日記

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一切知とは

2024年07月26日 | ブログ
一切知とは、我々に顕現している世界のあらゆるモノ・コトを隅々まで知ることではない。

仏陀の認識には何も顕現しておらず、映えるのは澄み渡る空性しかないのである。

一切知とは、衆生一人ひとりの顕現してあるありようを、衆生一人ひとりの認識を通して(借りて)ご覧になられて、その者の心、業のありようを過不足なくにお知りになられることなのである。全ての衆生の個々の心、業を知ることができるから、一切知者と呼ばれるのである。

ただ、法身にて空性のみを現量で了解なさられているだけでは、衆生を救済することは仏陀であってもできない。

仏陀は、福徳資糧により得たる色身による慈悲、方便の力にて、済度をお図りになられるのである。

色身が、衆生一人ひとりの認識してある顕現を、その衆生一人ひとりの認識を借りて、把捉されて、衆生一人ひとりの心、業の状態を知られることで授記(個別具体的対機指導)を行われるのである。

悟りへと向けて、見仏と授記が必須になるのはこのためなのであり、授記は一切知者たる仏陀でしかなせない事業なのである。


仏陀・如来の認識論

2024年07月26日 | ブログ
ラモジョマ氏の論文からタルマリンチェン大師の論書を何度読み直しても分からなかったが、やっと理解ができたことなのではある。

私たち、それぞれの顕現してあるありようは、それぞれ自身の業によって映し出されてあるのである。

だから、仏陀は、その人それぞれの顕現のありようを、それぞれその人の認識を借りてお知りになり、それにより、それぞれの業についてお知りになられるのである。

唯識をしっかり学ばないと中観の最終まで理解ができない。これで顕教がやっと修まることになるチベット仏教の凄さである。


ツォンカパ大師の認識論

2024年07月26日 | ブログ
厳密には、ツォンカパ大師の認識論では、世俗の顕現のありよう、我々に映えてあるような顕現は、仏陀の色身にも顕現はされないのである。

如来が世俗の顕現をご覧になるあり方は、仏陀自身の認識によるのではなく、他人の認識を借りられて認識なさられるのである。

要は、凡夫に顕現してあるものを凡夫の認識を借りて知られるとされるのである。

つまり、凡夫の心をご覧になられて、その顕現を知られるわけなのである。

しかし、凡夫の顕現のあり方が如来にとって必要なわけではなく、あくまでも必要となるのは、済度へ向けて凡夫の輪廻、心、業のありようを知ることである。

ここから推測されるのは、凡夫の顕現のありようを知られるのは、その者の輪廻、心、業のありようをお知りになるためではないかということである。

中観で、一切唯心造、唯識が重要となるのもこのためであると考えるのである。

その者の心を知るには、顕現してあるありようを見れば知ることができるということなのである。


「南無阿弥陀佛」の名号は仏の方便身か?

2024年07月26日 | ブログ
浄土真宗の場合、法身の阿弥陀如来が、私たちをお救いくださることになりますから、阿弥陀如来法身仏(法性法身)が私たち一人ひとりの心、認識、業のありようを認識されているのではないでしょうかと。

これは難しい質問であり、法身そのものにより救われるわけではなく(浄土真宗では、真実浄土へ往生後は、法身によって救われる、成仏できるとは考えますが)、具体的には方便(色身、報身、応身)によってのはたらきによるところとなりますから、あくまでも私たち一人ひとりの心、認識、業のありようを認識されて量られるのは、厳密には法身では無いと考えられるのであります。

もちろん、もともと一体である存在を、ただ便宜的に分けてあるだけで、法身と色身を同体と見なせば、法身が量られてあるとも言えるわけですが、はたらきのあり方を考えると、やはり色身によると思われるのであります。

もし、浄土真宗において、方便のはたらきとしてある色身、方便身を考えると、それは名号、つまり、「南無阿弥陀佛」となるわけです。

要は、「南無阿弥陀佛」の名号が、私たち一人ひとりの心、認識、業のありようを量られるのかどうかであります。

これを可とするならば、名号は、色身、報身、応身、つまり、阿弥陀如来の方便の身体、つまり、方便法身と言えるのかどうかを考える必要があるわけです。

そこで、何か参考となるものはないかと調べる中で、名号は薬か、医者か、という阿部信幾先生の法話を聴き始めた中で、「名号」を仏であると親鸞聖人はお考えであり、その証拠に蓮華座に名号をお書きになられてあったことから、仏の方便身と言えるとの内容があり、ああ、これだと思ったのであります。

