「機法一体」は、「南無・衆生の信心・機」と「阿弥陀仏・阿弥陀如来の救い・法」が一体としてあることを表しているもので、「南無阿弥陀仏」がその一体性として「本来」成立してあることを表そうとしたのが、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」ということかもしれませんとの可能性についてご指摘を頂きました。
改めて考えますと、それならば、「煩悩・さとり」とした対比ではなく、「信心・救いは 本来一つゆえ」としていれば、決定的な間違いとは言えなくなっていたであろうということになります。
「機法一体」からでは、
「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」
「仏凡一体」からでは、
「私の煩悩と仏のさとりは、一つになるゆえ」
もしも、そのどちらかであれば、実は大した間違いとは言えないということになります。
「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」は、「機法一体」と「仏凡一体」の混同した理解からとも言えなくはありませんが、宗門の要職にある者が、それに気付かないこと、特に勧学寮が見過ごすわけはありません。
やはり、勧学寮の警戒や制定過程における勧告を無視して強引に成立させたことを鑑みれば、意図的に本覚思想、創案者の思想を入れ込ませた可能性が高いと言えなくはないということであります。
とにかく、いずれにしても「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」は紙一重で決定的な間違いになっているということではあるのでしょう・・
改めて考えますと、それならば、「煩悩・さとり」とした対比ではなく、「信心・救いは 本来一つゆえ」としていれば、決定的な間違いとは言えなくなっていたであろうということになります。
「機法一体」からでは、
「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」
「仏凡一体」からでは、
「私の煩悩と仏のさとりは、一つになるゆえ」
もしも、そのどちらかであれば、実は大した間違いとは言えないということになります。
「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」は、「機法一体」と「仏凡一体」の混同した理解からとも言えなくはありませんが、宗門の要職にある者が、それに気付かないこと、特に勧学寮が見過ごすわけはありません。
やはり、勧学寮の警戒や制定過程における勧告を無視して強引に成立させたことを鑑みれば、意図的に本覚思想、創案者の思想を入れ込ませた可能性が高いと言えなくはないということであります。
とにかく、いずれにしても「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」は紙一重で決定的な間違いになっているということではあるのでしょう・・