日記

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如来の無顕現とはいかなる事態か

2024年07月28日 | ブログ
如来に顕現しているものは何も無いといっても、それで、世界、宇宙に存在してあるものや現象が何も無いといっているわけではもちろんない。

顕現とは、心に顕現しているものという意味である。感覚器官から入ってきた外部のものによることもあれば、心自身の側から現れてくるものも当然にある。後者は、業や煩悩、無明の力によるのである。こちらが大いに問題なのである。

例えば、視覚されるものとか、そういう感覚器官を通じて入ってくるような表層的なものだけからの認識によるのではないということである。

死んで、全ての感覚器官が止んでも、また、今の肉体が無くなっても、微細な心(次の輪廻へと向かう心)には心自身から(無明・煩悩・業により)現れてくるものが、無数に実はあるのである。

(厳密には、心だけの存在というわけではなく、中有においても体となる意成身を生じさせる。但し、寿命は短く、7日毎に死を迎えては、また意成身を生じさせるのである。この意成身の感覚器官によって外部認識もできるのである。7日毎の供養とは、この意成身の死を供養することもチベット仏教では兼ねているのでもある。)

八十自性分別心、 顕明・増輝・近得というのがその代表例となるが、このあたりのことは、密教を本格的に学ばなければ理解が難しいと言えるでしょう。

無顕現とは、外界の存在や現象が何も無いということではなく、外界の存在や現象は、もちろん、私たちが捉えてあるようにはあっても、如来は、その空性であるだけを現量で了解なさられているのみであり、私たち衆生が、外界のモノ・コトを捉えて反応して心に生じているような顕現というものは、如来には一切生じることはないということなのであります。

結局、明日、この説明で3回目を出すことになるかも・・


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