青原さんに以前聞かれていたことともあわせて、、
公開にするとまた怒られるから友達だけにしておこう、、
もともと顕教の他力は、成仏における最後有の菩薩が如来の力を必要とすることを意味するものであったのを、往生にも拡大することを図るためその救いの範囲を広げられるためになされたのが、大慈悲を起こされた阿弥陀如来の誓願であり、そのためにどのような者でも、凡夫でも可となる他力信心を条件となされたのであります。
親鸞聖人は、他力信心は如来回向により無条件に賜るものではなく、信心への無疑心を重視され、無疑心による信楽へと至ることが真実信心であるとして諭されたのであります。全分他力のパラドックス、矛盾を十分に看破なされてのことでもあります。
それでは無疑心は、他力の凡夫でしか可とならないのかどうかを検討していましたが、そのようでは弥陀の本願から漏れる者が逆にあることになるため、高位の菩薩や阿羅漢は、無疑心など当然に可となるはずではないかとして、つまり、境地的にも弥陀本願(少なくとも往生)を取れる可能性もあることから、無疑心は当然に凡夫だけのものではないとして修正を致しました。(通例は自力の菩薩では不可とされるわけですが、それはやはり説得力に欠ける面があります。弥陀が他力の凡夫だけとか、そんな特別扱いする立場をお作りするはずなど考えられないからでもあります。それこそ救いの平等性に反することになります)
すばらしいと思う、なるほどと思うだけなら誰にでも、凡夫にでももちろんできますが、それでは十劫安心と言えるでしょう。また、そんな簡単な信心なら世の中仏陀だらけになっています。
信心はやはり難儀至極で難しいのです。宿善と善知識、聴聞を円満に調えなければ難しいのであります。善知識も不在なら聴聞も無駄に、、善知識に逢えて聴聞が極まるまでは宿善頑張れも。自力無功は、往生と成仏においてということが本来の意味であると思うのではあります。自捨帰他も。つまり、他力は往生、成仏におけるもので必要にて、往生、成仏までは自力も必要であると考えるのであります。また、宿善が今世で足りない者、補う必要のある者もあるはずです。ならば努めるのももちろん良いでしょう。聴聞だけとするのも色々弊害が、、善知識の問題もありますし、、現門主の通仏教化を図ろうというのも、あながち間違いではないかと。二諦解釈などの間違いはありますが、、善のススメを言う親鸞会とのことなどもあり、いまさらとのプライドが許さない面もあるかとは思いますが、、
以上、以前にお求め頂いたことのお返事も含めて。。
まさかの凡夫しか救わんではなく、自力の聖者も往生、成仏時には凡夫他力同等にとなるだけで、この点の理解です。往生、成仏時には凡夫愚者になりてです。もとから凡夫愚者ならそれもオッケー。但し、無疑心は必要、必須と。違ったらわざと破戒、悪業する者たちを許容する世界になります。よくよくに。
親鸞聖人ほどの自力聖者でも、高位の聖者も、愚者になりて往生すなのです。その時に自力を捨てるのが本来の意であるのが、いつのまにかすぐに全部捨てろ、いらんに、、これがやはり問題であると思うのではあります。