日記

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浄土真宗は全分他力ではない

2024年08月18日 | ブログ
18回でひとまずとしましたが、浄土真宗は全分他力であると強くおっしゃる方がもちろんおります。それも承知のことではあります。

しかし、もしも、浄土真宗が全分他力であれば、当然に疑心の有無など問われないことになるはずですが、親鸞聖人はそうではありませんでした。

また、全分他力ならば、浄土宗と違って齟齬が生じるのは、浄土真宗の場合、往生と成仏がセットである以上、すでに十法界、虚空界は仏で満ち溢れることになっており、娑婆にも弥勒仏を待つまでもなく、還相にて済度する仏が現れ溢れているはずとなっているからであります。

しかし、そのような様子はみられないわけです。

更には、極楽浄土の一仏国土、一三千大千世界を担当の阿弥陀如来は、他の世界である娑婆世界のみならず、十法界へも本願を照らして済度しておいでであるならば、全分他力の場合、そのような仏が一層に溢れておいでのはずであることになりますから、やはり現状を鑑みると厳しいと言わざるを得ないのであります。

このような理由で全分他力とは考えることが難しくあると思われるわけです。

また、無疑心の事態は、八地以上の菩薩や阿羅漢でも可能であり、もちろん、凡夫でも可能ではあるものの、他力の行者や他力門の凡夫だけが可能であるというものでもないのであります。

もしも、無疑心は他力の凡夫でしか不可とすれば、それこそ彌陀の救い、本願から漏れるものがあるということになってしまうわけです。

阿羅漢や八地以上の菩薩などは、無疑心の状態など常に完成している段階であり、いつでも彌陀の18願を取れるが、それはそれぞれの意思次第となるのであります。

菩薩がどこへ往生するか、どこで成仏するかは、それぞれの誓願の内容や修行次第でもあるというわけです。

とにかく、よくよくに考えてみないといけないのであります。

第18回 仏教ミニ法話「獲信の構造と体験 浄土真宗の信心について」 
https://youtu.be/MAmvfsseagE?feature=shared


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