大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第14章66~72節

2021-06-13 14:01:19 | マルコによる福音書

2021年6月13日大阪東教会主日礼拝説教「神を裏切った男」吉浦玲子 

<神を知らないと言った男>  

 今日の聖書箇所は、受難節にお読みすることの多い有名な場面です。主イエスが逮捕された時、弟子たちは、皆、イエスを置いて逃げました。しかし、ペトロはやはり主イエスのことが気になったのでしょう。主イエスが連行された大祭司の家の庭に入り込んでいました。他の福音書には弟子の中に大祭司の知り合いがいて、この庭に入ることができたと記されています。大祭司の家では、主イエスに対する裁判が行われていました。その裁判は当時の法と照らし合わせても不法なあり方で行われていました。大祭司の家では、まさに夜の闇に乗じるように、ある意味、国家レベルの犯罪が行われているのです。そしてそのまさに不正な裁判が進んで行く横で、ペトロという一人の人間の罪もまたこの夜明らかにされていくのです。 

 さて、自分が主イエスの仲間であることを素知らぬ顔をしてペトロは他の人々とたき火に当たってました。主イエスが捕らえられたのは春の祭りである過越し祭の期間でした。春であっても、イスラエルの夜はかなり冷え込みます。ですから火が焚かれ、皆があたっていたのです。その中で一人の女中がペトロの顔をじっと見つめて言います。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。そもそも、過越し祭でエルサレムは普段の人口の二倍とも三倍ともいわれる巡礼者でにぎわっていました。そして、多くの群衆が主イエスの動向に注目しました。その主イエスの一番弟子として、イエスの側にいつもいたペトロもおのずと顔が知られていたのです。 

 「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」とペトロは狼狽して女中に答えます。イエスなんて知らない、自分は関係がない、そうペトロは答えたのです。自分自身の身に危険が及びそうなとき、このような、ある意味、卑怯な態度を取るというのはそれほど珍しくはないことです。褒められるような態度とはけっして言えませんが、この状況の中で、それは大きな罪でしょうか?成り行きを心配して、大祭司の家まで入り込んでいたペトロです。面が割れていることを考慮しない愚かさはありますが、彼に大きな罪はあったのでしょうか? 

 ペトロは出口の方に向かいました。しらを切って、その場を立ち去ろうとしたのです。このまま立ち去れていたなら、ペトロは自分の罪を知ることはなかったでしょう。自分が主イエスの仲間であることを否定した、そのことの重大さを知ることはなかったのです。ここで鶏が鳴きます。これもとても有名な場面です。主イエスが、ご自身の逮捕前に、ペトロの裏切りを予告されたときおっしゃったことが実現したのです。「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 

 さらに女中はペトロは「この人は、あの人たちの仲間です」と言い、再度ペトロは打ち消します。さらには居合わせた人々までペトロのことを連中の仲間だと言います。それに対して、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら否定します。つまり「自分が嘘をいっているとしたら神に呪われてもいい」と言って強く否定したのです。その時、再度、鶏が鳴きました。主イエスのおっしゃっていた「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」という言葉が実現しました。その時、ペトロはその言葉を思い出し泣き出します。 

<何が罪か?> 

 何が罪であるのか?というと、それは日本においては、法律に反すること、さらには倫理や道徳に反すること、仁義に反することであると考えられます。たしかにペトロは嘘をつき、また先生である主イエスを裏切ったのですから良いことをしたとは言えません。しかし、さきほども申し上げましたように、自分の身に危険が及ぶかもしれない状況です。致し方ない状況でもあります。2000年のちまで語り伝えられねばならないほどの罪をペトロは犯したのでしょうか? 

 実際、たしかに罪はありました。そして、この時、ペトロも知ったのです。自分の罪を知りました。それは裏切者であること、卑怯者であること、弱い人間であることではありませんでした。自分は主イエスと関係がない、つまり神と関係のない人間だとペトロは言ったのです。つまり、神を知らないとペトロは言いました。それが彼の罪でした。しかしまたそれは私たちの姿でもあります。私たちは自分の都合の良い時には、優しいイエス様、私を助けてくださる神様と神を大事にしますが、いったん不都合な事が起こると、容易に「イエス様なんて知らない」「私は神と関係がない」と言ってしまう人間なのです。 

 そもそもペトロはすべてを捨てて主イエスに従った人でした。ヨハネによる福音書によれば、主イエスの教えを理解できず、多くの人々が主イエスを見捨てて去って行った後も彼は残ったのです。先週お読みしたように、時に主イエスから手厳しくお叱りを受ける時もありました。しかしなお、主イエスに従ってきたのです。主イエスが逮捕される時も、いったんは剣をふるって抵抗しようとしました。彼は十分に誠実で、それなりに勇気もある人間でした。しかし、人間的に誠実で勇気があろうとも、人間は容易に「神なんて知らない」と言えるのです。それが罪の根源です。そしてその罪の本質は単に神を知らないということの内側に「神はなくても自分は自分の力で生きていける」という考えがあることです。ペトロは漁師だったとき、自分の意思で舟を捨てて主イエスに従ったと考えていました。宣教活動で様々な試練があっても、自分の熱心さや忍耐で乗り切ってきたと思っていました。 

