大阪東教会礼拝説教ブログ

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2015年3月22日 ヨハネによる福音書12章27~36節

2015-03-22 15:56:15 | ヨハネによる福音書
大阪東教会 2015年3月22日主日礼拝説教
ヨハネによる福音書12章27~36節
「光あるうちに歩め」 吉浦玲子伝道師

 東北の大震災ののち編集された雑誌で、震災で被災されたある牧師の言葉を以前読んだことがあります。震災の日の夜、すべてが破壊されて何もなくなった町に、電気もなくて、当然、町中が真っ暗で、その真っ暗な中、漆黒の闇の中、避難所から夜空を見上げたら、おびただしい星が光っていた。あんなに星が光っているのは、あの震災の日の夜にはじめて見た、と。町の明かりがすべて消えて、普段は明るい空がその日、真っ暗だったから、たくさんの星が見えたのだけど、本来の夜空ってこんなものだったのだと、そのとき改めて気づいたそうです。そしてその牧師はその夜空を見ながら、創世記を思ったそうです。神が光あれとおっしゃり、光があって、天地を作られ、太陽と月と星を配置された、その創造の日の世界を思ったそうです。地震と津波ですべてがなくなってしまった、その混沌の中にあって、でも神はふたたび創造してくださるのではないかと思った、この破壊された町に、東北の地に、神の新しい創造がなされるのではないかと思った、と、そうその方は語っておられました。たいへん印象に残った言葉でした。
 そもそも人工の光、偽りといってもいいかもしれませんが、そのような光のなかでは、まことの光というものは見えません。神が光あれ、と作られた、神の光は見えません。人間が作った町の光が取り去られた時、被災した町の夜空に美しい星々の光があらわれたように、私たちは偽りの光のなかにいるとき、まことの神の光を知ることはありません。

 今日の聖書箇所に「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」とあります。つまり神の光の中を歩みなさい、そう、イエスはおっしゃっています。偽りの光の中にいる時、私たちはまことの光を見ることができません。そしてまた、逆にまことの光によってのみ、神の光によってのみ、私たちは自らの闇を知ります。本当の光に照らされて初めて自分たちが闇の中に生きていることを知ります。自分たちが暗闇にどっぷり包まれていて、まことの光に照らされていない時、私たちは自分たちが闇の中にいることに気がつきません。偽りの光の中にあるとき、自分を取り巻く闇に、また自分の中の闇に気づくことはできません。
 ヨハネによる福音書の1章5節には「光は暗闇の中で輝いている」とありました。光は輝いているのです。どのように世界が闇に満ちていようとも。そしてまた光は、暗闇を露わにするものです。光によってこそ、暗闇の正体は暴かれるのです。
 一方、神の完全な救いがなった終わりの日、そこには、闇がないのだということがヨハネの黙示録に記されています。ヨハネの黙示録22章5節「もはや、夜はなくともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」終わりの日、裁きの日ののち、この世界から闇は完全に取り去られます。だからもはや夜はない、そして闇を照らすともし灯は要らない、あまねく世界を神が灯される、もはや、神の光は暗闇の中に輝く光ではなく、闇のない世界の光となるのなのだと記されています。
 終わりの日、そのような闇のない世界があらわれるのでありますけれど、今日の聖書箇所には、逆に人間の闇の暗さが頂点に達するキリストの十字架の出来事を前にした主イエスの言葉が記されています。夜のない世界ではなく、人間の暗黒の現実のその極みにおいてイエス・キリストが語られています。

