正しいことをしているようには見えないことがいくらでもあります。過去の、そして現在の、キリスト教徒に悪い奴がいたから、また教会が悪いことをしてきた、だから、そんな人たちや教会が言っている神は信じられない、あるいはそんなはっきりとした不信感ではなくても、なんとなく不安を覚えるような感覚を持っておられる方は多いのです。ここでパウロがいっているのはこれと同じような話です。

<神の誠実>

 だからといってここでパウロは神様が不誠実と思われないように信仰者はみんな誠実でありなさい、教会はきっちりしなさいと言っているのではありません。それは人間の罪ということを考える時、無理なことです。あくまでもここでパウロが言っているのは神の誠実です。人間が、それも神の御言葉を担って来た人間が、今日でいえば、主イエスの信仰を持っている人間がどれだけ不誠実であったとしても神の誠実は絶対に変わらないということです。「あなたは、御言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と4節に引用されているのは詩編51編の6節です。これは新共同訳の51編6節と言葉が異なります。言葉の相違は、パウロの引用は、当時、広く読まれていた旧約聖書をギリシャ語に訳したものからの引用だからです。ですから、ヘブライ語から訳された新共同訳と少し違うのです。その詩編51編6節で言われていることは「法廷の裁判で最後に勝利を得られるのは神である」ということです。新共同訳の訳では「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」となっています。この詩編51編はダビデが人妻のバトシェバと犯した罪を背景にした悔い改めの詩でした。人間はどこまでも罪深く、しかし、神はどこまでも正しい。人間の罪の闇の中でむしろ神の正義の光は輝いている、そのことがこの詩編51編の言葉で分かります。

<神の栄光のために罪を犯そう?> 

 しかしまた、ここでひとつの「屁理屈」がでてくるのです。人間の罪の闇の中で光が輝くように神の正義が現れるのなら、いっそ罪の闇が深い程、神様の光がわかりやすくなるのではないか、つまり5節にある「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら」というのは、人間は不義であったとしても、それで神様の義が明らかになるなら人間が不義であることはそんなに悪いことではないのではないかという言葉なのです。「人間の論法に従って言いますが」とは、このような「屁理屈」を言うことを人間の論法とパウロは痛烈にいっていることです。7節に「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう」とありますが、これも同じ「屁理屈」です。自分の偽りによって神の栄光が現わされているんだから自分が裁かれるのは不当だと言っているのです。

 実際、パウロを批判する人は、パウロが「善が生じるために悪をしよう」と言っていると責めていたようです。それに対してパウロは反論しているのです。

と ころでもう一度ここで、神の言葉である律法というものを確認しておきます。律法は神と隣人へのあり方を示したものです。しかし、罪人である人間は律法を守ることができませんでした。表面上の文字面での戒めは守りましたが、キリストの十字架と復活、また聖霊の降臨より前は、人間は本当の愛と慈しみに生きることはできませんでした。律法を守れなかったのです。じゃあ律法は無駄だったのかというとそうではなく、律法は、人間の罪を映し出す鏡のようなものとなったのです。ある先生は律法は罪を映し出すレントゲン写真のようなものとおっしゃっていました。律法によって人間は自分の罪を照らし出されるのです。ローマの信徒への手紙の少し先の所になりますが、「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5:20)恵みはキリストゆえの救いと関わることですが、こういうところを、字面だけ都合良く読むと、パウロは「罪が増したから恵みも満ちたと言っている。つまり罪があるから恵みがあるといっているじゃないか、だからパウロは恵みのために悪をなそう、善が生じるために悪をしようといっているのだ」と結論付け、批判するような人々がいたのです。そのような反対者に対して、パウロは「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と厳しく言っています。