「名号成就」名号は薬か?医者か? (ゲスト)阿部信幾 先生
https://www.youtube.com/live/wkCsLHupWFM?feature=shared

つまり、「南無阿弥陀佛」の名号が、私たち一人ひとりの心、認識、業のありようを量られると考えられるのであります。


如来の慈悲の平等性とは

2024年07月25日 | ブログ
如来の認識には、空性しか映えないとなれば、衆生救済、慈悲の事業は成せないことになります。

空性しか映えない如来の認識に、どのようにして輪廻にある衆生のありようが認識されるのか?

これが福徳資糧により獲得したる方便の力、つまり、色身の力によるものであり、報身、応身において、ご覧にならない仕方にてご覧になられるあり方、離戯論のみをご覧になられるあり方にて、衆生の様子(個々人の心、認識、業のありよう)を量られるわけなのであります。

特に応身であれば、私たちと同様に六識を用いてご認識なさられることもあるのであります。

無分別智に対する誤解は、一切空を認識される如来の智を、一切空で、皆同じ、平等だと勘違いすることによる間違いなわけであります。

平たく言えば、如来の現量では、全ては空性と認識されているだけで、世俗の縁起、因縁、輪廻のありようがそれで何か解決されるわけでは全くないのであります。

無分別だから、一切空で皆平等、そして、平等に救って下さるのが如来であるのだから、皆救われると勘違いしているだけで、それなら、もともと全ては空性であるわけでもあるのだから、既に最初から全てが救われていないとおかしいことにもなるわけです。

如来の慈悲の平等性とは、無分別智によりながらにも、衆生のありようを過不足なく、忖度なく、六道にある一人ひとりの輪廻、業、必要な資糧を平等に、地獄の衆生だからとか、天界の天人だからと差別することはなくに量られるということを言うのであります。

輪廻、業、資糧の違いを無視して、無条件に全ての者を救うわけではないのであります。

疑心往生の問題も、阿弥陀如来が、衆生個々人におけるそれらの違いを無視して、無条件にも救済して下さる、あたかもスーパーヒーローのような存在、岡林さんの言葉を借りれば、全知全能神と勘違いしていることによる問題であるわけです。

もちろん、阿弥陀如来がそのようなスーパーヒーロー、全知全能神のような力があるならば、法蔵菩薩から阿弥陀如来となった際に、本願の力にて、全ての衆生は救われて、輪廻する衆生も皆無となっていなければならないことになりますが、現実は全くそうでないことからも明らかなのであります。

こういうわけで、(浄土真宗において)疑心があっても阿弥陀如来が救って下さる、疑心があっても本願の力で救われるなどとは、とても言えないわけなのであります。


如来の慈悲の平等性とは

2024年07月24日 | ブログ
如来の慈悲の平等性とは、衆生、六道、個々人それぞれの輪廻・業のありようと、悟りへ必要な資糧をリアルタイム、進行形で過不足なく把捉なさられることを言うのであります。

如来は、悟りに向けてそれぞれにおいて何が必要かを、差別なく、忖度もなくに見極められるのであり、これが、如来の智慧と慈悲による力なのであります。

間違った例は、悟りへ必要な資糧を与えて下さって、悟りラインに並列に並べて頂けると思うことであります。

浄土門の場合は、往生ラインと置き換えるとよいでしょう。往生への資糧を阿弥陀如来が皆に与えて下さると思ってしまう間違いになります。

もちろん、そんな都合の良い話にはならないのですが、もしそうなら、阿弥陀如来が法蔵菩薩から成仏なさられた際に、衆生は皆、阿弥陀如来の本願により往生ライン、悟りラインに引き上げられて輪廻するものなど微塵もいなくなっているはずなのでもあります。

しかし、現実は全くそうではないわけですから、阿弥陀如来の本願だけで救われることなどはなく、その間違いは歴然と明らかであるのであります。

本願と信心、真実浄土へ向かう資糧を信心一つとして、それが正しい因となるとして説かれたのが、親鸞聖人であるわけです。

また、確かに行は易行として単純明快、簡単至極ではあっても、真実浄土への往生、悟りへ向けた資糧として、信心獲得、信心決定の事態とはそんな生易しいものでもないというのが拙見解となるのであります。


