日記

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わたしの領解文/一人ひとりの領解文

2023年05月27日 | ブログ
領解は、本来、一人ひとりの信心への理解を表すものであり、強制されたり、ましてや唱和させられたりするものではない。

その信心への理解もそれぞれで深まることによって、当然に、その領解も変化するものになっていきます。

その各々の領解を確認していく場が、勧学による改悔批判、法義示談となるわけです。

わたしの領解文を表す(出言)ことで、自分の信心の理解を自分で確認していくと共に、改悔批判、法義示談に積極的に参加して、勧学の導きにて、より信心の理解を深めていくことが望ましいものとなります。

また、それが本来の門信徒のあり方であると言えるのでしょう。

▼ わたしの領解文/一人ひとりの領解文
https://note.com/yokayokayo/m/m4c5d9a5e5ed5

▼ つぶやき領解文
https://note.com/yokayokayo/m/m1e38b68e966d

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私の現時点での領解文

南無阿弥陀佛
本願勅命
南無阿弥陀佛
称名正業
南無阿弥陀佛
名号功徳
南無阿弥陀佛
信心正因

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根拠は名破満釈・融会合釈の拙現時点での解釈から・・

親鸞聖人の思想

「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」

「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」

行信論の要諦は、名破満釈・融会合釈

「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。」

称名①→本願への志願・疑心
称名(正業)②→志願・疑心
称名(正業)②→念仏(称名③)→南無阿弥陀佛(名号・称名④)→正念(信心決定・信心獲得)

法性法身阿弥陀如来の称名
方便法身阿弥陀如来の称名
諸仏諸菩薩の称名
報身阿弥陀如来の称名
応身釈迦如来の称名
法蔵菩薩の称名
七高僧の称名
親鸞聖人の称名
獲信者・善知識の称名
衆生の称名(信心は問わない)
自分の称名(獲信前)
自分の称名(獲信後)

①〜④と各称名については、まだ整理中です。

称名①〜④は、微妙なりにも阿弥陀如来の方便法身のはたらきに差異があると考えているわけです。

特に、①と➁には大きな違いがあり、①は、衆生に本願を知らしめる役割、②は、本願を得心させる役割があると考えています。

③は、本願を納得させる役割、④は、本願の功徳を得心させる役割となるでしょうか。

まだ思考中です…

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▼ わたしの領解文/一人ひとりの領解文
https://note.com/yokayokayo/m/m4c5d9a5e5ed5

▼ つぶやき領解文
https://note.com/yokayokayo/m/m1e38b68e966d

(ウェブページ作成の思い)
 ここは、それぞれの方の領解出言が、まとめて見ることのできるサイト。
 閲覧者の方が、それぞれの方のお領解を味わい、自らの領解も味わい・深め、自らの領解も言葉にしてみたくなるような…おみのりにであう場を、ゆるやかに繋いでゆくページです。
 皆さまそれぞれの領解が、深まる機縁となり、いろいろな方のお領解が集まれば、楽しいアクションになると考えました。
 自身のお領解を言葉にすることは大切なことですが、むずかしいことです。公開されている方は、そう多くはありません。このページを作るにあたって最初に、まず自分の領解は何だろう?と私自身に向き合いました。それから、Facebookでお見かけした範囲で、数名の方にお声がけしました。こころよく、掲載をご了承くださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。
 ページはこれから少しずつ更新していく予定です。ぜひ楽しんで、ご参加ください。
(掲載依頼方法)
 ご自身の領解文を掲載くださる方は、佳琳  佳代 のFacebook Messengerに直接ご連絡ください。もしくは、下記メールアドレスにお送りください。▶yokayoka.f@gmail.com
 掲載名は、本名またはペンネーム、どちらでもかまいません。お任せいたしますのでお聞かせください。

▼ わたしの領解文/一人ひとりの領解文
https://note.com/yokayokayo/m/m4c5d9a5e5ed5
▼ つぶやき領解文
https://note.com/yokayokayo/m/m1e38b68e966d
▼ Facebookでの告知投稿
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=6050628055055511&id=100003251296789&mibextid=Nif5oz

(松月さまコメント抜粋)
 新しい「領解文」にただ反対と言っているだけでは不毛の論議となり何も生まない。領解文を考えることで自分自身のお聴聞の姿勢、あるいは領解という事をあらためて考えていこうという信仰運動としてこそ、この度の混乱が意味あるものとなる。
 [新しい領解文]問題を機縁とした、わたしの信仰運動。そして、一人ひとりの信仰運動の場へと。
 なもあみだぶつ。合掌。
 塩井佳代拝
※シェア・拡散歓迎です
※You Tube「新しい領解文を考える」シンポジウム第二弾でご紹介いただきました