拙動画でも述べてあるように、他力信心へ至るためには、親鸞会さんのように必ず19、20、18と経なければならないというわけではないと考えている。
かといって18だけからというのも無理がありすぎる。
どちらも極論なのであり、そうではなく、個々人における過去世からの業、功徳、仏縁、仏道進捗等を勘案して他力法門を進めるように調えていくのがベスト、親切になるのである。
また、他力信心へ向けた宿善、善根が足りなければ補わねばならないし、聴聞だけでは無理となれば、別にて補わねばならないことにもなるのである。
ましてや、異安心や無帰命安心が横行していては、その聴聞もまともにできるものではないのである。
とにかく、18願(ほぼ成仏に匹敵する境地)からとは、仏教的にいきなり勝義に入れと言うのと同じで、それはあまりにも凡夫には酷で難し過ぎるのである。
勝義への架け橋となる方便を捨てるのは、勝義に立ってからのことで良いのであり、渡る前に梯子を外しては、どこに行くにも行けないのである。こちら側に立ち尽くすしかなくなってしまう。
梯子が必要な者には梯子をちゃんと架けてあげる、更に長さや強さを調整して、その者に必要な梯子を調えてあげるのが、本当の宗門の役割となるのである。
他力信心へと至るための宿善のあり方についての見直しは、親鸞会の場合、蓮如上人の宿善についての考え方を主な論拠としているものの、なべさんが言っているようにやはり必要なのであろうとは思われるのである。
蓮如上人は、その梯子架けに長けておられて、庶民の心を鷲づかみし、一気に教線も拡大することができたのであるのでしょうね、、