大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書2章1~12節

2018-06-08 17:06:24 | ヨハネによる福音書

2018年5月13日 大阪東教会主日礼拝説教 「水がぶどう酒に変わる」 吉浦玲子

<喜びの場におられる神>

 カナで婚礼がありました。にぎやかな婚礼の場面です。若い夫婦の喜ばしい生活のスタートの場面です。カナがどこにあったかは実はいくつかの説があるようです。しかし、おそらくガリラヤ地方のどこかのそう大きくはない町であったでしょう。田舎の素朴な喜びに満ちた祝いの宴です。豪華なものではなかったでしょうが、そこにはつつましい華やぎがあったことでしょう。

 しかし、その喜びの宴は、危機を迎えます。ぶどう酒がなくなってしまったというのです。当時、婚礼の宴は数日に渡って続けられたようです。当然、主催者は、必要なぶどう酒を準備する必要がありました。婚礼の宴でぶどう酒がなくなるということはたいへんな失態です。披露宴を開いた若い夫婦とその両親たちは貧しかったのかもしれません。いずれにせよピンチです。肝心な時にだいじなものがなくなる、突然事態が暗転してしまう、そういうことは人生に良くあります。

 ヨハネによる福音書ではこの2章から主イエスの本格的な宣教活動が記されています。その主イエスの宣教のお働きの最初の出来事がこの「カナの婚礼」の出来事でした。喜びの婚礼の祝いの宴が危うく壊れてしまいそうなところを、主イエスが助けてくださった、そのような場面です。

 ここで描かれているのは、病が癒される、とか、悪霊が追い出される、とか、転覆しそうな船が守られるというような奇跡ではありません。水がぶどう酒に変えられた、ある意味、他愛のないような奇跡です。もちろん、当時の婚礼の宴は今日の結婚式の披露宴よりもっと大きな意味を持っていました。若い花婿花嫁にとって、そしてまたその二人を送り出す家族にとって、一大イベントでした。それに招かれる人々にとっても大きなことでした。ここで失態を犯すことは今日の披露宴以上に花婿花嫁の両家に泥を塗ることであり、若い二人の門出をつまずかせることになります。当然、準備はされていたと考えられます。当時は、多くの庶民は、ぶどう酒を普段は飲めない貧しい生活だったという方もおられます。その貧しい生活の中から、婚宴の準備のため、花婿花嫁、その家族たちは備えて来たのです。

 そのような背景があるにしても、主イエスがなさった他の奇跡に比べて、今日の聖書箇所の奇跡は直接命にかかわることでもない奇跡であるのは事実です。しかし、この奇跡が主イエスの最初の「しるし」としてヨハネによる福音書に知るされていることを私たちは良く良く味わう必要があります。

 水がぶどう酒に変わる、他愛のないような奇跡だと申しました。しかし、一方でイスラエルにおいて、ぶどうは特別な果物でした。オリーブやイチジクと並んで豊かさの象徴でした。この婚礼の1000年ほど前、当時エジプトで奴隷であったイスラエルの民は荒れ野を旅して、ぶどうのたわわに実る豊かな土地をめざしました。出エジプトの民のなかの偵察隊がむかうべき土地の偵察に行ったとき、その土地がたしかに豊かな土地であることを示すために持ち帰ったのが一房のぶどうのついた枝でした。その豊かさの象徴であるぶどうから作られたぶどう酒は喜びの象徴でもありました。そしてまた宴は神と共にある喜びの象徴でした。イザヤ書25章に終末の日の祝いの宴の様子が記されています。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を共される。」古い酒というのは、こくのあるぶどう酒をさします。ヨハネの黙示録でも記されている終わりの日、キリストの再臨ののち、新しい天地が現れる時、人々は喜びの宴に招かれます。そこでこくのあるぶどう酒、つまり最上級のぶどう酒が与えられるというのです。そのような神の国の喜びの象徴でもあるぶどう酒が、婚礼の席に、祝いの席に欠けてしまうということは、喜びが取り去られるということを象徴しています。

