日記

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形象虚偽と形象真実についての考察備忘録

2024年08月18日 | ブログ
二年前にも色々と考えていたのだな・・

二年前、少し詰めきれていないのだが、仏陀は無顕現は無顕現である。

正確には、仏智は、無顕現で離戯論である。どのようにして衆生に現れてある顕現をご覧になられるのかは、最近の動画でも述べてあるとおりである。

しかし、この考察、見返すと恥ずかしいところもあるが、かなり貴重だ。

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形象虚偽と形象真実についての考察備忘録(乱雑なメモ)・・



青と眼に映えている者
青(色)と知っている者

青と眼に映えている者
青(色)と知らない者

青と眼に映えていない者(色盲)(但し別の色に映えている場合もある。例えば緑など)
青(色)と識別できない者(青色がどのような色かはわからない者)(但し別の色については青と知っている者と同様に識別できている場合もある)

眼に何色も映えない者(盲目)
但し黒色(闇色)は識別できているが他の色はどのような色かはわかり得ない

それぞれの感官と分別知・概念知・言説の量の状態に依存して外界のモノ・コトを認識して、一応はそこにその色が有るとして措定している例

また、更に昆虫や動物もそれぞれの感官、認識の状態によりて、その色を把捉している。

「青」というのは色についての一概念。

人種・民族・文化によっては、青を緑と分類したり、濃淡の変化次第においても、青という概念ではない場合もある。

また、同じ青でも、濃淡により名称が異なってあることもある(水色や空色と言ったように)

あるいは、光の当たり具合や反射等によって、青色が変化して見えてしまうこともある(タマムシの羽の色が光の反射によって色々とその色を変えるように)

もちろん、青色も時間が経てば青色で無くなっていく場合もある(経年劣化していく絵画の色のように)

青色を構成している塗料の要素(部分、例えば分子や原子や量子など)のどこかに青色を青色足らしめている永久永遠に青色としての独立自存的なもの、つまり、実体・自性的な要素はありうるかどうかといえば、そのようなものは見当たらない。(例えば、ビッグバン以前からそれを青色足らしめているようなモノがそこのどこかにあるかどうか)

問題は、その青色は真実なのか虚偽なのか。

その者の感官と分別知・概念知・言説の量に依存しては、確かにその「色」はあるのだが、では、本当のその「色」が何であるのかは、分からない、決められないという例。

形象真実論では、青色という形象が分別知・概念知・言説の量に一致したものであれば、それを真実なるもの、依他起性なるものとして肯定されるものとなる。

一方、形象虚偽説では、分別知・概念知・言説の量は、それぞれにおいて異なるものであり、誰においてもそれが青色というわけでなく、これで正しい、これで決まりと言えるものではなく、青色という形象は虚偽なるもの、遍計所執性として否定されるものとなる。

もともと、私たち、衆生たち(餓鬼や畜生、地獄の衆生たちも)において、分別知・概念知・言説の量にて、何か共通してモノ・コトを把捉できる「知」があるのかどうか。

もし、そういう共通した「知」があるならば、その「知」によって全員が同じように同じモノ・コトを把捉できるものがあると考えることができる。

一方、そういった共通した「知」は無い、ありえないとするならば、誰も同じように同じモノ・コトを把捉できることはありえないと考えることができます。

ここで問題とするのが、「空性」の認識はどうなるのかということになります。

最終的に悟りへと至れるための「空性」を認識できるような(共通の)「知」が無いとするならば、誰も悟れないことになってしまいます。

しかし、そのような(共通の)「知」が、どこかに有るとするならば、やはり、モノ・コトの認識においても、皆が同じように認識できているものがどこかになければおかしなことになります。(つまり、青色として把捉している形象においても、皆が認識している中での共通の認識が青色に対しての認識の中にあるということ)

そこで、「空性」を認識する知(形象虚偽派では清浄な水晶と喩えられる)は、もともと皆、共通してあるものの、それを邪魔しているものがあるとして、その邪魔しているものが全ての形象を虚偽なるものとして映えさせていると考えるのが、「形象虚偽」とされますが、実は、皆、本当の認識においては「空性」を認識している(できている)ものの、ただその邪魔になっているものがあるだけであるとして、どこかでその形象の「空性」を共通して認識できている(凡夫はただそのことに気づいていないだけ)「知」があるとすれば、「形象真実」と言えてしまうのではないだろうか、ということであります。

これは、私たちの心における最終的なところの「知」、つまり、「光明」に関わってくるところであり、その性質について慎重に吟味する必要性があります。

ケートゥプジェ大師がなぜ「形象真実」説を採用したのかも、上記のことを考えるのが、そのヒントになるのではないだろうかと考えています。

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唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(1)

・直観知、現量に現れる形象は、真実であるのか、虚偽であるのか(基本論点)

→ 後期中観派の思想と「形象虚偽」説の考え方が近接していたため、ツォンカパ大師以降の高弟、その後のゲルク派においても「形象虚偽」説が通説的な扱いとなっていった。しかし、ツォンカパ大師の高弟の一人でツォンカパ大師の密教思想の後継となったケートゥプジェ大師は「形象真実」説を採用している。

