大阪東教会 2015年3月15日主日礼拝説教
マタイによる福音書7章24~29節
「岩の上の家、砂の上の家」 吉浦玲子伝道師
私たちは新しくされます。若い人であろうと年をとっている方であろうと、私たちは主イエスと共に歩むその道の途上、私たちは思いもかけない時に、それまでと違う新しい生き方を生き、新しい人生を拓いていくという局面に立たされることがあります。それは90歳でも、100歳でも同様です。
神が私たちの人生に大きく介入してこられます。私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちの日々は揺り動かされ、決断を迫られます。「いえ、私の生活は、もう、ずっーと平凡で毎日たいして代わり映えしないのです。決断なんてたいそうなことはないのです」とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、これまでそのようにみえていたかもしれませんが、明日はわかりません。
それに、そもそもこの日曜日、習慣のように教会に来られているかもしれません。でもこの日曜に教会に来る、そのこともご家庭によってはたいへんなこともあるかもしれません。家庭的にたいへんなことはなくても、やはりひとりひとり体調や、さまざまな思いの中で、大きな決断、あるいは小さな決断をして、この場へと来られているのではないでしょうか。日曜日の礼拝だけでなく、わたしたちは取り立てて何ということのない日々においても、神によって決断を迫られて日々を生きています。日々を新しくされていきます。
そのように日々、新しくされていく生活、信仰生活の基盤はそもそもどこにあるのでしょうか。それが今日の聖書箇所に記されています。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う人は皆、岩の上に自分の家を立てた賢い人に似ている。」
5章からはじまった山上の説教について繰り返し申し上げていることですが、主イエスの言葉を律法的に聞いてはいけないのです。今日の聖書の言葉も、岩の上に家を立てるように、立派な信仰生活をしましょう、というように聞くべきではありません。
これは子供たちに聞かせる三匹の子豚のお話ではないのです。三匹の子豚がそれぞれ、藁の家、木の家、レンガの家を作りました、藁の家はオオカミに吹き飛ばされました、木の家はオオカミにぶつかられて壊れました、レンガの家だけは丈夫でオオカミも壊すことができませんでした。だからしっかりと賢く丈夫な家を作りましょう。賢い子豚のようにわたしたちも人生に備えをしましょう。そんな三匹の子豚のお話のような、私たちも岩の家に立派な信仰の家を立てましょう、というようなそんなお話ではありません。
この聖書箇所を誤解してしまう、律法的に聞いてしまう理由の一つは、ここに、「聞いて行う」という言葉があるからではないでしょうか。なにか、ここに私たちの行いが問題とされているように感じるのです。信仰によってのみ救われると聞いてきた者には、なにか腑に落ちないことです。
もちろん、ここで「行う」と主イエスがおっしゃっているのは、私たちの行動が要求されているからおっしゃられているわけです。では、私たちは何を行動したらよいのでしょうか?それは、イエス様の言葉を行うのです。イエス様の言葉とは、何でしょうか?それは5章から始まる山上の説教の言葉です。
「敵を愛しなさい」「思い悩むな」「人を裁くな」「腹を立てるな」そういう言葉を聞くだけでなく行えとおっしゃるのです。
しかし、私たちはそれらの言葉をほんとうに十全に行うことができるでしょうか。完全に行うことはできないのです。自分に理不尽なことをなす人を愛することはできないし、裁くなと言われてもどうしても人を知らず知らずのうちに心の中で裁いてしまうのです。腹を立てるなと言われても、私は短気で、すぐに腹を立てます。しかしなお主イエスは、はっきりとおっしゃっています。「わたしの言葉を聞いて行いなさい」
行わないものは、砂の上に家を立てた愚かな者のようだ、とおっしゃいます。砂の上に立てられた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」とあります。
この雨や洪水や暴風というのは、単に、この世での苦難とか災難のことを指しておっしゃっているわけではありません。最終的な、神の前での裁きのことをさしています。砂の上に立てられた家は終わりの日に神の目のまえでもろく崩れ去るのだということが言われています。砂の家はこの世界においては、あるいは岩の家よりも立派に見えるかもしれません。この世の嵐にはむしろ耐えられるように見えるかもしれません。しかし、終わりの日には崩れ去ってしまうのです。
