写真 タマン・プル寺院
イダ・バグースさんがニラルタ高僧のことを色々と調べてくれました。
ニラルタの息子がブラフマナ層の始祖と言われていますが、ジャワ島から渡ってきて、
マス村の村長の娘(4番目の妻)と村長の召使い(5番目の妻)と結婚し、
広く布教を続けたのはニラルタ本人のようです。息子たちが布教を目的に各地に出向き、
または母の地で布教を継ぎ現在に至っていると考えます。
イダ・バグースさんのレポート(2015年5月6日)
ニラルタの家系
ニラルタの祖父 EMPU TANTULAR
ニラルタの父 DANGHYANG (DH) SEMARA NATA (次男)
ニラルタの父の兄弟 DH.KEPAKISAN DH.SIDHI MANTRA DH.PENAWASIKA
DH.NIRARUTA は5人の妻と14人の息子をもうけました。
イダ・バグースさんは2番目の妻の4男の子孫で13代目となります。
1. IDA LOR 2. IDA Pdd MAMBAL 3. IDA Pdd SINGARSA 4. IDA Pdd SIDEMEN
5. IDA MADE PADANG RATA 6. IDA Pdd GEDE NyTALIKUP 7. IDA Pdd GEDE NyPASURUHAN
8. IDA NYOMAN KOSA 9. IDA MADE MERU 10. IDA MADE OKA MIKA
11. IDA NYOMAN KARNA 12. IDA MADE MIKA
13. IDA WAYAN SURATA (イダ・バグースさん) 14. IDA PUJA ASTAWA (イダ・バグースさんの息子)
15. IDA SURYA BUDI ADANYANA (イダ・バグースさんの孫)
DANGHYANG NIRARTA ダンヒャン ニラルタの足跡 (誕生1460-没1550)
バリには多くの司祭がいます。彼らの始まりがダンヒャン ニラルタです。
ニラルタ師は広く布教を行ったことによってたいへん有名です。
ニラルタ師はヒンズー教に関する書物を多数残しています。
例えば、ダルマのプトス、ダルマのピトトル、ウサマ バリなどです。
ニラルタ師は妻と子供たちと東ジャワのクディリに住んでいました。
クディリの妻とニラルタ師はイダ アユ スワバワとイダ クムヌという子供を得て、
ブラフマナ クムヌと呼ばれる司祭者の基と致しました。
その後、ニラルタ師たちはやはり東ジャワのマジャパイトを経て、パスルーハンへ行きました。
ニラルタ師は、パスルーハンの女性と結婚して、4人の男児、イダ ウェタン、イダ クルアン、
イダ ルルとイダ ロルを儲けました。
パスルーハンの妻からブラフマナ マヌアベという司祭者が始まりました。
更にニラルタ師の家族は、東ジャワのバランバンガンへ行きました。
ニラルタ師は、バランバンガンの女性と結婚し、3人の子供が生まれました。
それぞれイダ イストリ ライ、イダ サクティ ジェラガそしてイダ クニテンと名付けられました。
この妻の子供から、ブラフマナ クニテンが始まりました。
ニラルタ師たちは、西バリのプランチャックへ行き、その後、ガディン ワニ村へ行きました。
ニラルタ師と司祭者たちは、その村で村人の病気を治療し、その後も同じ行いを続けました。
彼らは、マス村につきました。(1496年、36歳)ニラルタ師は、マス村の村長の娘と結婚しました。
そしてこの妻からブラフマナ マスが始まりました。子供たちは、イダ ティンブル、
イダ アランハジェン、イダ パナルカンそしてイダ シガランと呼ばれます。
ニラルタ師は、また村長の召使いと結婚しました。この妻からブラフマナ アリテンが始まりました。
この子供の名前は、イダ パタパンと言います。
ニラルタ師は、再びゲルゲル王の宮殿に行きました。彼は、王のために精神面の先生となりました。
多くの寺院がダンヒャン ニラルタに捧げられました。その中には、
1 ジュンブラナのプランチャック寺院とランブット シビ寺院(西ジャワ)
2 ブレレンのプラキ寺院とポンジョッ バト寺院 (北バリ)
3 ギャニアール県のエルジュレック寺院
4 クルンクン県のワトッロトッ寺院
5 ロンボック島のリンサール寺院、ナルマダ寺院そしてスラナダ寺院
30週間に一度のクニンガンの日には、常に神とダンヒャン ニラルタへの寺院祭儀が行れます。
その寺院はタマン プル寺院と呼ばれ、ギャニアール県のマス村にあります。
この祭儀の間、全ての司祭の家族はこの寺院にお詣します。
この司祭 ダンヒャン ニラルタ師はバドン県のプチャト村で没した(90歳)と信じられています。
以上
沢山のレポート
ヒンドゥー教を伝えるために各地を歩き、家族単位でその地に留まり、布教の核となって、
ひとつの階層ブラフマーナ BRAHMANA を創りあげました。
布教と共に、医療を施し技術を教え伝えました。仏教が日本に伝来した時のように。
現在に至るまでバリ島の日常は宗教儀式そのものです。生活に深く根差しています。
神々のモチーフ(石彫や木彫)、さまざまな供物や数々の通過儀礼、セレモニー、絵画、宗教舞踊、家屋のつくりにも。
経済面では家内手工業による一大産業です。暮らしのあり方、バリ島の基を築いた人と言えるでしょう。
500年以上経つにもかかわらず、全てのお名前が記録されていることに驚きです。
そして、几帳面な性格のイダ・バグースさんのレポートに感謝いたします。やはり、元校長先生だと思いました。