日記

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新しい領解文問題解決への処方箋

2024年08月18日 | ブログ
門主に責めはない、責めを問わないとの考えが、逆に門主を傷つけ、恥を晒させ続けることになり、解決を遅らせ、長引かせることになってしまっている。

諫言し、翻意を促し、意向を撤回させれば、あっという間に解決するでしょうが、いずれが真に門主のためかを見誤っていると言えるだろう。

しかし、門主の善徳行、慈悲行、功徳を重視するとした通仏教への歩み寄りを図りたいとのことは理解ができる。

だが、二諦の解釈を完全に誤っているため、それもおかしいものとなってしまっているのである。

もし、通仏教と会通したい、善徳行、慈悲行への取り組みを推進したいとするならば、教義内で宿善として推奨する方法もあるであろうし、信心(特に無疑心)へと向けて必要なものとすればとも思うのである。

いずれにしても全分他力では誤謬が多くなるため、一定条件として認める余地は十分にあると考えられる。

現時点において、拙生は無疑心へ向けては有りと考えているのである。

無疑心の事態は、自力における高い境地の菩薩や阿羅漢でも可であり、何も他力の凡夫でしか可であるというわけではないからである。

無疑心の事態は、自力においても当然に可と言えるであろうし、宿善、善徳行、慈悲行が無疑心へと資するものもあると十分に考えられるのである。

真に門主の意向を汲むとしたら、このように論理立てして、新しい領解文も調えるべきであったのである。

それができなかった勧学寮や総局の責めもやはり考えねばならないだろう。

門主の真の意向に沿った領解文を作れなかった不甲斐なさに、門主は門主で怒っているのではないだろうか。

ならば、撤回などさせるか、となっていてもおかしくないのである。

二諦の解釈の誤りを改めて、新たに調えましょうと提案する、いや、既に門主の意向をしっかりと反映した原案を示すことが、真なる門主への忠節であると思うのである。


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