しかし、ではいったい誰が聞いて行うことができるのでしょうか。敵だけではなく隣人をも家族をも完全には愛することのできないのが、人間であるのに。
土台、無理なことを主イエスはおっしゃっているのでしょうか。私たちは皆、終わりの日にもろくくずれさる砂の上にしか家を立てることができないのでしょうか。
もちろん私たち一人であればできません。
しかし、イエス様は来られたのです。そして「天の国は近づいた」とおっしゃったのです。天の国は近づいた、近づいたという言葉は、すでにはじまっている、ということでもあるともうしました。
すでに私が来た、もう私が来たのだから、あなたたちは行うことができるはずだ、そうイエス様は力強くおっしゃっているのです。ある方がおっしゃっていました、ここでイエスさまがおっしゃっているのは「おこうなうことができると信じなさい」ということだ、と。
そう信じるのです。これは信仰の言葉です。
すでにクリスマスの出来事いらい始まっている天の国の中にあなたはすでにいる、山上の説教のイエスの言葉の中にすでに巻き込まれているあなたたちは、もう聞くだけで済ますことができるわけがない、行うことができる。絶対に自分には無理だと思っていることがもうできるのだ、敵を愛することができるんだ、もう思い悩むことはないのだと信じなさい。
自分たちがすでに新しくされているということを信じるとき、私たちは、まことに主イエスの言葉を行う者とされるのです。なかなか敵を愛せない、でも一歩を踏み出す。顔も見たくない相手に、さりげなく、笑顔で挨拶をする。最初はぎこちない笑顔かもしれません。腹が立ってしかたがない、でも祈ってもうそのことは考えないことにする。もちろん簡単ではありません。
でも、一人ではないから、主イエスがすでに来てくださっているから私たちは行うことができるのです。できるということを信じるのです。イエス様が共にいてくださいます。聖霊が私たちのうちで助けてくださいます。
ところで、ボブ・ウィーランドというアメリカの方がおられます。教会学校などで何回かお話ししたことがあります。彼は、学生時代、大リーグの選手として嘱望されてすでにあるチームに入団が決まっていました。しかし、ベトナム戦争に徴兵され、戦地で地雷を踏み、下半身を失いました。ボブ・ウィーランドさんは一時は絶望したのですが、主イエス・キリストとの交わりの中で力を得て、懸命にリハビリをし、腕で歩くようになりました。いろんなことに挑戦しました。そしてやがて自分を絶望の底から救ってくださったイエス・キリストを伝えたいという思いで、腕で歩いて、アメリカ大陸4500キロを縦断したのです。大陸を腕で歩きながら出会った人々にイエス・キリストを伝えたそうです。宇宙人に間違われたり、犬に追いかけられたりたいへんな旅だったようです。3年8か月かけて大陸横断したあと、そのボブ・ウィーランドさんが、インタビューの中で、何が一番大変でしたか?と聞かれた答えは「一番大変だったのは最初の第一歩を踏み出すことでした」ということでした。
最初の第一歩を踏み出す。4500キロのうちの数十センチ、その数十センチがなによりたいへんだった。4500キロなんて、普通に歩いても困難です。実際には本当に困難な3年8か月だったと思うのですが、それでも、最初の一歩が一番苦しかった。実際、始める前の彼の中には葛藤があったかもしれません。そもそも腕で歩くということがどれほどの価値があるのか、話題づくりの目立ちたがりではないのか。いろんな逡巡があったかもしれません。それで本当にキリストを証することになるのか。しかし、多くの若者がボブ・ウィーランドさんの歩く姿を見て、キリストを信じたそうです。
神は人生において、ボブ・ウィーランドさんだけでなく、すべての人に、試練を与えられます。終わりの日の雨や洪水だけでなく、日々の生活にも雨や嵐はあります。暴風があります。しかし、私たちにはその日々において、絶望しないだけではなく、さらに新しい一歩を踏みだす力をも与えられます。変わり映えのしない毎日と思いながら、びっくりするような新しい挑戦をあたえられることもあるでしょう。そしてその一歩を踏み出す力も与えられます。ボブ・ウィーランドさんと同様、私たちには新しい生活と、そこへ踏み出す勇気が与えられます。
ところで、ルカによる福音書6章47節にも家のたとえ話はでてまいりますが、ルカの場合は、土台をどれほど深く作るか作らないか、という話になっています。ルカにはルカの意図があるのですが、本日お読みしているマタイの方は、岩の上、砂の上という対比で描かれています。これはマタイによる福音書の著者が、よって立つところ、どこに家を立てるのかということを問題にしていたことがわかります。どのように、ではなく、どこに、ということを単刀直入にマタイは主イエスの言葉として記そうとしたのです。
