しかし、問題は、確かに蓮如上人における「仏凡一体論・機法一体論」は、本覚思想に近似してあるとはいえ、よくよく考えれば誰もが全く違うと分かるものであるにも関わらず、「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」が、本来的に、生来的に自分の心にあるかのような誤解を生じさせてしまうような表現となる「本来」を採用してしまったのか・・
つまり、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の「本来」がなければ、まだ、「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」と共にある「愚心」の自分について、仏のさとり(救いの心)と私の煩悩が「一つ」になると言えたわけです。
要するに、
「私の愚心と弥陀の救いの心(あるいは、慈悲の心)が、一つになるゆえ」
としていれば、決定的な間違いとは言えなかったわけです。
つまり、「本来」さえなければ、教義的にも黙認できる範囲にはあったのです。
しかし、起草した者は、総局、総長周辺の宗門の要職にある者と考えられますが、そんな基本的なことさえ知らないわけもなく、まさかこんな間違いは当然にありえないわけです。
ましてや、勧学寮のチェックも通るはずもないのであります。
それでもなぜ、消息として発布されて教義の要諦として権威のあるものとして出されてしまったのか。
大きな謎があるわけです。
考えられている有力説は、すでにその著書の内容からも多々検証もされていますが、起草した者の個人的な思想が入ったということです。あるいは、わざと強引に起草した者が「本来」を入れたのかということです。もしくは、間違ってはいるものの、勧学寮や他の要職にある者もわざと「本来」を見逃したのか、ということもあるわけです。
色々と考えられてはいますが、拙生は、起草した者の個人的な思想を強引に入れ込んで、勧学寮の最終チェックもうまくすり抜けさせて、「領解文」としては出さないようにという答申も無視したことなど、成立までの色々な経緯的なことから見ると、やはり「わざと」起草した者の個人的な思想を入れ込んだのではないかと見ています。
では、誰が、何のためにとなりますが、それは今後の推移、顛末を見ていかないと分からないのではないかとは思います。
とにかく、一刻も早く取り下げして、責任の所在を明らかとし、組織体制を根本的に見直さないといけないのは確かでしょう。
・・
「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」は、あくまでも阿弥陀如来の側から、衆生の心にやってきた外来のものであり、衆生の側の心に生来するものではないということになります。
もちろん、一体となっているものは、水と火という本来相反するものが、共にあるようなイメージとなります。
一体している状態は、確かに衆生の心であるとは言えますが、もともとは愚心の火だけであり、そこに外からやってきた「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」が同居している感じとなりますでしょうか。
例えると、もともと誕生期の地球には、水はなかったのに、太陽系の遥か彼方から外来してきた大きな氷の彗星が大気圏に突入してきてある状態という感じに似ているのではないかと考えます。
大気圏内にあるとなれば、確かに私の心の内にあるとは言えますが、しかし、まだ地表には到達しておらず、溶岩は冷えていないという状態と言えるでしょう。
・・
この阿弥陀如来の救いの水が、信巻における本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心であり、火が、煩悩の火がまだ燃え盛ってある凡夫衆生の愚心と解している。
この水が、火と交わって、火が消えたところで二身を得れるのが、往生後の一如宝海であると考えるのであります。
・・
蓮如上人の仏凡一体論、機法一体論は、近似はしていても確かに本覚思想ではない。
何より如来蔵や仏性を扱わない。
あくまでも阿弥陀如来の回向、本願、方便法身のはたらきにより与えられるものとなるからだ。
例えれば、阿弥陀如来の救いを水とすれば、火のあるところに(こそ)、その水がかけられてくるイメージである。
自分で水を探してもってこよう、水をつくろう、扇いで消そうとする者のところには、その水はやってこない(ウロウロしていて狙いが定まらない)。また、水をかけてはくれないかもという心が、かかってくるはずの水を止めてしまっているような感じである。それがバリアになっているイメージだ。
一体とは、水がかけられてはきたが、まだ火と共にあるという感じである。
かかってはあるが、火は消えてはいない。でも、消えるという安心感は得れてあるそんな状態。
火は、死んでから消えるか、往生してから消えるか、いずれかにはなるが、今世ではその火はまだあるという感じである。
