昨日、声明を全て読み返していて思ったのだが、そう言えば、「自然の浄土」については結局触れられていなかった、、
しかし、「声明」を何度見ても「しょうみょう」と読んでしまうのは、ある意味、仕方のないことではあるだろう…
話を戻して、、
「自然の浄土」をどう考えるのかは、実は教学的にはかなり重要なのである。
拙生は、「一如宝海」と解しているが、そうではなく「現世現成」と考えられている場合もあるからだ。
新しい領解文は、本覚思想を謳っていることからも、「現世現成」としてある可能性が極めて高い。
救い摂られるのは、確かに現世現成ではあるが、実際に救われるのは、実質的に「一如宝海」である。
現世、極楽も、阿弥陀如来の方便法身のはたらく世界にはあるが、あくまで最終的に救われるところは、阿弥陀如来の法性法身、一如宝海における二種法身獲得においてとなるのである。
現世報恩行を重視する立場からは、「自然の浄土」を「現世現成」にしたいとの思いは分からなくはないのですが、やはり無理があると考えるのであります。
ただ、現ご門主さまの社会活動重視のお考えを慮られて、「自然の浄土」については敢えてスルーされたのかもしれないですね…
和上方のお優しさの現れでもあると見ています。
しかし、「声明」を何度見ても「しょうみょう」と読んでしまうのは、ある意味、仕方のないことではあるだろう…
話を戻して、、
「自然の浄土」をどう考えるのかは、実は教学的にはかなり重要なのである。
拙生は、「一如宝海」と解しているが、そうではなく「現世現成」と考えられている場合もあるからだ。
新しい領解文は、本覚思想を謳っていることからも、「現世現成」としてある可能性が極めて高い。
救い摂られるのは、確かに現世現成ではあるが、実際に救われるのは、実質的に「一如宝海」である。
現世、極楽も、阿弥陀如来の方便法身のはたらく世界にはあるが、あくまで最終的に救われるところは、阿弥陀如来の法性法身、一如宝海における二種法身獲得においてとなるのである。
現世報恩行を重視する立場からは、「自然の浄土」を「現世現成」にしたいとの思いは分からなくはないのですが、やはり無理があると考えるのであります。
ただ、現ご門主さまの社会活動重視のお考えを慮られて、「自然の浄土」については敢えてスルーされたのかもしれないですね…
和上方のお優しさの現れでもあると見ています。