どこに立てるのか、それは岩の上、です。繰り返しもうしあげたように、これはイエスの言葉を行うということです。
その言葉を語られたイエスは、今日の聖書箇所の最後で、山上の説教を終えられます。そして人々はその教えに非常に驚いたとあります。「彼らの律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったからである」律法学者はたしかに律法に、聖書に、精通していたのです。そして社会的な権威はもっていた人々でした。しかし、イエスの言葉を聞いた人々は、律法学者に、ではなく、イエスにこそ権威があると思ったのです。
律法学者とイエスの違いはなんでしょうか。それはまさに律法を行う、という点でした。神と人を愛するという律法の神髄をそのまま行ったのが主イエスでした。人がしてほしいことをする、その黄金律を全うした方です。病を癒してほしい人の病をいやし、孤独な人の友となってくださいました。ですから、その言葉にはまことの権威があったのです。律法学者の言葉はただの知識の羅列でしかありませんでした。その言葉にはまことの権威はなかったのです。
そして、当然ながら主イエスの権威は、神の御子としての、救い主としての、権威でもありました。しかし、その権威はまた律法学者のように、弱い人々、貧しい人々、律法をどうしても守れぬ人々を苦しめるものではなかったのです。
主イエスは神からの権威をもちながら、なお、私たちをまことに自由にしてくださいました。私たちが弱くとも、貧しくとも、神の戒めに忠実でない者であっても、なお、天の国へと招いてくださる方です。神の権威を持っておられたからこそ、私たちをまことに自由にしてくださることができたのです。なにより私たちは自分自身の不可能から自由にされました。主イエスの言葉を聞いて行えない、そんな不可能を打ち破ってくださるのが主イエスです。私たちは主イエスが私たちの不可能をすでに打ち破ってくださっていることを信じて、そこから一歩を踏み出すのです。
そしてまた、今日出て来ます言葉「岩」は、ペトロという言葉です。イエスの弟子たちのうち、一番弟子といえる弟子の名前がペトロでした。正確に言いますとペトロの本当の名前はシモンだったのですが、主イエスがあえて「岩」、ペトロと呼ばれたのです。しかし、岩と言われるペトロは実際に岩のような信仰を持っていたでしょうか?主イエスが逮捕されたとき、逃げ出してしまった、到底、岩などとは言えない弱々しい弟子でした。もちろん、ペトロは復活のイエスと出会い、ペンテコステののち、まさに岩のような強さをもって伝道をするものとされるのですが、まだ信仰的には岩とは呼べなかったころのペトロに対して、イエスはおっしゃっています。マタイによる福音書の16章18節「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と。
私たちは、ペトロと同様、弱い、愚かなものです。思いがけないことがあると、おじけづき逃げ出したくなります。しかし、すでにイエスはペトロと同じように私たちにも「岩」だとおっしゃってくださるのです。「岩」だとみなしてくださっていますし、実際「岩」にしてくださるのです。そのイエスによって「岩」とされている私たち一人一人に使命が与えらえます。その使命には到底できないと思えるようなこともあるかもしれません。でも、不可能を可能に変えてくださるのはイエスです。だから私たちは安心して一歩を踏み出せばいいのです。その一歩を踏み出す歩みが、イエスの言葉を行うということです。
そしてまた、岩の上に立つのは教会です。終わりの日に揺るがないのがこの教会です。教会というのは、この軽量鉄骨でできた築50年の会堂のことではありません。この会堂はこの世にあってやがていつかは物理的に失われるかもしれません。しかし、御言葉とその業、愛の行いの上に立った信仰共同体としての教会は倒れることはありません。
大阪東教会は小さな群れです。弱い群れです。何もできないように思えるかもしれません。でもそうではないのです。不可能なことを可能にしてくださる、その主と共に一歩を踏み出すとき、そこに奇跡は起こるのです。すでに天の国は来ているのですから。
もうすぐ新しい年度がはじまります。中庭にチューリップも咲きました。新しい気持ちで一歩を踏み出しましょう、チューリップの花を見る時、私たちの心はほっとします。主イエスの言葉も私たちをがんじがらめにしばりつけるものではありません。しばるのではなく、私たちを解きはなってくださるものです。私たちは、そんな主イエスの言葉を行うことができる、主イエスと共にあれば、それが可能になります。そのことを信じて歩むとき、私たちはまことに主イエスの言葉を行うものとされます。けっしてゆるがぬ岩の上に立つ者とされます。
