日記

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「機法一体」「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」

2023年05月05日 | ブログ
「機法一体」は、「南無・衆生の信心・機」と「阿弥陀仏・阿弥陀如来の救い・法」が一体としてあることを表しているもので、「南無阿弥陀仏」がその一体性として「本来」成立してあることを表そうとしたのが、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」ということかもしれませんとの可能性についてご指摘を頂きました。

改めて考えますと、それならば、「煩悩・さとり」とした対比ではなく、「信心・救いは 本来一つゆえ」としていれば、決定的な間違いとは言えなくなっていたであろうということになります。

「機法一体」からでは、

「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」

「仏凡一体」からでは、

「私の煩悩と仏のさとりは、一つになるゆえ」

もしも、そのどちらかであれば、実は大した間違いとは言えないということになります。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」は、「機法一体」と「仏凡一体」の混同した理解からとも言えなくはありませんが、宗門の要職にある者が、それに気付かないこと、特に勧学寮が見過ごすわけはありません。

やはり、勧学寮の警戒や制定過程における勧告を無視して強引に成立させたことを鑑みれば、意図的に本覚思想、創案者の思想を入れ込ませた可能性が高いと言えなくはないということであります。

とにかく、いずれにしても「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」は紙一重で決定的な間違いになっているということではあるのでしょう・・

「新しい領解文」への「浄土真宗と戦時教学」からの警鐘

2023年05月05日 | ブログ
下記の論文においては、過去の戦時教学の問題点が、冷静に分析されて、同じような事態にまた陥りかねないことが警鐘されており、まさに、この度の「新しい領解文」が同じ過ちを繰り返しつつあることについても考えさせて頂けるような内容ではないかと存じます。

「思想の並列化こそが、ともすれば危険な思想に発展しかねない」

現代的な思想や価値観を無理に仏教的あるいは真宗的な発想へと変えること、またその逆についても、危険となるのは、大抵、俗に聖を合わせて並列化されていくことになり、それが普遍性を帯びだして、間違った方向へと知らず知らずの間に誘導されてしまいかねないということであります。

結論からは、今の「新しい領解文」の問題が、戦時教学と同じ過ちに陥りつつあることを予見させてくれているのではないだろうかと存じます。

「戦時教学を過去のものとせず、集積された経験値のような前向きな材料として生かして行く方法の一つは、その構造を常に理解し、警戒を怠らないことである。その点を理解せずに教学を安易に現代化、迎合などをすれば、大小関わらず新たな現代的戦時教学を成立させる結果を生むことになるだろう。」

まさにであります。

今、必見の論文ではないかと存じますので、ご紹介させて頂きました。

「浄土真宗と戦時教学」
https://shinshu-gakkai.omiya.ryukoku.ac.jp/2014_sotsuron/2014_sotsuron-yamamoto.pdf