→ (拙見解)空性と縁起を捉える知のあり方として、直観知、現量に現れる形象が、空性を指示した縁起による現れとして捉えられるものであるならば、「空性」(真実)を理解するための現れであるとして、「形象真実」と言っても私は良いと考えている。

→ (拙見解)全ての形象は空性を本質とした現れであるわけであるから、その現れを観て、空性(真実)を理解していくことにも繋がるため、全ての形象を虚偽、虚妄としては、空性の理解に向けた支障が生じてしまうと考えている。

・概念知、分別知、言説の量は、全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)であるのか

→ ツォンカパ大師は、概念知、分別知、言説の量の全てが虚偽、虚妄として退けられていたわけではない。正しい智慧に基づいた概念知、分別知、言説の量は、無明・悪業を退治するためには当然に必要なものであり、それさえも虚偽、虚妄としてしまうのであれば、仏道修行など成り立たないものとなってしまう。悟りへの階梯のための概念知、分別知、言説の量までもを否定してしまうことを厳しく批判された。

→ 「形象虚偽」説では、直観知、現量と共に全ての概念知、分別知、言説の量も虚偽、虚妄として否定した二取空、無分別知を目指す傾向が強く、この無分別知の解釈を巡って後期中観派においても議論がなされるところとなった。

→ (拙見解)無分別知はあくまでも仏陀・如来の側、つまり、結果論からみた仏陀の認識のあり方についての説明(表現)であり、凡夫の側からの説明、また理解では成り立たないものであると考えます。

拙見解

仏陀の認識においては、如量知と如実知は既に一体の知となり、空性だけをただご覧にならない仕方にてご覧になられている、現量了解というもので、如量知と如実知の一体のあり方として、あくまでも、既に凡夫のような分別のあり方ではないということでの無分別ということであり、何もご覧になられない、何も認識なさられない、何も思わない、何も観じない、何も念がない、何も想がないというわけではないのであります。(離戯論のみをご覧になられる)

唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(2)

・仏陀の如量知には、形象は何も現れないのか

→ (通説)形象は何も現れない

→ (拙見解)「離戯論のみをご覧になられる」と表現されるところですが、それなら「離戯論」のみは知に現れられている可能性はあると言えます。もちろん、「離戯論」とは「空性」ということの一表現となりますが、「空性」である「縁起」の現れを捉えることはできるのではないかと考えます。もし、何も形象が現れないとすれば、衆生の救済にあたられる根拠となるもの、つまり、衆生の迷い苦しみのありようを知ることもできないということになります。もちろん、衆生の心のありよう(個別具体の無知・無明、業のありよう)を仏眼(神通力)によりて覗かれるということになりますが、ならば、それは仏知に一応映えないと知ることができないものとなります。知ることができなければ、対機説法、善巧方便も難しいものとなってしまいます。また、凡夫がどのように外界の世俗世界のことを認識しているのかということは、衆生それぞれの心のありようを通じて知られるところにもなりますが、それも、覗かれた衆生の心のありようを通じた外界世界のありよう(形象)が仏知に映えないと知ることはできないものとなります。

・空性は何も現れはないのかどうか、形象はないのかどうか

→ (通説)空性は虚空の如きと表現されるように、まるで澄み渡った秋空の深淵がどこまでも続くが如くに形象は何も見当たらない。

→ (拙見解)(1)でも述べたように、現れる形象が、「空性」を指示した「縁起」としての現れと捉えられるものであるならば、それを「空性」の現れ、形象と考えることができる。また、全ての形象は空性を本質とした現れであるのだから、逆に、現れ、形象が無いとすれば、「空性」を否定してしまうことにもなりかねない。

・空性を本質とした現れの面としての縁起における現れ、形象は全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)になるのか

→ (通説)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は全て虚偽であり、虚妄分別として退ける。

→ (拙見解)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は、当然に「空性」を本質とし、「空性」を指示するものであり、全て虚偽であり、虚妄分別として退けるのは虚無主義、悪しき無分別主義に陥ると考える。知の力は、あくまでも無記、中立的なものであり、問題となっているのは、真理を知ることを妨げることになっている無知・無明・煩悩・悪業(煩悩障・所知障)であり、現れ、形象にあるわけではない、その現れ、形象が、真実か虚偽かと議論することは正直、仏道においてはあまり益にならない。それよりも、どうして煩悩が生じ、間違った反応を起こしてしまっているのか、悪業を積むことになってしまっているのか、その原因となっている煩悩障・所知障を対治していくために、「空性」とそのヒントとして与えてくれている「縁起」による現れのありようについて考えていくことが重要となります。逆に、現れ、形象があるということだけでも、衆生にとっては大変に有り難いことなのである。空性、悟りへの手かがりを示してくれているのだから。

