日記

日記

ご門主さんは無謬となるはずの制度がどうしてこうなったのか・・

2023年05月14日 | ブログ
結局は、ご門主さんの「ご親教」さえも、総局の関与によるものにならざるを得ないということか…

時代に迎合した反省を述べながら、時代に迎合して教義を分かりやすくに変えるとか、矛盾することがご親教の原稿に書かれてあるのも、「新しい領解文」における間違いと共に、根は同じということであろう…あまりにもお粗末すぎる…

ご門主さんは無謬となる制度にあるはずが、間違ったことをさせてしまい、恥をかかせたままでは、当然に皆、怒るわけで。

このような中でも、ご門主さんの唯一の残されてある権利が、「安心裁断権」ということのようだが、それも、裁断を任せる与奪者(最高位学僧)は、ご門主さんによる指名ではないようだ…

実質、権限がほとんど無いに等しい…それもどうかとは思うのだが、、

せめて与奪者の指名権もご門主さんに任せないと。

今回のことでも、ご門主さんご自身がどうにかしたいとしても、どうにもしようがないとは、あまりにも虚し過ぎるのではないだろうか…

「どうして生じた?領解文問題」
https://note.com/ryouge/m/m0af388e93d98


真宗学科学生論文集・改悔批判 (平成7年)

2023年05月14日 | ブログ
浄土真宗の学びを進めるのに最適なものは、優秀な真宗学科学生さんによる卒業論文集である。

何より素直で丁寧であるから、変な癖や、変な偏りもないので、読みやすく理解しやすい。それが無料で読めるのであるのだからお得でもある。

今回の「新しい領解文」の問題の件でも、大いに参考にさせて頂いた。

しかし、令和4年度のものはまだなのだろうか・・待ち遠しい。。

真宗学科学生論文集
https://shinshu-gakkai.omiya.ryukoku.ac.jp/yusyuronbun.html

真宗教学において、論理学がこれほどまでに精緻に議論されていたとは、誠に新発見で、三業惑乱時にどれほど教学的論争が盛んであったのかが窺える内容である。

「浄土真宗金剛錍」を参考とすれば、更に有効な論法を用いて反駁していくのに大いに役立つものとなるのは確実だと思われる。

真宗教学史における因明学の受容過程と展開 ―大瀛『浄土真宗金剛錍』を中心として(中尾一声氏)
https://shinshu-gakkai.omiya.ryukoku.ac.jp/2016_sotsuron/2016_soturon-nakao.pdf


この改悔批判のページを教えて頂いたのだが、かなり法義として大切な位置付けであることが窺える。

大衆出言が、疑義多い「新しい・・」に代わってしまって果たして乗り切れるのか・・無理でしょう・・

改悔批判 (平成7年)
http://www.hongwan.net/index.php/%E6%94%B9%E6%82%94%E6%89%B9%E5%88%A4_(%E5%B9%B3%E6%88%907%E5%B9%B4)


獲信の構造について・1

2023年05月14日 | ブログ
①〜④と各称名については、まだ整理中です。

称名①〜④は、微妙なりにも阿弥陀如来の方便法身のはたらきに差異があると考えているわけです。

特に、①と➁には大きな違いがあり、①は、衆生に本願を知らしめる役割、②は、本願を得心させる役割があると考えています。

③は、本願を納得させる役割、④は、本願の功徳を得心させる役割となるでしょうか。

まだ思考中です…

親鸞聖人の思想

「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」
「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」

行信論の要諦は、名破満釈・融会合釈

「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。」

称名①→本願への志願・疑心

称名(正業)②→志願・疑心

称名(正業)②→念仏(称名③)→南無阿弥陀佛(名号・称名④)→正念(信心決定・信心獲得)

法性法身阿弥陀如来の称名
方便法身阿弥陀如来の称名
諸仏諸菩薩の称名
報身阿弥陀如来の称名
応身釈迦如来の称名
法蔵菩薩の称名
七高僧の称名
親鸞聖人の称名
獲信者・善知識の称名
衆生の称名(信心は問わない)
自分の称名(獲信前)
自分の称名(獲信後)