如来の慈悲の平等性について

2024年07月24日 | ブログ
難しい問いを頂いたが、

如来のお垂れになられて私たちそれぞれに向けて下さる慈悲の平等性は、無分別智を根拠とするものでないとしたら、何を根拠とするものであるのか。

無分別智と言ってしまうと誤解が生じやすくなるため、如来の認識のあり方を便宜的に如量智、如実智と分けて、そのいずれかとなれば、それは、如量智を根拠とし、空性を現量で了解なさられつつに、凡夫の認識している世俗のありよう、凡夫それぞれの認識し、迷い苦しんであるありようを、それも個々、一人ひとりのそれぞれのありようについて、ご覧にならない仕方で、ご覧になられるのであります。

慈悲の平等性とは、差別なくに個々人それぞれの迷い苦しみのありようだけではなく、それぞれの悟りへと向けたありようまでもを、如実に認識なさられてあるということを表わすものだと考えられるのであります。

簡単に申せば、一切空と縁起、因縁を同時に認識なさられることで、差別なく皆平等に、個々それぞれへの慈悲、救いの眼差しを向けられているのであります。

その如来の慈悲、救いの縁にどう応えていくかは、個々人それぞれの問題となります。

縁なき衆生は度し難し。

私一人に向けて下さってある、如来の慈悲、救いの縁に気付くか気付かないか、浄土真宗の「信心」にも関わる非常に大事なことでもあるのであります。


疑心往生説の問題点について

2024年07月23日 | ブログ
疑心論争にあまり首を突っ込むと、そのうちに

「聞け 川口英俊 川口英俊を救いたい」

と、いつか枝廣慶樹氏にやられますよ、と忠告を頂いた、、それはどうかご勘弁を。

とにかく、疑心往生の問題は、信心があろうが、なかろうが、疑心があっても、なくても、どんな信心であっても救われるとしたならば、それなら結局、なんでもありで救われることになり、教義の無用化、無効化となりかねないのであります。

また、阿弥陀如来の本願のみで、皆、何をせずとも、信心があろうが、なかろうが、疑心があろうが、なかろうが、救われるものであるとするならば、輪廻の衆生、凡夫など、既に阿弥陀如来が如来となられた際に、皆、本願によって救われているはずなのであるが、実際には全くそうでないわけです。

現実的に、輪廻の迷苦にあり、救われてない衆生、私があるわけですから、阿弥陀如来も、因縁を無視して、因果を超越したようなことまでできるようなスーパーな存在ではないのであります。

当然に本願に応える私の側の問題(輪廻、迷苦にある問題)を解決しないと救われないのであります。これは仏教共通の道理、因果となります。

また、疑心往生を認めるようなことになれば、結局は、教義、法義を聴き、学ぶ意味もないものとなるわけです。

更には、どんな味わいも、どんな信心も、それぞれの内証は図り得ないものでありますから、安易には否定したり、断定、裁決はできませんが、また、その逆に、それも信心の味わい、あれも信心の味わいと信心を広く、際限なく認めすぎても同様に弊害が生じることになるわけです。

とにかく、真実浄土へ向けた確かな信心については、親鸞聖人がご教示なされたことから、慎重かつ丁寧に照査していくことが大切となるのであります。


「新しい領解文」も「疑心往生説」も、その誤謬の共通した元凶となっているのは、「悪取空見」であると考えられる

2024年07月22日 | ブログ
先に述べたように「新しい領解文」も「疑心往生説」も、その誤謬の共通した元凶となっているのは、「悪取空見」であると考えられ、それは、「空と縁起」、「無分別と分別」についての浅薄な理解から発してしまっていると思われるのであります。

現代の日本仏教においても、「空>縁起」、「無分別>分別」と、空、無分別の方に比重が偏ったモノサシで仏典や論書、教義の意義を測ろうとしてしまうため、それが間違いを起こす原因となっているわけです。

両者は、対等な概念性相互補完の関係にあるのであり、この対等な概念性相互補完の関係を「空=縁起」、「無分別=分別」として説明されてあるのが、「○○即○○」と言ったものにもなるのですが、いかんせんどうにもこれも誤解を招きやすい表現であるのです。

