そもそも今の本願寺派教学を学ぶには、蓮如教学を前提としなければいけないとのアドバイスを頂きました。
もともとの領解文は蓮如上人によるものでもあり、「信心正因・称名報恩」も蓮如上人の思想から成り立ってあるからとのこと・・
近現代の宗学の基礎も蓮如上人の教学を学ばないと理解はできないと。
そこで、蓮如上人の教学といえば最も特徴的なものは、仏凡一体論、機法一体論である。それについてまずは考えてみたい。
蓮如上人の仏凡一体論、機法一体論は、近似はしていても確かに本覚思想ではない。
何より如来蔵や仏性を扱わない。
あくまでも阿弥陀如来の回向、本願、方便法身のはたらきにより与えられるものとなるからだ。
例えれば、阿弥陀如来の救いを水とすれば、火のあるところに(こそ)、その水がかけられてくるイメージである。
自分で水を探してもってこよう、水をつくろう、扇いで消そうとする者のところには、その水はやってこない(ウロウロしていて狙いが定まらない)。また、水をかけてはくれないかもという心が、かかってくるはずの水を止めてしまっているような感じである。それがバリアになっているイメージだ。
一体とは、水がかけられてはきたが、まだ火と共にあるという感じである。
かかってはあるが、火は消えてはいない。でも、消えるという安心感は得れてあるそんな状態。
火は、死んでから消えるか、往生してから消えるか、いずれかにはなるが、今世ではその火はまだあるという感じである。
そんな難しくはない論題ということか、、
ならば、新しい領解文の「本来」という言葉は、この二つの論からも明らかに間違いということになる。
しかし、その一方では、民間に流布した談義本では、明らかに本覚思想や現世利益、密教的な思想を説いたものとなり、それが教団拡大に大きく寄与したのは事実のようだ。教義の体は守りながら、教化ではそれを黙認していたようである。
新しい領解文までの、「念仏者の生き方」「私たちのちかい」「浄土真宗のみ教え」は、教化のためとして黙認していたものの、教義の体にまでそれを及ぼしたために、これほどの反感をかうことになったのだと思われる。
外部から見たら、確かに数年前から教化のためとして出されてきたものは、今回の新しい領解文と、大して変わらないものであり、なぜ今回になってという疑問もあるが、やはり、教義の体にまで手を出したらあかんよ、という自浄力が働いたということなのであろう。
談義本の原点は、蓮如上人の時代から始まり、私の手元にある「六字名号探書」までに至って、昭和初期ぐらいまで、500年近く、民間流布させていた可能性は極めて高い。
それには、釋○○が書き写したものとある。
本覚思想、密教思想、現世利益、神仏習合と盛りだくさんである。
教義を何も知らない者にとっては霊験あらたかな有り難いものとなったのだと思われる。門信徒数が群を抜いて多くなったのも頷ける。
そういうことなら、談義本と同じように「念仏者の生き方」「私たちのちかい」「浄土真宗のみ教え」までは意図的には良かったのかもしれない。
しかし、「新しい領解文」は、踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったということであろう…
あるいは、わざと踏み込ませたのか…そこまでは拙生も関知しようがないことである。
ただ、「新しい領解文」の見解を聞かれて、本覚思想と雑修、雑行、雑善を敢行推奨するのは教義的にはおかしいのでは、というところから始まったわけです。
そして、その思想的な背景(戦争や差別に繋がりかねない思想)にも気になるところがあるため、それを問題としているのであります。
もともとの領解文は蓮如上人によるものでもあり、「信心正因・称名報恩」も蓮如上人の思想から成り立ってあるからとのこと・・
近現代の宗学の基礎も蓮如上人の教学を学ばないと理解はできないと。
そこで、蓮如上人の教学といえば最も特徴的なものは、仏凡一体論、機法一体論である。それについてまずは考えてみたい。
蓮如上人の仏凡一体論、機法一体論は、近似はしていても確かに本覚思想ではない。
何より如来蔵や仏性を扱わない。
あくまでも阿弥陀如来の回向、本願、方便法身のはたらきにより与えられるものとなるからだ。
例えれば、阿弥陀如来の救いを水とすれば、火のあるところに(こそ)、その水がかけられてくるイメージである。
自分で水を探してもってこよう、水をつくろう、扇いで消そうとする者のところには、その水はやってこない(ウロウロしていて狙いが定まらない)。また、水をかけてはくれないかもという心が、かかってくるはずの水を止めてしまっているような感じである。それがバリアになっているイメージだ。
一体とは、水がかけられてはきたが、まだ火と共にあるという感じである。
かかってはあるが、火は消えてはいない。でも、消えるという安心感は得れてあるそんな状態。
火は、死んでから消えるか、往生してから消えるか、いずれかにはなるが、今世ではその火はまだあるという感じである。
そんな難しくはない論題ということか、、
ならば、新しい領解文の「本来」という言葉は、この二つの論からも明らかに間違いということになる。
しかし、その一方では、民間に流布した談義本では、明らかに本覚思想や現世利益、密教的な思想を説いたものとなり、それが教団拡大に大きく寄与したのは事実のようだ。教義の体は守りながら、教化ではそれを黙認していたようである。
新しい領解文までの、「念仏者の生き方」「私たちのちかい」「浄土真宗のみ教え」は、教化のためとして黙認していたものの、教義の体にまでそれを及ぼしたために、これほどの反感をかうことになったのだと思われる。
外部から見たら、確かに数年前から教化のためとして出されてきたものは、今回の新しい領解文と、大して変わらないものであり、なぜ今回になってという疑問もあるが、やはり、教義の体にまで手を出したらあかんよ、という自浄力が働いたということなのであろう。
談義本の原点は、蓮如上人の時代から始まり、私の手元にある「六字名号探書」までに至って、昭和初期ぐらいまで、500年近く、民間流布させていた可能性は極めて高い。
それには、釋○○が書き写したものとある。
本覚思想、密教思想、現世利益、神仏習合と盛りだくさんである。
教義を何も知らない者にとっては霊験あらたかな有り難いものとなったのだと思われる。門信徒数が群を抜いて多くなったのも頷ける。
そういうことなら、談義本と同じように「念仏者の生き方」「私たちのちかい」「浄土真宗のみ教え」までは意図的には良かったのかもしれない。
しかし、「新しい領解文」は、踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったということであろう…
あるいは、わざと踏み込ませたのか…そこまでは拙生も関知しようがないことである。
ただ、「新しい領解文」の見解を聞かれて、本覚思想と雑修、雑行、雑善を敢行推奨するのは教義的にはおかしいのでは、というところから始まったわけです。
そして、その思想的な背景(戦争や差別に繋がりかねない思想)にも気になるところがあるため、それを問題としているのであります。