日記

日記

結局は、過去世からの宿善によることが大である

2024年08月31日 | ブログ
Facebookのコメントにてお答えした内容が現時点での考察の一つのまとめでもある、、

顕教として再研究してみましたら、簡単どころか相当難しいもので密教レベルです。異安心、無帰命安心の横行にて、簡単かもと錯覚しているだけです。往生、成仏には他力(灌頂、加持の力)が必要なのは顕密ともに同じであります。宿善、宿縁が必要なのも同じです。生身のままで往生、成仏できない以上は、他の力を借りないといけないことには代わりはありません。三身修道を行ぜない凡夫ならば、本願による他力を頂く他にその道はないのであります。それでも意成身の段階で往生することにはなりますが、凡夫ならば完全不可であります。完全不可なのに往生させて頂けるわけですから、その代替となる信心はやはりそれなりの境地でなければならないことになります。それなりの境地でないのに往生させてもらえるとしたらえらい不平等な教えとなります。結局は、過去世からの宿善によることが大であるとの見解です。悪趣清浄タントラと同様に過去世からの善根功徳の力が、往生にとってはやはりそれなりに大きいわけです。足りなければ現世で補う、あるいは追善が必要になる、そう考えるのであります。

疑心が信心の妨げになっている構造の喩え

2024年08月30日 | ブログ
ミニ法話はお盆後にとのことであったが、フライング気味で始めていた中でのこちらの動画は、疑心が信心の妨げになっている構造の喩えが分かりやすいと。疑心を晴らすのは個々人における問題となる。阿弥陀さんや善知識がなんとかしてくれるというものではない。浄土真宗が全分他力ではないのも疑心の対治は個々人におけるそれぞれの課題であるからでもある。

獲信は、ただ単に聞いての納得だけの信心ではないのである。

第14回 仏教ミニ法話「仏願の生起本末について」 聞即信 三願転入 信心決定 信心獲得
https://youtu.be/B43LQHLklvE?feature=shared

第24回 仏教ミニ法話 質問アンサー「共業(ぐうごう)について 霊について」 業 カルマ 因果 因縁 中有 中陰 葬儀 追善 供養

2024年08月30日 | ブログ
頂いていたご質問二つについて

第24回 仏教ミニ法話 質問アンサー「共業(ぐうごう)について 霊について」 業 カルマ 因果 因縁 中有 中陰 葬儀 追善 供養 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年8月29日
https://youtu.be/fzNV1hKZWiQ?feature=shared


宿善再考2

2024年08月29日 | ブログ
以下は試論メモ的に

善知識が弟子たちに教えた教えは、善知識に遇えた者に適用される教えがほとんどであって、本来はいまだ善知識に遇えていない者たちへの教えではないと考えるべきであるのだろう。

聖教の理解だけでは、とても信心獲得、信心決定できないのは、その差がとてつもなく重大なものであるからである。

まだ善知識に遇えていないにも拘らずの、遇えているかの如くの錯覚的な誤謬による理解、つまり、合点、つもりの理解止まりということでの、異安心、無帰命安心の横行が、それを如実に示していると言えるだろう。

宿善の重要性が説かれるのは、まずは何よりも善知識との邂逅へと向けた必須のものであると考えられるからである。

とにかく、善知識とは往生と成仏が決まった者の境地であり、まさにそれは謂わば菩薩の十地に匹敵する者でもある。

であるからして、善巧方便による確かな導きも可となるわけであり、信心へ向けては、それぞれにカスタマイズして的確適性な指導も可であるからこそ、それぞれを獲信へと導けることにもなるのである。

そのような境地の者が現れれば、法然聖人のように名が国中に響き轟きわたるものでもある。円かなる智慧の光を発する御方なのであるからこその圓光大師との所以である。

宿善に取り組み、いよいよ機、縁が熟したならば、親鸞聖人が法然聖人と邂逅したように、私たちでも可になると思われるのである。

そして、善知識による的確な指導により、他力法門の道にしっかりと努めれば、親鸞聖人のように、私たちでも信心が得られるものになると言えるだろう。

もちろん、疑心を破る、疑蓋を外すのはそれぞれの取り組み、課題解決によるものである。阿弥陀如来や善知識が全てを解決してくれるようなものではない。全てを解決してくれるというならば全分他力のパラドックスに陥ることになる。

また、善知識に遇えたからといっても自動的に獲信までいけるわけでもない。法然聖人、親鸞聖人の弟子たちが皆、獲信できたわけでもないのだから当然のことでもある。

もちろん、法然聖人の下でも獲信できた者は、親鸞聖人含めて僅かであったと言えるでしょう。

誠に難儀至極なることではあるが、その縁は、必ずまた来世、来来世へも実を結ぶ宿善、宿縁にもなりえるものであり、今世今生でも諦めずに彌陀本願を賜われるようにとして取り組むことが肝要と言えるでしょう。長い道程、あまり焦らないことです。