マタイによる福音書7章24~29節
「岩の上の家、砂の上の家」 吉浦玲子伝道師
私たちは新しくされます。若い人であろうと年をとっている方であろうと、私たちは主イエスと共に歩むその道の途上、私たちは思いもかけない時に、それまでと違う新しい生き方を生き、新しい人生を拓いていくという局面に立たされることがあります。それは90歳でも、100歳でも同様です。
神が私たちの人生に大きく介入してこられます。私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちの日々は揺り動かされ、決断を迫られます。「いえ、私の生活は、もう、ずっーと平凡で毎日たいして代わり映えしないのです。決断なんてたいそうなことはないのです」とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、これまでそのようにみえていたかもしれませんが、明日はわかりません。
それに、そもそもこの日曜日、習慣のように教会に来られているかもしれません。でもこの日曜に教会に来る、そのこともご家庭によってはたいへんなこともあるかもしれません。家庭的にたいへんなことはなくても、やはりひとりひとり体調や、さまざまな思いの中で、大きな決断、あるいは小さな決断をして、この場へと来られているのではないでしょうか。日曜日の礼拝だけでなく、わたしたちは取り立てて何ということのない日々においても、神によって決断を迫られて日々を生きています。日々を新しくされていきます。
そのように日々、新しくされていく生活、信仰生活の基盤はそもそもどこにあるのでしょうか。それが今日の聖書箇所に記されています。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う人は皆、岩の上に自分の家を立てた賢い人に似ている。」
5章からはじまった山上の説教について繰り返し申し上げていることですが、主イエスの言葉を律法的に聞いてはいけないのです。今日の聖書の言葉も、岩の上に家を立てるように、立派な信仰生活をしましょう、というように聞くべきではありません。
これは子供たちに聞かせる三匹の子豚のお話ではないのです。三匹の子豚がそれぞれ、藁の家、木の家、レンガの家を作りました、藁の家はオオカミに吹き飛ばされました、木の家はオオカミにぶつかられて壊れました、レンガの家だけは丈夫でオオカミも壊すことができませんでした。だからしっかりと賢く丈夫な家を作りましょう。賢い子豚のようにわたしたちも人生に備えをしましょう。そんな三匹の子豚のお話のような、私たちも岩の家に立派な信仰の家を立てましょう、というようなそんなお話ではありません。
この聖書箇所を誤解してしまう、律法的に聞いてしまう理由の一つは、ここに、「聞いて行う」という言葉があるからではないでしょうか。なにか、ここに私たちの行いが問題とされているように感じるのです。信仰によってのみ救われると聞いてきた者には、なにか腑に落ちないことです。
もちろん、ここで「行う」と主イエスがおっしゃっているのは、私たちの行動が要求されているからおっしゃられているわけです。では、私たちは何を行動したらよいのでしょうか?それは、イエス様の言葉を行うのです。イエス様の言葉とは、何でしょうか?それは5章から始まる山上の説教の言葉です。
「敵を愛しなさい」「思い悩むな」「人を裁くな」「腹を立てるな」そういう言葉を聞くだけでなく行えとおっしゃるのです。
しかし、私たちはそれらの言葉をほんとうに十全に行うことができるでしょうか。完全に行うことはできないのです。自分に理不尽なことをなす人を愛することはできないし、裁くなと言われてもどうしても人を知らず知らずのうちに心の中で裁いてしまうのです。腹を立てるなと言われても、私は短気で、すぐに腹を立てます。しかしなお主イエスは、はっきりとおっしゃっています。「わたしの言葉を聞いて行いなさい」
行わないものは、砂の上に家を立てた愚かな者のようだ、とおっしゃいます。砂の上に立てられた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」とあります。
この雨や洪水や暴風というのは、単に、この世での苦難とか災難のことを指しておっしゃっているわけではありません。最終的な、神の前での裁きのことをさしています。砂の上に立てられた家は終わりの日に神の目のまえでもろく崩れ去るのだということが言われています。砂の家はこの世界においては、あるいは岩の家よりも立派に見えるかもしれません。この世の嵐にはむしろ耐えられるように見えるかもしれません。しかし、終わりの日には崩れ去ってしまうのです。