 イエス・キリストは今日の聖書箇所の言葉を語られる直前、エルサレムに入城されます。そして熱狂的に歓迎されます。王のように出迎えられます。多くの奇跡を起こしてこられた方、自分たちを救ってくださる方、力ある方、そのように人々は考え、この一人のイエスという人物に絶大な期待をかけました。ことに、エルサレムに入られる前、イエス様はラザロという友人を生き返らせるというたいへん大きな奇跡をなされていました。イエス様は死んで4日もたっていたラザロを生き返らせた。その噂はすでにエルサレムにも知られていました。
 いやがうえにも人々は熱狂したのです。自分たちを支配しているローマからイエスが解放してくれる、自分たちの王になってくれる、そう人々は期待しました。病を癒し、食べ物を与え、ローマの圧政から解放してくれる、そのように、人々は、イエスに期待をしたのです。
 イエスはというと、そのような熱狂のなか、御自分の死のことを考えておられました。そしてその死は恥にまみれた罪人として十字架刑によるものであることを知っておられました。いまは熱狂している人々の心の中も知っていました。熱狂している人々が自分を捨てること、捨てるのみならず、「十字架につけよ」と叫ぶことも知っていました。弟子たちさえも自分を捨てていくことを知っていました。
 しかしながら、イエスはそれらのことを十二分に知りながら、人々から離れることはなかったのです。やがて人々は離れていき、自分を裏切り、罵り、唾をかける、そのことを知りながら、イエスは語り続けられました。父なる神の救いの御業、十字架によって成就するその救いの業を人々はいまは知らない、いま語っても、到底理解はできない人々に、なおイエスは語られるのです。イエスは沈黙をしないのです。暗闇であるこの世界に向かって、罪の闇にまみれている人々に向かって、イエスは語り続けられます。光であるイエスは暗闇に語りかけられます。暗闇の中で、光として語られるのです。まさに光は暗闇の中で輝いていたのです。
 イエスは、私たちと同じ人間として地上に来られました。ですから、ご自身のむごたらしい死をやはり恐れられました。「心騒ぐ」とおっしゃっています。「父よ、私をこの時から救ってくださいといおうか」ともおっしゃっています。しかし、「私はまさにこの時のために来たのだ」とも言われます。ご自身が十字架にかかる、まさにそのためにこの世界に来たのだと語られます。そしてそれが父なる神のみこころであると語られます。クリスマスの心温まる牧歌的な物語とは、全く逆の、生々しい血が流される十字架の出来事、そしてそこにこそ神の御心があることを語られました。神がその御子を恥と苦痛に満ちた十字架にかけることによって、その御栄光を現わすのだと語られました。そのイエスに神は答えられます。「わたしはすでに栄光を現わした。再び栄光をあらわそう。」その父の応答は雷のようでもあり、天使の声のようでもあったとあります。
 神の声、それは人々を信じる者とするために声でしたが、人々には理解できませんでした。父なる神の声にある、すでに「現わされた神の栄光」は、クリスマスの出来事としてのイエスの御降誕であり、そののちの公的生涯におけるさまざまなイエスの業のうえにあります。そして「再び現わされる栄光が」イエスキリストの受難です。
 神の栄光と言う時、一般的に栄光という時、それは力であり、美しさであり、正義のイメージがあります。まさに神々しく、その前に皆がひれ伏すイメージがあります。たいへん陳腐な例になりますが、昔、水戸黄門というドラマがありました。水戸黄門がドラマの中で最後に自分が水戸の御老功であることを明らかにして、その場にいた悪人も善人もひれふす、という場面がお約束としてあります。この印篭が目に入らぬか、という決まり文句がありますが、その印篭に黄門さまの力と正義が現わされているわけです。そしてドラマの中では、その力と正義の前に人々がひれふすのです。
 人間である黄門さまではなく、神の栄光といいますと、比べようもありませんが、何万倍、何億倍もの圧倒的な力の前に人々がひれふすようなイメージがあります。主イエスが翼の生えた白馬に乗って天からやってきて、悪人を一瞬でやっつけて、人々がひれふす、、、それも漫画的なイメージではありますが、そういうイメージでなら、ある意味、栄光と感じられる部分があるのではないでしょうか。圧倒的な力や神々しい美しさや悪人を根絶やしにする状況において、栄光と言う言葉が私たちのイメージに昇ってくるように思います。
 しかし、実際には神の栄光は、血と恥にまみれた十字架によって、神々しい美しさとはかけ離れた生々しい死刑の現場に現わされたのです。しかもそれは、長い長い神の救いの歴史において計画されていたことです。それは、人間の闇が深かったからです。
 しかしこ、のときのイエスの言葉を聞いた群衆、さらには神の声すら聞いた群衆ですが、彼らは闇の中にいました。だからイエスの言葉も神の声も理解することができなかったのです。そして私たちはこの群衆を非難することはできません。
 私たちもまた頑なな、神の声を聞くことのできない者であったからです。自分が闇の中にいることすら知らない者だったからです。
 
