日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

端っこにある

2017年09月10日 | 覚えておくために
本当に大事なヒントは
本編ではなくて
どうでもいいような端っこにある

ぼんやり思い出した時になぜか思い出すこと
関係ないけどそういうことあった、みたいな

はみでるもの
あふれるもの
意図されず表出するもの
むいしきの遊び

コントロールされず
注目されず
自由に野放しにあらわれたもの
その「いとおかし」さ

そこまで腕を広げて
言葉でないところで受けておく

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一等賞

2017年09月06日 | 日記
9月はいろんな人の話を聞いた。

スタンフォード大学の教授
慶応大学の脳科学者
長く修行をした禅の老師
尺八奏者
山伏(そう、山伏は本当にいます)
ビジネス界のスタースピーカー
ESDs教育でユネスコに注目される小学校長

自由意志は幻想だって。
意識が決めるずっと前に無意識が決めてるいうことが実験で証明されている。

ドラッカーが死ぬまで愛したものは日本の水墨画だった。
多分誰よりも多くのものが見えたんだろう。

スタンフォードの学生たちもウツになる。
悠々と進むように見えて足は必死なduck症候群。

禅問答のかけらを聞いた。
さすがだ、熱され何度も何度も打たれた鋼のようだ。
揺らがない。けれど閉じていない。

最先端の小学校では子供の主体性が中心。
教師は先生じゃなくてファシリテーター、そうしてると学力も18ポイントも!上がる。

みんな素晴らしかった。


出会えてその人の生きてる感じに触れられてよかった。
なんて色とりどりに人は生きているんだろう。

でももしひとつだけ、自分の気持ちに一番近いことばを選ぶとしたら。

遊びに来て庭仕事を手伝ってくれたウタコの
(ごちゃごちゃ話を聞くよりも)
「庭の紫陽花切ってる方が面白い」

自分で生きる方が面白い。

生活する方が面白い。

そうだよね

私もそう思う。

充分に学んだら後は教室の外に出て

(家に帰って)

自分を生きよう。

どこまでもどこまでも足元を見て。






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YES, NO

2017年09月05日 | 苦しむ人とともにあること
すぐ近くにひどく苦しむ人がいて、じりじり斜面を滑り落ちていくのをずっとたまらない気持ちで見ていた。
そっちじゃない、それじゃあ落ちてしまう、と私は何度も叫んだ。No! No! No!と。こっちだから、それは違う、No, no, no! と。
結論から言えばダメ出しと指示出しは、百害あって一利なしだった。Noと言い合う間にもその人は落ち続け、私との間の裂け目が深く広がるばかりだった。遠く離れたまま苦しむその人に、もうなんの声も届かなかった。
その後自分もうんと苦しんだ私は、もう一度その人の近くにいた。相変わらずその人は苦しんでいたけれど、ほんの少しだけマシになった私にはNoと言ってもなんにもならないのが今度はわかった。どうせ滑り落ちていくのなら、私くらい見ていてあげよう。しばらくつきあったってかまわない。だからYesとその人に言った。そうだね、苦しいね、Yes, yes, yesと。
そうするとたまにYesと返事が返ってきた。私たちは時々Yesと言い合った。相変わらず斜面を落ちていきながら、でも一緒だからあまり気にならなくなった。
どうだろう。その人は奈落に落ちて死ぬだろうか。でも生きることは死んでいくことでもあるから。
例えこれが死につながる坂だとしても、十全に生きたと言えないと、誰が言えるだろう。その人以上に真剣に生きたと、誰が言えるだろう。
暴れながら苦しみながら、その人は少し上を見るようになった。この先がどうなるのか私はまだ知らない。ただ私たちは前より近くにいる。

そして時折、Yesと言い合う。

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知らないし、わからない

2017年09月05日 | 覚えておくために
こどもは

自分が知らないことを学んで知るけれど

その先の

大人は

自分が何を知らないのか、を知る

知れば知るほど

どれほど知らないか

知り得ない

膨大な空白の輪郭を仰ぐ

深く連なる地平からの風を聞く

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座標

2017年09月02日 | 覚えておくために
今ここ、ってよく言うけど
いまいち腑に落ちなかったんだけど

わかった

今ここ、って座標みたいなもんなんだ

だってそこには

今も
今以外も
ここも
ここ以外も
ない

今ここ、は
こちら側からそちらを目指す時の座標なんだ

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