しかし、ではいったい誰が聞いて行うことができるのでしょうか。敵だけではなく隣人をも家族をも完全には愛することのできないのが、人間であるのに。
土台、無理なことを主イエスはおっしゃっているのでしょうか。私たちは皆、終わりの日にもろくくずれさる砂の上にしか家を立てることができないのでしょうか。
もちろん私たち一人であればできません。
しかし、イエス様は来られたのです。そして「天の国は近づいた」とおっしゃったのです。天の国は近づいた、近づいたという言葉は、すでにはじまっている、ということでもあるともうしました。
すでに私が来た、もう私が来たのだから、あなたたちは行うことができるはずだ、そうイエス様は力強くおっしゃっているのです。ある方がおっしゃっていました、ここでイエスさまがおっしゃっているのは「おこうなうことができると信じなさい」ということだ、と。
そう信じるのです。これは信仰の言葉です。
すでにクリスマスの出来事いらい始まっている天の国の中にあなたはすでにいる、山上の説教のイエスの言葉の中にすでに巻き込まれているあなたたちは、もう聞くだけで済ますことができるわけがない、行うことができる。絶対に自分には無理だと思っていることがもうできるのだ、敵を愛することができるんだ、もう思い悩むことはないのだと信じなさい。
自分たちがすでに新しくされているということを信じるとき、私たちは、まことに主イエスの言葉を行う者とされるのです。なかなか敵を愛せない、でも一歩を踏み出す。顔も見たくない相手に、さりげなく、笑顔で挨拶をする。最初はぎこちない笑顔かもしれません。腹が立ってしかたがない、でも祈ってもうそのことは考えないことにする。もちろん簡単ではありません。
でも、一人ではないから、主イエスがすでに来てくださっているから私たちは行うことができるのです。できるということを信じるのです。イエス様が共にいてくださいます。聖霊が私たちのうちで助けてくださいます。
ところで、ボブ・ウィーランドというアメリカの方がおられます。教会学校などで何回かお話ししたことがあります。彼は、学生時代、大リーグの選手として嘱望されてすでにあるチームに入団が決まっていました。しかし、ベトナム戦争に徴兵され、戦地で地雷を踏み、下半身を失いました。ボブ・ウィーランドさんは一時は絶望したのですが、主イエス・キリストとの交わりの中で力を得て、懸命にリハビリをし、腕で歩くようになりました。いろんなことに挑戦しました。そしてやがて自分を絶望の底から救ってくださったイエス・キリストを伝えたいという思いで、腕で歩いて、アメリカ大陸4500キロを縦断したのです。大陸を腕で歩きながら出会った人々にイエス・キリストを伝えたそうです。宇宙人に間違われたり、犬に追いかけられたりたいへんな旅だったようです。3年8か月かけて大陸横断したあと、そのボブ・ウィーランドさんが、インタビューの中で、何が一番大変でしたか?と聞かれた答えは「一番大変だったのは最初の第一歩を踏み出すことでした」ということでした。
最初の第一歩を踏み出す。4500キロのうちの数十センチ、その数十センチがなによりたいへんだった。4500キロなんて、普通に歩いても困難です。実際には本当に困難な3年8か月だったと思うのですが、それでも、最初の一歩が一番苦しかった。実際、始める前の彼の中には葛藤があったかもしれません。そもそも腕で歩くということがどれほどの価値があるのか、話題づくりの目立ちたがりではないのか。いろんな逡巡があったかもしれません。それで本当にキリストを証することになるのか。しかし、多くの若者がボブ・ウィーランドさんの歩く姿を見て、キリストを信じたそうです。
神は人生において、ボブ・ウィーランドさんだけでなく、すべての人に、試練を与えられます。終わりの日の雨や洪水だけでなく、日々の生活にも雨や嵐はあります。暴風があります。しかし、私たちにはその日々において、絶望しないだけではなく、さらに新しい一歩を踏みだす力をも与えられます。変わり映えのしない毎日と思いながら、びっくりするような新しい挑戦をあたえられることもあるでしょう。そしてその一歩を踏み出す力も与えられます。ボブ・ウィーランドさんと同様、私たちには新しい生活と、そこへ踏み出す勇気が与えられます。
ところで、ルカによる福音書6章47節にも家のたとえ話はでてまいりますが、ルカの場合は、土台をどれほど深く作るか作らないか、という話になっています。ルカにはルカの意図があるのですが、本日お読みしているマタイの方は、岩の上、砂の上という対比で描かれています。これはマタイによる福音書の著者が、よって立つところ、どこに家を立てるのかということを問題にしていたことがわかります。どのように、ではなく、どこに、ということを単刀直入にマタイは主イエスの言葉として記そうとしたのです。