 宗教改革者ルターは信仰の戦いの中に生きていました。彼の言葉には頻繁に悪魔が出てきます。彼は聖書からみことばから人々を引き離す力をリアルに感じていました。暗闇の力を感じていました。それを悪魔と呼んでいました。何より自分自身が常に御言葉から離れてしまうその危機感をいつも抱いていました。自分の中の闇を恐れたのです。私たちはキリストによって贖われ、聖霊を与えられ歩みながらも、いまだ肉体を持ち、古い人間としての罪の心を持ちこの地上を歩んでいます。私たちはキリストによって新しくされた人間ではなく、古い人間の部分のなかに残っているように感じる暗闇と、外から入ってくる闇に囚われてしまうことがあります。わたしたちは光ではなく、ふっと暗闇にひきつけられる存在であるのです。ルターが自分を神から引き離そうとする悪魔にインク瓶を投げつけた話は有名です。もちろん私たちは日々、そこまでリアルに自分を神から引き離す力について感じてはいません。たえず暗闇に引きずり込まれる存在であることを実感していません。ただ覚えておかないといけないことは自分はちゃんと神を向いていると自信を持っている時、その時が一番危ないということです。ルターのように絶えず危機感を持つことは私たちには難しいかもしれませんが、自信満々で神と向き合っていると思う時、私たちは神から一番遠いのです。
 この群衆たちも、自信があったのです。自分たちは選ばれた神の民である、律法をもっている、そしてその律法を引き合いに出して、イエスに反論をするのです。自分たちはメシアがどういうものか知っている、自分たちはわかっているのだと思っているのです。しかし、その人々にイエスはおっしゃるのです。インク瓶を投げつけたわけではないのです。愛を込めておっしゃいます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」光のあるうちに、というのは、主イエスがこの世界にいるうちに、という2000年前のことでもあります。自分がやがてこの地上を去っていく、その前に信じなさいということでもありますし、今日の私たちに対しては、最後の裁きが起こる日の前に、という意味でもあります。いずれの場合であっても、切迫しているのです。十字架の出来事はたしかにこのイエスのお言葉からほどなく起こりました。しかし、終わりの日の裁きもいつ起こるのかわからないのです。明日かも知れないのです。光があるうちに、というのは切迫した言葉なのです。

 ところで、<草原にありし幾つもの水たまり光ある中に君帰れかし>という短歌があります。河野愛子さんという1922年生まれの歌人、生きておられたらいまは90代の女性の作です。実際はこの方は60代で亡くなられました、その方の若い時代の歌です。この方は若い時代、結核で入院されていました。その入院先に恋人の青年が見舞いに来て、帰っていく、その情景が歌われた歌です。現代では考えられないような純情なというか、初々しい恋愛の歌、相聞歌です。作者は、病室の窓から青年の後姿を見ている、結核の療養所ですから、街中ではなく、環境の良いところにあったのでしょうか、草原と言えるような緑の豊かなところを青年が帰っていく、水たまりに光がきらきらと反射している、その描写に若い時代のみずみずしい感覚があらわれています。その帰っていく青年に、「光ある中に君帰れかし」と呼びかけている、かし、というのは強調していっているわけですけど、あなた光のある中をかえってくださいね、と語りかけているのです。この作者はクリスチャンでした、当然、今日のヨハネの福音書の聖書箇所が念頭にある歌です。愛する人へ、光ある中に君帰れかし、と語りかけている美しい相聞の歌です。
 これは恋愛の歌だから、聖書の言葉を引用してはいるけど、みことばとは直接は関係ないと思われるかもしれません。でも、それは違うと私は思います。主イエスは私たちにも恋人に語りかけるように「光ある中を君歩めかし」と語りかけてくださっているのです。さきほど、裏切ると分かっている人々に主イエスは語り続けた、と申し上げました。主イエスは語ることをやめなかった、そう申しました。それは、この世を、人間を愛しておられたからです。闇の中にいる一人一人に語りかけることを主イエスはおやめにならなかった、いまもなお暗闇の中に光はかがやいています。イエスはかたりかけてくださいます。その言葉はあまやかな相聞の歌の響きよりもさらに愛に満ち、その言葉そのものが光です。イエスは語りかけられるのです。闇を抱えている私たち一人一人に。愛を持って、「光ある中を君あゆめかし」「光のなかを歩みなさい」と。恋人を見送るまなざしよりも熱く、私たちの一歩一歩にまなざしを注いでくださっています。そのイエスのまなざしの中を、イエスの光の中をこの一週間も歩んでいきたい、光の中を歩んでいきましょう。