そんな難しくはない論題ということか、、
ならば、新しい領解文の「本来」という言葉は、この二つの論からも明らかに間違いということになる。
つまり、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の「本来」がなければ、まだ、「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」と共にある「愚心」の自分について、仏のさとり(救いの心)と私の煩悩が「一つ」になると言えたわけです。
要するに、
「私の愚心と弥陀の救いの心(あるいは、慈悲の心)が、一つになるゆえ」
としていれば、決定的な間違いとは言えなかったわけです。
つまり、「本来」さえなければ、教義的にも黙認できる範囲にはあったのです。
しかし、起草した者は、総局、総長周辺の宗門の要職にある者と考えられますが、そんな基本的なことさえ知らないわけもなく、まさかこんな間違いは当然にありえないわけです。
ましてや、勧学寮のチェックも通るはずもないのであります。
それでもなぜ、消息として発布されて教義の要諦として権威のあるものとして出されてしまったのか。
大きな謎があるわけです。
考えられている有力説は、すでにその著書の内容からも多々検証もされていますが、起草した者の個人的な思想が入ったということです。あるいは、わざと強引に起草した者が「本来」を入れたのかということです。もしくは、間違ってはいるものの、勧学寮や他の要職にある者もわざと「本来」を見逃したのか、ということもあるわけです。
色々と考えられてはいますが、拙生は、起草した者の個人的な思想を強引に入れ込んで、勧学寮の最終チェックもうまくすり抜けさせて、「領解文」としては出さないようにという答申も無視したことなど、成立までの色々な経緯的なことから見ると、やはり「わざと」起草した者の個人的な思想を入れ込んだのではないかと見ています。
では、誰が、何のためにとなりますが、それは今後の推移、顛末を見ていかないと分からないのではないかとは思います。
とにかく、一刻も早く取り下げして、責任の所在を明らかとし、組織体制を根本的に見直さないといけないのは確かでしょう。
・・
「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」は、あくまでも阿弥陀如来の側から、衆生の心にやってきた外来のものであり、衆生の側の心に生来するものではないということになります。
もちろん、一体となっているものは、水と火という本来相反するものが、共にあるようなイメージとなります。
一体している状態は、確かに衆生の心であるとは言えますが、もともとは愚心の火だけであり、そこに外からやってきた「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」が同居している感じとなりますでしょうか。
例えると、もともと誕生期の地球には、水はなかったのに、太陽系の遥か彼方から外来してきた大きな氷の彗星が大気圏に突入してきてある状態という感じに似ているのではないかと考えます。
大気圏内にあるとなれば、確かに私の心の内にあるとは言えますが、しかし、まだ地表には到達しておらず、溶岩は冷えていないという状態と言えるでしょう。
・・
この阿弥陀如来の救いの水が、信巻における本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心であり、火が、煩悩の火がまだ燃え盛ってある凡夫衆生の愚心と解している。
この水が、火と交わって、火が消えたところで二身を得れるのが、往生後の一如宝海であると考えるのであります。
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蓮如上人の仏凡一体論、機法一体論は、近似はしていても確かに本覚思想ではない。
何より如来蔵や仏性を扱わない。
あくまでも阿弥陀如来の回向、本願、方便法身のはたらきにより与えられるものとなるからだ。
例えれば、阿弥陀如来の救いを水とすれば、火のあるところに(こそ)、その水がかけられてくるイメージである。
自分で水を探してもってこよう、水をつくろう、扇いで消そうとする者のところには、その水はやってこない(ウロウロしていて狙いが定まらない)。また、水をかけてはくれないかもという心が、かかってくるはずの水を止めてしまっているような感じである。それがバリアになっているイメージだ。
一体とは、水がかけられてはきたが、まだ火と共にあるという感じである。
かかってはあるが、火は消えてはいない。でも、消えるという安心感は得れてあるそんな状態。
火は、死んでから消えるか、往生してから消えるか、いずれかにはなるが、今世ではその火はまだあるという感じである。
そんな難しくはない論題ということか、、
ならば、新しい領解文の「本来」という言葉は、この二つの論からも明らかに間違いということになる。