 仮にペトロが<自分は確かに主イエスの仲間だ>と正直に告白して逮捕され、殉教したとします。それは勇敢な行為ではあるかもしれませんが、結局、そこにあるのは人間の強さ、思いだけなのです。神はそのようなことを人間に望んでおられません。神は憐れみをもって、ペトロに罪の本質を知らされたのです。鶏が鳴く、それは夜明け近いことを示します。ペトロ自身にあなたの夜明けは近い、あなたは今、あなたの罪を知った、それは暗く絶望することではない、もうすぐ夜が明ける、だから今、あなたに罪を知らせたのだ。もう強く生きる必要はないのだ、あなたは本当のあなたの姿で生きたら良いのだと、この鶏の鳴いた瞬間、神はペトロに語られたのです。強くなくていい、勇敢でなくていい、あなたはあなたの力で生きるのではない、私があなたと共にいるからだ、そうペトロに知らされたのです。 

<苦い涙を越えて> 

 ペトロはいきなり泣き出しました。ここは、「彼はうち崩れて泣いた」とも訳せる言葉です。また他の福音書の言葉では「苦く泣いた」とも訳せるギリシャ語で個々の部分は記されています。大の大人が、大泣きしたのです。そしてそれは苦い涙でした。彼はこの時点では、まだ神の愛のメッセージをはっきり知りませんでした。この大祭司の庭でペトロが流した涙は自分のふがいなさへの苦い涙であり、後悔の涙であったでしょう。しかし、のちにペトロは知るのです。神ご自身が、苦い苦い涙を通してペトロに語りかけていてくださったことを。今、ペテロはたしかに打ち倒されて、神の前にありました。二週前までお読みしていた「使徒言行録」の中で、パウロはダマスコ途上でキリストの光に打たれて地面に倒れました。パウロもまた、神の前でうち崩された者でした。優秀な学者でエリートのファリサイ派だった。熱心で自分の信念に従って行動をしていた強かったパウロも打ち崩されました。神にまことに出会うとき、私たちはうち崩され、苦い涙を流すのです。強いと思っていた自分の徹底的な弱さを知らされます。しかしそこから、まことの祝福が始まります。自分の弱さを知らされ、自分の力を手放して、神と共に生きる、そこに夜があけまことの朝がきます。鶏の声ののちに美しい朝がくるのです。そこにこそまことの祝福があります。 

 来週から「ペトロの手紙」を読んでいきます。その手紙の著者とされているペトロにしろ、あるいは今触れましたパウロにしろ、私は、心の中に、かつてペトロが流した涙のような、苦さ、悲しみを生涯持ち続けた人たちであったと思います。主イエスによって、たしかに完全にペトロもパウロも、そして私たちも、罪は贖われました。罪赦されたということを軽んじてはなりません。いつまでも過去の罪に捕らえられていることは、キリストの十字架を軽んじることです。不信仰なことです。罪赦された喜びと感謝のなかで私たちは生きます。ペトロもパウロもそうでした。その喜びのゆえに、ハレルヤと賛美し、新しい人間として生きていきます。 

 しかし、<感謝感謝、ハレルヤ!>だけではすまない思いをも私たちは心に持って生きていく側面があると思います。さきほど、悲しみと言いましたが、それは少し語弊があるかもしれません。やはりキリスト者は喜びの中に生きるからです。しかし、救われた喜び、神の愛を知った感謝が大きければ大きいほど、自分がどれほど罪が大きく、赦された存在かというところへ思いが行きます。主イエスを裏切ったペトロも、キリスト者を迫害していたパウロも、生涯、その過去をなかったことにはできませんでした。そこに一つの悲しみがありました。しかしまた、過去をなかったことにする必要はないのです。過去を無理に忘れる必要もないのです。罪も過去も、すべてキリストが十字架において背負ってくださったからです。なかったことにはできない過去にとらわれる必要はないのです。しかしまた同時に私たちに神から与えられた信仰はペラペラの平面的なものではなく、もっと深みをもった多面的なものです。喜びと同時に神の前にあるとき、私たちはどこまで行っても罪人であるということかから逃れられません。しかし、だからといってうち沈んで暗く生きていくのでもありませんし、金輪際罪を犯しませんと強く生きていかねばならないというのではありません。私たちは弱くとも、神は強いのです。弱いままで神の前に私たちは立つのです。あなたはあなたのままでいい、その言葉は罪のあなたのままで好きに生きていいということではありません。神の前で正直に素直に生きるということです。過去も罪を神に差し出します。そのとき、慈しみ深い主イエスが私たちの過去も罪もうれいも悲しみもすべて取り除いてくださるのです。そこから私たちは朝の歩みを始めていきます。 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