 しかし、そこに神がおられます。イエス・キリストがおられます。なくなってしまったと思われたぶどう酒が与えられます。人間が準備したぶどう酒よりも、もっと素晴らしいぶどう酒が与えられます。なぜなら神は喜びの源の神だからです。祝福の源の神だからです。ヨハネによる福音書の1章に、言なる神であるイエス・キリストはこの世界に来られた光であったと書かれていました。光なる神が共におられるのです、だから失敗や欠乏といった闇はかき消えてしまうのです。水は喜びのぶどう酒に変わるのです。

 水がぶどう酒に変わる、それがヨハネによる福音書の奇跡の第一に記されている、それはなによりキリストが人間の喜びのために来られたことを現わしています。しるしというのは、単に物質を変化させた奇跡がすごいというのではなく、そのことを通じ、神ご自身を喜びの源として現わされたという意味においてしるしなのです。

<イエス様への態度>

 ところで、今日の場面で、主イエスによって水がぶどう酒に変えられたことを知っている人々は限られています。この宴にあって、喜びの中にあって、主イエスがおられたから、ぶどう酒が尽きることがなかったことを知っている人は、主イエスの母マリアと召使いたち、そして弟子たちだけです。ところが、主イエスのなさったしるしを知っていても知らなくても、みな、喜びの宴にあずかっているのです。最上のぶどう酒に心地よく酔っているのです。

 私たちは神の祝福の中にあって、その祝福の源が神であることに往々にして気づきません。だれそれが頑張って準備をしてくれた、運が良くてたまたま手に入った、自分の努力で手に入れた、そう考えます。たしかに誰かが骨を折ってくださったかもしれませんし、自分自身もがんばったかもしれません。しかし、その背後に神がおられることを私たちはつい忘れてしまいます。そこに人間の業やたまたま運が良かった、そのようなことだけを見て、その祝福の内に、喜びの内に共におられるイエス・キリストの姿を見失います。そのとき、私たちは本当の喜びを失います。ただこの世的なひとときの酔いに身をまかせるだけになります。喜びは刹那的なものとなります。

 さて、イエス様の母マリアは、いち早く、ぶどう酒が足りなくなっていることに気づきます。一説によりますと、当時は女性は宴席に連なることがゆるされず、母マリアは裏方で手伝いをしていたのではないかといわれます。そのように裏方で手伝いをしていたゆえに、いち早く、ぶどう酒が足りないということに気づき、マリアは主イエスに耳打ちしたのかもしれません。それに対するイエス様のお答えは、ひどく冷たいお言葉です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」息子の母への言葉としてはとんでもないものです。このとき、マリアはどのくらい、主イエスが人であると同時に神である方であることを理解していたかは分かりません。おそらくある程度は息子に不思議なものがあることを感じていたのでしょう。主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」とお答えになりましたが、主イエスがご自身の特別の時を持っておられることを、マリアは少し感じていたのかもしれません。洗礼者ヨハネは主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。その神の小羊である主イエスが、まさに世の罪を取りのぞかれる十字架におかかりになり、犠牲の小羊となる、その時こそが、「主イエスの時」でした。その時はまだ来ていない、だから今、私はことを起こすことはできない、そう主イエスはお応えになりました。しかし、マリアは希望を捨てていませんでした。召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。

 たしかにまだその時は来ていないのです。十字架の時は来ていません。しかし、すでにキリストはこのカナにおられるのです。その「主イエスの時」をマリアがどこまで理解していたかは分かりませんが、ここにこのイエスがいる、そのことのゆえに、マリアは希望を持ちました。

 そしてマリアから「そのとおりにしてください」と言われた召し使いたちは、マリアの言う通りにしました。召し使いたちは、主イエスのことは何も知りませんでした。イエス様はまだ伝道を開始されたばかりで、その奇跡の噂は広まっていなかったでしょう。召し使いたちは大事な宴席に招かれた客の言葉なので、従っただけでしょう。