「仏身は法界に充満して、普く一切の群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」

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形象虚偽・無相唯識と形象真実・有相唯識

形象虚偽・無相唯識の基本・・

凡夫において、認識は全て、無明により虚偽の認識である。

自証(直観・現量)における認識は否定されない。

無明を無くして、虚偽の認識を排斥した正しい自証を目指す。

もともとの自証(直観・現量)は、真実を認識できていないが、真実を認識できるように調える。

形象真実・有相唯識の基本・・

認識は、自証(直観・現量)として正しい認識とする。

凡夫において、その自証(直観・現量)は無明により転倒・迷乱したものとなり、対象を誤って捉えてしまっている。

無明を無くして、自証(直観・現量)で形象を正しく認識していくことを目指す。

もともとの自証は、真実を認識しているが、それを妨げているものがあるため、その妨げを取り除いていくように調える。

どちらも「自証」における認識のあり方を問うものの、

ただ、どちらかと言えば、

形象虚偽・無相唯識は、形象<自証(問題は自証の方にある)

形象真実・有相唯識は、形象>自証(問題は形象の方にある)

と、その自証の正しさへと向かう比重が少しだけ微妙に異なっているように思えます。

この差異が、タルマリンチェン大師とケートゥプジェ大師における「空性」の認識に向けた相違のヒントになるように考えています。


新しい領解文問題解決への処方箋

2024年08月18日 | ブログ
門主に責めはない、責めを問わないとの考えが、逆に門主を傷つけ、恥を晒させ続けることになり、解決を遅らせ、長引かせることになってしまっている。

諫言し、翻意を促し、意向を撤回させれば、あっという間に解決するでしょうが、いずれが真に門主のためかを見誤っていると言えるだろう。

しかし、門主の善徳行、慈悲行、功徳を重視するとした通仏教への歩み寄りを図りたいとのことは理解ができる。

だが、二諦の解釈を完全に誤っているため、それもおかしいものとなってしまっているのである。

もし、通仏教と会通したい、善徳行、慈悲行への取り組みを推進したいとするならば、教義内で宿善として推奨する方法もあるであろうし、信心(特に無疑心)へと向けて必要なものとすればとも思うのである。

いずれにしても全分他力では誤謬が多くなるため、一定条件として認める余地は十分にあると考えられる。

現時点において、拙生は無疑心へ向けては有りと考えているのである。

無疑心の事態は、自力における高い境地の菩薩や阿羅漢でも可であり、何も他力の凡夫でしか可であるというわけではないからである。

無疑心の事態は、自力においても当然に可と言えるであろうし、宿善、善徳行、慈悲行が無疑心へと資するものもあると十分に考えられるのである。

真に門主の意向を汲むとしたら、このように論理立てして、新しい領解文も調えるべきであったのである。

それができなかった勧学寮や総局の責めもやはり考えねばならないだろう。

門主の真の意向に沿った領解文を作れなかった不甲斐なさに、門主は門主で怒っているのではないだろうか。

ならば、撤回などさせるか、となっていてもおかしくないのである。

二諦の解釈の誤りを改めて、新たに調えましょうと提案する、いや、既に門主の意向をしっかりと反映した原案を示すことが、真なる門主への忠節であると思うのである。


浄土真宗は全分他力ではない

2024年08月18日 | ブログ
18回でひとまずとしましたが、浄土真宗は全分他力であると強くおっしゃる方がもちろんおります。それも承知のことではあります。

しかし、もしも、浄土真宗が全分他力であれば、当然に疑心の有無など問われないことになるはずですが、親鸞聖人はそうではありませんでした。

また、全分他力ならば、浄土宗と違って齟齬が生じるのは、浄土真宗の場合、往生と成仏がセットである以上、すでに十法界、虚空界は仏で満ち溢れることになっており、娑婆にも弥勒仏を待つまでもなく、還相にて済度する仏が現れ溢れているはずとなっているからであります。

しかし、そのような様子はみられないわけです。

更には、極楽浄土の一仏国土、一三千大千世界を担当の阿弥陀如来は、他の世界である娑婆世界のみならず、十法界へも本願を照らして済度しておいでであるならば、全分他力の場合、そのような仏が一層に溢れておいでのはずであることになりますから、やはり現状を鑑みると厳しいと言わざるを得ないのであります。

このような理由で全分他力とは考えることが難しくあると思われるわけです。

また、無疑心の事態は、八地以上の菩薩や阿羅漢でも可能であり、もちろん、凡夫でも可能ではあるものの、他力の行者や他力門の凡夫だけが可能であるというものでもないのであります。

もしも、無疑心は他力の凡夫でしか不可とすれば、それこそ彌陀の救い、本願から漏れるものがあるということになってしまうわけです。

阿羅漢や八地以上の菩薩などは、無疑心の状態など常に完成している段階であり、いつでも彌陀の18願を取れるが、それはそれぞれの意思次第となるのであります。

菩薩がどこへ往生するか、どこで成仏するかは、それぞれの誓願の内容や修行次第でもあるというわけです。

とにかく、よくよくに考えてみないといけないのであります。

第18回 仏教ミニ法話「獲信の構造と体験 浄土真宗の信心について」 
https://youtu.be/MAmvfsseagE?feature=shared