<キリストのゆえに神の前に立つことができる>

 パウロでなくても、誰が聞いても、神に栄光が現れるように不義を行おうなどという言葉は愚かで欺瞞的に感じられます。しかし、なおここで考える必要があります。パウロは確かにそのような屁理屈を言う自分への当時の批判者を具体的に想定して語っているのですが、神の前で屁理屈をこねるのは、そもそも人間の性質なのだということを私たちは受け止める必要があります。

 神の誠実ということをパウロは前半で語っていました。人間が、あの人は誠実であるというとき、どういう尺度で誠実だと感じるのでしょうか。嘘をつかない、言うことがころころ変わらない、言ってることとやっていることが一致している、相手によって態度や言うことを変えない、いろいろな要素があるかと思います。たとえば会社員で上役には良い態度をして、部下や立場の弱い取引先などにはひどい態度をとる、そういう人は誠実であるとは感じません。あるいは普段は誠実そうな人が、たとえば、レストランなどに行ったとき、そこのお店の人に傍若無人な対応をしていたら、がっかりします。どんなにその人が自分には親切に丁寧に接してくれたとしても、そういう人は本当の意味では誠実な人とは感じられません。

 一方で私たちはパウロが言うように神が誠実な方であることを知っています。人間である私たちが不誠実であったとしても神はどこまでも誠実な方だと思っています。しかしそう思いながらも、私たちの望む神の誠実は、どこまで行っても、自分を中心に据えた神の誠実さであることを認めざるを得ません。自分に都合の良い神の誠実さをどうしても人間は求めます。

 しかし、神の誠実は、正しくないことに対して怒りを発せられる誠実さであり、裁きの日に厳格に裁きをなさる誠実さです。その誠実は誰に対しても平等なのです。人間にはそのような誠実が耐えられないのです。自分だけはどうにかその平等な裁きから言い訳をして逃れたいと思います。人間の罪の本性のゆえに神の誠実さ、平等さは耐えられないのです。

 最初にリュティがこのローマの信徒への手紙の三章は「天国への門」だと言っていると申しました。パウロはここで厳しいことを書いています。神の前で屁理屈をこねる、神の誠実を自分中心にとらえる人間の姿を描いています。律法は罪を映し出すレントゲン写真だと言いましたが、今日の聖書箇所もまた、人間の罪をパウロによってあきらかにされている箇所であると言えます。

 私たちの罪が明らかにされただけであるなら、この箇所は「天国への門」ではありません。しかしなお、この箇所は「天国への門」なのです。私たちはキリストのゆえに、私たちの罪があきらかにされることを恐れる必要がないからです。私たちはキリストの十字架と復活の救いの業のゆえに、神の誠実の前に、正直に罪の姿のままで立つことができるのです。屁理屈をいって罪を認めないのではなく、恐れることなく罪を認め、悔い改めることができるのです。人間の本性として神の前で屁理屈をこね、自分の不誠実を隠したいところですが、キリストのゆえに私たちはもうそうする必要はなくなりました。

 最近、私は飛行機に乗ることはないのですが、飛行機に乗る前にはテロ対策で厳重に持ち物検査があります。荷物を調べられ、X線装置のなかを通って危険なものを体に身につけていないか隠していないかも調べられます。その結果、なにも危険なものを持っていないと判断されれば飛行機の搭乗ゲートへ向かうことができます。今日の聖書箇所はその飛行機搭乗前の持ち物検査、身体検査に似ています。「天国への門」の前で、私たちは自分を吟味することを求められます。ただ、心素直に神の誠実の前に立つことを求められます。自分の持っているものをすべて神の前に置くのです。自分の罪を差し出すのです。自分の心を神のX線装置にさらすのです。そしてそこで自分の本当のみじめさ、罪の姿があきらかにされます。しかしそれは絶望ではありません。その本当の自分の姿のままで立つ時、キリストが共におられるゆえ、罪を悔い改めることができます。罪を赦されます。そして神の国の門が開かれます。本来は乗ることのできなかった飛行機の搭乗ゲートに案内されるように、私たちは神の国の門へと導かれるのです。