日記

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蓮如上人が三井寺に預けた親鸞聖人坐像を取り戻すために、自ら首を差し出した親子の話

2024年08月19日 | ブログ
蓮如上人が三井寺に預けた親鸞聖人坐像を取り戻すために、自ら首を差し出した親子の話。

間違いを糺して、宗祖の恩徳に報いる時は今なりと、まさに命懸けで取り組む覚悟がなければ、新しい領解文問題の解決もやはり難しいであろう。


空性の認識について

2024年08月19日 | ブログ
空性は、当然に形象をもたないものなのであるから、延長として空性の知について議論するのは間違いであるが、空性の認識について考えるこの視点は重要なのである。

もちろん、顕現のあるものを捉える知のあり方は、形象虚偽とされるべきであろう。顕現、形象はどこまでも虚偽としての顕れであるからである。もちろん、煩悩障と所知障によるものであるからだ。

また、例えば、煩悩障を断滅した聖者における等引知・三昧知における空性了解の段階は、顕現、形象の虚偽がない空性のみを認識している状態であるから、この議論における顕現、形象への知とは関係のないものである。

しかし、では顕現、形象のない空性を認識する知とはいったい何か、どのような知であるのかということである。

これが仏性とか、如来蔵などと関連してくる非常に大事なところにもなるのである。

もちろん、元から悟っているとか、煩悩と悟りが同じとか、そんなものではないのである。また、空性を認識する知(の因)が無い、その知へと至る因縁が無いとしたら、仏と成る根拠を失うものにもなる。

いずれにしても、顕現はどこまでも虚偽の顕現であり、顕現がある限りにおいて、業、煩悩障、所知障による問題があるため、その問題への対治は、六波羅蜜の実践によるしかないのである。