どこに立てるのか、それは岩の上、です。繰り返しもうしあげたように、これはイエスの言葉を行うということです。
その言葉を語られたイエスは、今日の聖書箇所の最後で、山上の説教を終えられます。そして人々はその教えに非常に驚いたとあります。「彼らの律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったからである」律法学者はたしかに律法に、聖書に、精通していたのです。そして社会的な権威はもっていた人々でした。しかし、イエスの言葉を聞いた人々は、律法学者に、ではなく、イエスにこそ権威があると思ったのです。
律法学者とイエスの違いはなんでしょうか。それはまさに律法を行う、という点でした。神と人を愛するという律法の神髄をそのまま行ったのが主イエスでした。人がしてほしいことをする、その黄金律を全うした方です。病を癒してほしい人の病をいやし、孤独な人の友となってくださいました。ですから、その言葉にはまことの権威があったのです。律法学者の言葉はただの知識の羅列でしかありませんでした。その言葉にはまことの権威はなかったのです。
そして、当然ながら主イエスの権威は、神の御子としての、救い主としての、権威でもありました。しかし、その権威はまた律法学者のように、弱い人々、貧しい人々、律法をどうしても守れぬ人々を苦しめるものではなかったのです。
主イエスは神からの権威をもちながら、なお、私たちをまことに自由にしてくださいました。私たちが弱くとも、貧しくとも、神の戒めに忠実でない者であっても、なお、天の国へと招いてくださる方です。神の権威を持っておられたからこそ、私たちをまことに自由にしてくださることができたのです。なにより私たちは自分自身の不可能から自由にされました。主イエスの言葉を聞いて行えない、そんな不可能を打ち破ってくださるのが主イエスです。私たちは主イエスが私たちの不可能をすでに打ち破ってくださっていることを信じて、そこから一歩を踏み出すのです。
そしてまた、今日出て来ます言葉「岩」は、ペトロという言葉です。イエスの弟子たちのうち、一番弟子といえる弟子の名前がペトロでした。正確に言いますとペトロの本当の名前はシモンだったのですが、主イエスがあえて「岩」、ペトロと呼ばれたのです。しかし、岩と言われるペトロは実際に岩のような信仰を持っていたでしょうか?主イエスが逮捕されたとき、逃げ出してしまった、到底、岩などとは言えない弱々しい弟子でした。もちろん、ペトロは復活のイエスと出会い、ペンテコステののち、まさに岩のような強さをもって伝道をするものとされるのですが、まだ信仰的には岩とは呼べなかったころのペトロに対して、イエスはおっしゃっています。マタイによる福音書の16章18節「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と。
私たちは、ペトロと同様、弱い、愚かなものです。思いがけないことがあると、おじけづき逃げ出したくなります。しかし、すでにイエスはペトロと同じように私たちにも「岩」だとおっしゃってくださるのです。「岩」だとみなしてくださっていますし、実際「岩」にしてくださるのです。そのイエスによって「岩」とされている私たち一人一人に使命が与えらえます。その使命には到底できないと思えるようなこともあるかもしれません。でも、不可能を可能に変えてくださるのはイエスです。だから私たちは安心して一歩を踏み出せばいいのです。その一歩を踏み出す歩みが、イエスの言葉を行うということです。
そしてまた、岩の上に立つのは教会です。終わりの日に揺るがないのがこの教会です。教会というのは、この軽量鉄骨でできた築50年の会堂のことではありません。この会堂はこの世にあってやがていつかは物理的に失われるかもしれません。しかし、御言葉とその業、愛の行いの上に立った信仰共同体としての教会は倒れることはありません。
大阪東教会は小さな群れです。弱い群れです。何もできないように思えるかもしれません。でもそうではないのです。不可能なことを可能にしてくださる、その主と共に一歩を踏み出すとき、そこに奇跡は起こるのです。すでに天の国は来ているのですから。
もうすぐ新しい年度がはじまります。中庭にチューリップも咲きました。新しい気持ちで一歩を踏み出しましょう、チューリップの花を見る時、私たちの心はほっとします。主イエスの言葉も私たちをがんじがらめにしばりつけるものではありません。しばるのではなく、私たちを解きはなってくださるものです。私たちは、そんな主イエスの言葉を行うことができる、主イエスと共にあれば、それが可能になります。そのことを信じて歩むとき、私たちはまことに主イエスの言葉を行うものとされます。けっしてゆるがぬ岩の上に立つ者とされます。