この誤解を正すのに苦心なさられたのが、中観思想を大成なさられたツォンカパ大師なのであります。更に高度な中観レベルにて唯識・認識論も整理なさられたわけです。

これにより、菩提道次第、つまり、悟りへの階梯の詳細な道筋を理路整然と明らかになさられたのであります。


無分別(空)についての誤解・誤謬が問題の根底としてある

2024年07月21日 | ブログ
先日の岡林さんと問題にしていることの論点が異なるということについて読まれた方から、浄土真宗の「信心」を甘く見積もっていないという点では、瓜生崇氏と(拙生は)同じ立場になるのではないかと。

確かに瓜生氏の主張は、一見、疑心はなくならない、完全、完璧な信心など、凡夫には不可能であるということで、信心を甘く見積もってはいないとは言えますが、拙生は、かなり難しいものではある(菩薩の第八地以上の同レベルの境地は必須)ものの、可能であると考えています。

では、より具体的にどのような違いがあるのかとなると、他力信心へ至るための、他力における救いの根拠について、如来の慈悲はもちろんながら、瓜生氏は、如来の智慧の側、それも無分別の智慧に比重を掛け過ぎているのではないだろうかと思われるわけであります。

つまり、如来は差別なく衆生も分別なさられずに、疑心も、無疑心も差別なくに救って下さるから、疑心はあっても、なくても心配せずに、また、疑心など無くすのは、凡夫にはとても無理なのだから、疑心云々などについては考えなくてよい、とされているのではないかと思われるのであります。

この無分別智を論拠としての解釈、用法が間違っている、悪取空見に陥っていると考えているわけであります。つまりは、「新しい領解文」と同じ過ち状態にあるということでもあります。

無分別とは、一切空ということで、全ては別けることなく、分けることなく、一切空として平等であるということで、如来は現量においてもそれを了解できている智慧を、無分別智と言うわけですが、だからといって、衆生、凡夫と如来が何もかも全てが同じであると言うわけでは、もちろんないのであります。

如来も衆生も空性ではあるものの、如来も衆生も縁起において成立しており、縁起の面を見れば、如来は悟りの中、凡夫は迷いの中と、歴然とその違いは明らかなのであります。

それが、如来の無分別智からは、凡夫も、空性であるのは、如来と同じであって、凡夫も如来も同じであるとして、悟ってあるもの(救われた存在)と推測される、そう言及されるなどとは、とても言えないのであります。

当然に凡夫は、救われる(悟るための)縁起、因縁を調えなければ、救われない、成仏できないのであります。

このように無分別についての誤解、誤謬が原因であり、また、このような誤解や誤謬の生じる問題の根底にあるのは、人間社会、世論にある悪取空見的な思想を背景としたものが、日本仏教にも及ぼしている影響が少なからずあると考えているわけであります。

教義の門番中の門番と誇っている勧学寮まで有していた西本願寺・本願寺派という宗門そのもの自体までもが陥ってしまった過失であり、一個人など、誰もが当然にいつだって陥りやすい誤謬であるのであります。

平たく言えば、岡林さんは、「疑心往生説」を問題としており、拙生は、「悪取空見による誤謬」を問題にしていると言うわけであります。

もちろん、疑心があれば真実浄土には往生できないと考えている立場であります。

引き続きに、岡林さんの問題提起については考えて参りたいと思います。

・・

(瓜生崇氏が)親鸞会講師の頃のように戻ったのか、自分がカルト的に、ミイラ取りがミイラになったということかとの意見も頂いたが、それは少し違うようには思う。

先のポストでも書いたことは、例えば、身近な政治の世界においても言えることなのでもある。

人気、支持、現状を維持しようと、有権者、世論など、その大衆側の欲している、望んでいるもの、考え方、思想へと論調、政策が偏っていくことになる場合があるのと同じなわけです。

そうなると政治の場合では、公約違背や政策的な矛盾に、宗教の場合では、教義的な矛盾に陥りやすくなるということです。

岡林さんは、カルト問題を宗教一般の括りから論じることによる弊害により、真宗における教義的あるべき論に対しての齟齬が生じているとの見方であるが、拙生とは論点がやや異なるのであります。

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