 召し使いたちは二ないし三メトレテス、つまり、80から120リットルほどの容量の水がめに水を運びました。主イエスがどなたであるか、その命令の意味が何であるかも知らず水を運びました。100リットルというとかなりの量です。楽な仕事ではなかったはずです。その運ばれた水はぶどう酒になりました。それも良いぶどう酒になったのです。味見をした世話役は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と花婿に言います。良いがまわったころに劣ったものを出すというのはこの世の限りある喜びの象徴です。人間のなすことの限界を示しています。しかし、神は、なおよいぶどう酒を豊かに出されます。神によって宴はまことの喜びに満ちたものとされます。この宴は、教会における礼拝でもあります。礼拝には目に見えるぶどう酒も御馳走もありませんが、礼拝はさきほど申しましたイザヤ書に描かれていた終わりの日の宴のさきどりでもあります。いまたしかにここにキリストがおられ、私たちは喜びの席にいるのです。キリストと共に、この世とは異なる喜びを味わうのが礼拝です。

 ところで、ある説教者はこの場面について、水を運んだ召し使いたちはただ水を運んだだけであると語ります。彼らにとって何の変哲もない水であり、その水を運ぶこと自体は大した仕事ではなかった、でも、神はその水を良いぶどう酒に変えてくださるお方なのだ、ひるがえって考える時、私たちの日々も水を運ぶようなものである。日々、何の変哲もない水を淡々と運び続けるのがわたしたちの人生である、でもその水を良いものに変えてくださる方がたしかにおられる、だから希望を持って私たちは毎日水を運ぶのだと語ります。

 しかしまた考えますと、この水を運んだ召し使いたちは、水がぶどう酒に変えられたことを知っていますが、そのぶどう酒をみずから口にすることはなかったのではないかと思います。彼らは水を運んだだけで、ぶどう酒の喜びにあずかることはなかったのではないかと考えられます。こういうことも私たちの人生には往々にあります。私たちのなしたことの祝福の行方を私たち自身は味わえないこともあります。しかし、私たちが運んだ水が誰かの喜びとなる、私たちが運んだことはけっして無駄ではなかった、そういうこともあります。私たちにはただつまらない水を運んでいるだけのようなことが、神の御手によって喜びの源とされる、そのことを信じて運ぶ時、その喜びの先は知りえなくとも、私たち自身の働きも輝かされる、そういうことがあるのだと思います。逆にそうでなければ、私たちの日々の意味はないです。私たちの日々の業のすべてに主の御手が働いていてくださる、だから私たちはどのようなことも安心をしてなしていくことができるのです。人間の目からはただの水に過ぎない、ただ水を運ぶことしかできない、そのような繰り返しの日々が神によって豊かな意味を与えられます。

<きよめてくださる方>

 ところで、召し使いたちが運んだ水がめは清めに用いるものだったと記されています。当時のユダヤの人々は律法をしっかり守っていたのです。食事の前に、しっかりと身を清めたのです。それは衛生的なことではなく、宗教的なことがらでした。宗教的な汚れを清める、それは重要なことでした。

 その清めのための水がぶどう酒に変えられました。それはなにを意味しているでしょう。それは本当の汚れ、私たちの罪による汚れは、けっして水では清められないことを示しています。水で清めるのではなく、神の小羊であるキリストによって清められなければけっして汚れは取れないということです。汚れを取るためには、一生懸命、戒律を守るのではなく、キリストと共にあることが必要なのだということがしめされています。

 すでに喜びの神であるキリストは共におられる、清めの水は要らないのです。キリストが来られたのです。ですから、戒律でがんじがらめの不自由から解放されて、豊かなぶどう酒で喜び祝うのです。現実の私たちの日々にも突然、ぶどう酒が取り去られるようなことがおこります。ささやかな平安な日々が壊れてしまう。失われてしまう、そのようなことが起こります。しかし、それでも、そこにキリストがおられることを信じる時、水がぶどう酒に変えられるのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」そうあります。

 祝福にあずかる私たちはイエスを信じます。そして私たちは清めの水ではなく、主イエスご自身の霊によって与えられた洗礼によって、罪から救われました。その私たちと共に今もキリストはおられます。日々、水を運びながら、信じる者たちは、そこに祝福があることを、豊かな未来への希望があることを知らされます。


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