第23回 仏教ミニ法話「宿善論再考」 浄土真宗 善知識 信心獲得 信心決定 功徳 善根 慈悲行

2024年08月26日 | ブログ
第23回 仏教ミニ法話「宿善論再考」 浄土真宗 善知識 信心獲得 信心決定 功徳 善根 慈悲行 2024年8月25日
https://youtu.be/RVOffHY9BUA?feature=shared

命の大切さを説くための空や縁起ではない

2024年08月26日 | ブログ
41分45秒ぐらいのところからは、日本における仏教の一部変質に関して、非常に大事なことを述べていらっしゃいます。

本来、解脱、悟りを目指すべき仏教が、現実の幸せや命の大事さ、大切さの再認識を求めるようなものへと成り下がってしまっていったありようについて、となります。

もちろん言うまでもなく命は大事なのではありますが、輪廻(迷い苦しみ)の解決からは遠ざかるような生きることへの重視(ある意味での生への執着を助長するようなもの)に主眼を置くようなことも説き始め出したのではないかというご指摘であります。

生死は一大事のことですが、問題は、輪廻、迷い苦しみの連鎖から抜け出すためにどう生きるか、実践するか、であります。

仏教は、命の大切さ云々を説くための教えではないということであります。

簡単には、命の大切さを説くための空や縁起でもないということです。

方便→世俗諦、ではなく、方便→勝義諦とならなくてはいけないのであります。

これも単純なベクトルの誤りであると言えるわけですが、聖を俗に依らせていこうとすることによる弊害がもたらした問題と言えるのであります。


宿善論は、前世までのものであるのか、善知識に遇うまでのものであるのか、獲信までのものであるのか

2024年08月25日 | ブログ
なべさんは、桜嵐坊さんからの反論より、新しい領解文、本願寺派総合研究所のXの法話についての批判へとかわした感じか、、

宿善論は、前世までのものであるのか、善知識に遇うまでのものであるのか、獲信までのものであるのか、、善知識に遇うまでの今世も含めてのあり方を考えるのが妥当であると思われるが、考察中である。

しかし、Xの法話の内容は、あまりにもお粗末すぎる、、勧学寮のチェックも入れてはいないのだろう。


聖が俗へと転落するのは戦時教学と同じ過ち

2024年08月25日 | ブログ
世俗の顔色を伺って、教義を変えてしまった結果が、新しい領解文のテイタラクとなってしまったのでもあるのだろう、、聖が俗へと転落するのは戦時教学と同じ過ちであり、何も反省がなされていない証左でもある。


宿善についての考察

2024年08月24日 | ブログ
宿善の定義を前世までのものとするならば、純粋に最初から浄土往生を願い、浄土門に入る者は少ない中、色々と他の教えも聴きながらに、どんなものか程度に何となくに聴きに来たような者では、宿善が少なければ、他へ行ってしまうだけになるし、宿善が少ない者は最初から往生は諦めよと言ってしまっているようにも思ってしまうのである。

また、宿善のある者は残るが、ない者は、もうどうしょうもない、往生できないし、信心も獲れないから無駄だと捉えられかねない面も、、

浄土門に入った者は宿善のある者、入らない者は宿善のない者とかというラベル付けもされかねない、、

少し話が逸れるが、他宗派より優れた、選ばれてあるとする優等生意識が高くあるのはもしかしたらこういったことも関係があるのかもしれない、、他宗派を見下している感じである。

更には、既に今生ではどうすることもできないものとしたら、宿善がない者、足りない者は、もう絶対に本願は頂けない、救われない、諦めないといけないと決まっていることにもなりかねない。要は、宿善差別の救いになってしまうのである。

もちろん、過去世で宿善が足りない者でも、それでも往生したい、彌陀本願を得たいと願う者はあるはずであり、当然に足りない宿善に努めながら聴聞するあり方は否定されないと思うのである。確かなる善知識に遇うまでは、やはりありとするのが妥当ではないだろうかと考えるのである。

更には、まともな善知識が今世不在、あるいはごく僅かにいても遇えないこともあり得るため、それが宿善の差によるとしたら、もうどうしょうもない、生まれた時からそれも決まっているということにもなりかねないのである。

拙生は、浄土の教えにも有り難くに出逢ってはいるが、本願を頂けるかどうかは、宿善で決まっているとしたら、もう今さら何をしても善知識にも遇えず、信心も獲れないと決まってしまっているというわけなのである。生まれた時点で決まっているならば、もう望んでも残念無念なりとなってしまうのである。

もちろん勘違いや間違いもあるでしょうが、、

親鸞会を擁護する気など全くありませんが、また色々と考えたいところであります。