日記

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当ブログについて

2024年08月10日 | ブログ
当ブログについて 当ブログは、公開、非公開を管理人の意思において定期的に行っております。

公開、非公開はカテゴリー別において管理しています。 そのため、公開も一部のみの限定公開となることが多いです。

あしからずご了承下さいませ。現在、ご質問等の個別の対応は控えさせて頂いております。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。  管理人 拝

連の新しい領解文に至った流れに三願転入、宿善推奨の先祖返りも関係あるか

2024年08月10日 | ブログ
親鸞会のなべさんがすぐおすすめで下のリールに、、最近よく観ているからなのでしょうが、、

https://youtu.be/R47vVbqsFS0?si=NlWlBcJd7TKmAukb

しかし、一連の新しい領解文に至った流れが、戦前における三願転入、宿善推奨の先祖返りを必要としたものとの判断にあったとすれば、なるほど一定の理解ができるものであるとは言えるが、それが過度な反応になった理由には、親鸞会との論争におけるアレルギーもあるのと共に、今さらそれを認めるとなれば、親鸞会の主張に負けたとして、自分たちのプライドが許さないということも、多少はあるのかもしれない。

他宗派へは、自力を否定し、聖道門を劣ったものとして見下して、自宗を大乗の至極と言っておきながら、今さら自力の功徳善根も大事だとも言えないということもあるのだろう。

であるから、念仏者のあり方とか、心掛けなど、ぼんやりとした言い方で門主も勧めるぐらいでしか無理であったのだと思われるのである。ましてや、19願から〜など言えないわけである。

こう考えると、ただ一点、新しい領解文に失敗はしたが、方向性は変えない可能性はまだ高いと思われるのである。

それよりも、三願転入、宿善推奨をある程度前面に出しての再領解文の制定もあり得ると考えるのである。

新しい領解文を取り下げても、意欲がまだあり、心が折れなければであるが、、


第17回 仏教ミニ法話「如来回向(本願力回向)と疑心 全分他力と疑心 至心 信楽 欲生 18願 他力信心 本願 名号 阿弥陀如来

2024年08月10日 | ブログ
明日から5日間、施餓鬼供養になります。ミニ法話は、お盆から開始する予定でしたが、17回まで、試験的に頂きました質問を中心に取り組みをしました。

また、お盆で集めたご質問、話題等から、本格的に始めたいと思います。

次回以降は月2〜3本になるかと、、また、歴史関係の調査シリーズも再開する予定です。

前回動画におきまして頂きましたご意見からも反省、見直しして、更に考究を進めて参りたいと思います。

第17回 仏教ミニ法話「如来回向(本願力回向)と疑心 全分他力と疑心 至心 信楽 欲生 18願 他力信心 本願 名号 阿弥陀如来
https://youtu.be/cCTjk7QSZNw?si=yBQwuETPZY5AErBZ


浄土真宗本願寺派 とり亮顕

2024年08月10日 | ブログ
他力の道を求むる姿勢に敬意を頂いて、こちらを紹介頂いた。ありがとうございます。なるほどです。

宿善もやはりという議論がある。

門主も三業惑乱以来における宿善不要派による宗門の閉塞からの打破を図るために、必要とする方向へと舵を取ろうとしたのかもしれない。

しかし、新しい領解文が、あまりにも不備のある稚拙なものを出してしまったがゆえに、大きく後退を余儀なくされてしまったわけではあるが、この方向性は、門主が辞めない限り、これからも変わらないかもしれない。

とにかく、無疑心までを他力回向のはからいによるとなれば、全分他力として、もう、なすべきことがもちろん、何もなくなる。

また、何をしても図らいの中、自力行、六波羅蜜を実践しても、他力のはからいの中となれば、何をしようが、異安心も無帰命安心もないということになる。究極の予定調和である。

これなら、他力のはからいの中ではあるけど、せっかくなら、何かしても良いし、ならば良いこととして慈善活動をしようとなるのも頷けることでもある。

いずれにしても、宿善については見過ごせない問題である。


全分他力と疑心

2024年08月10日 | ブログ
全分他力では、疑心があっても往生を可とするが、やはり、疑心があっても、無くても、無条件の救いを彌陀の他力回向によると考えるからなのであろう。三心も当然に彌陀の側にて具えて頂けるものと考えるのである。

そういうことならば、輪廻の衆生など既にいなくなっていてもおかしくないのではあるが、そうではない。

やはり、当然に三心の具足には何らかの条件があると考えられるのである。

消去法で残るのは、やはり本願疑心が最有力となるのである。

その本願疑心も破るのが他力回向によるものとすれば、全分他力として、結局は疑心があっても、なくても、仮にあってもこちら側で何もせずともその疑心も晴れることになり、往生も可となると考えられるのである。

ならば、実質的には疑心があっても往生は可ということと同じでもあり、全分他力と変わらないことになる。

衆生の側ですべきことは何もなくなるわけではあるが、とにかく、何をしても、何をしなくてもということになるのでもある。

全分他力なら疑心の有無も問われないことになる。

しかし、親鸞聖人は疑心を無くすことが信心であるとなさられている。

疑心を無くすのは彌陀の他力回向によるものとして、それを受ける側の問題の解決は必要となるのかならないのか、そのあたりを突き詰めていければと思うのである。


如来回向と疑心

2024年08月10日 | ブログ
三心が如来により他力回向されてあるとして、三心の妨げとなっている本願疑心を破ること(信楽)も回向されてあり、名号にその功徳、利益の力があるとしたならば、衆生の側でなすべきことは何もなくなり、何もしなくても、また逆に何をしても往生できると考えられるのではあるが、やはりそのようなものであるのだろうか。。疑心は、こちら側で解決をすべき問題として捉えてきたのではあるが、聴聞により、本願・名号のいわれを聴いて、こちら側の納得、得心が疑心の対治になると考えてきたわけであるが、少し見直して参りたいと思います。