ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

前九年の役 & えさし藤原の郷

2009年04月08日 15時00分30秒 | 岩手県の散歩道
またまた、長文ですが興味の無い方は、パスして写真をご覧下さい。

前九年合戦の発端とは

陸奥の有力な豪族である安倍頼良(のちに頼時と改める:これは源頼義が国司として赴任すると、名前の呼び名が一緒になることから安倍頼良が気を使って改めたと聞いたことがあります)は、自からを
俘囚(ふしゅう)【蝦夷(えみし)】の長と称し、奥六郡に柵を築き、半独立的な勢力を形成していながら、その傍ら国府(国司や多賀城の官人)との良好な関係維持にも務めていました。
しかし、歴代の国司達(藤原登任や源頼義)は、在任期間中に東北地方に自らの勢力を扶植することを画策していたのです。
簡単に言えば、在任期間中に、手柄を立て都に帰りたかったのでしょう。
それと、豊富な財産…金や馬・漆や北方交易で手に入れた珍しい物なども目的の一つではなかったでしょうか。


永承6年(1051)に安倍頼時と藤原登任(国司)が衝突するが安倍氏の圧勝に終わる。

続いて、陸奥守に赴任した源頼義も「阿久利川事件」の嫌疑を安倍貞任に向けたことから、安倍氏との戦いは大規模に拡大していきます。
安倍氏と源氏の戦いは当初より安倍氏優勢で展開し、頼義軍は大敗し長男の義家と共に戦線を離脱します。

窮地に立った源頼義は出羽の清原氏に救援を求めます。
つまり、豪族を倒すには豪族ですね。
土地勘の無い国府軍はやはり、地元の豪族には適わなかったのでしょう。

出羽山北の清原氏1万余軍の参戦によって、「前九年の役」厨川(くりやがわ)の戦いを最後に終結し、安倍氏は滅亡します。
実は、この時点で源頼義の兵力は皆無に等しかったのです。
つまり、事実上戦いを終結させたのは、清原氏になります。
この清原氏は、この後色々と出てきますので、覚えておいて下さい。

「阿久利川事件」とは?
天喜4年(1056)源頼義は任期満了で陸奥守を辞める直前、安倍頼時を挑発して挙兵を誘発します。つまり戦いを仕掛けたのです。
これは、源頼義の部下が阿久利川畔の野営において何者かに夜襲を受け人馬が殺傷された事件ですが、犯人は安倍頼時の長男貞任(さだとう)だろうとけしかけるのです。
これは、陰謀ではないかと言われています。

阿久利川の場所ですが、現在の宮城県栗原市築館と志波姫の境の一迫川畔の「阿久戸」が有力な説とされています。 阿久利の「利」は「利根川」の「と」と読むのでは?



前九年合戦は1051年~1062年で決着まで12年を要していることから、「奥州十二年合戦」と標記される資料もあります。
現氏と安倍氏の戦いは、ほとんどが後半6年間のことです。
しかも、源氏は衣川の関を越え奥禄郡に突入することはできなかったのです。

さて、初代清衡の父、経清ですが、妻は安倍頼時の娘を娶っています。
つまり、頼時は義理の父です。
同じく陸奥国府に仕える平永衡も頼時の娘と結婚しています。
しかし、この平永衡は敵軍に通じていると陥れられ、殺害されました。
経清も累が自分に及ぶと考え私兵800余人を率いて頼義軍を離脱し、安倍陣営に帰属したのです。
この影響は頼義軍にとって影響は大きかったようです。


安宅の関

源義経が武蔵坊弁慶らとともに、奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり、弁慶が偽りの勧進帳を読み、義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという歌舞伎の「勧進帳」でも有名ですね。








金色堂




本物はこちらです。

ここには、清衡・基衡・秀衡の三体のミイラと泰衡の頭部が納められています。

平泉・中尊寺・金色堂の記事です。

後三年の役はこちらつづく

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30 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
オズさんへ (ひー)
2009-04-10 10:49:01
この平泉の話しをガイドがすると、お客様は全員寝てしまいます。
しかし、一人二人は起きている方がいて熱心に聞いてくれる人もいます。
お腹は良くなりましたか?
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オズさんへ (ひー)
2009-04-10 10:44:18
こんな長い活字を読んだからですね。
すみません!
今度は、写真だけにして下さい。www
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はーさんへ (ひー)
2009-04-10 10:40:31
義経のお墓に近いうちに行きたいと思っています。
地震のあった栗駒にあります。
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あーさんへ (ひー)
2009-04-10 10:35:59
正一位の位は初めでですね。
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おはようございます (オズ)
2009-04-10 08:51:42
昨夜は失礼しました。
最初に、遅れましたがブログ二周年おめでとうございます。
これからも、歴史の探求楽しみにしてます。

中尊寺の金色堂今も尚光を失わないのですね、
国宝なので、手入れが行き届いていることでしょうね。

それと、兜とか刀とか、槍など体験できて面白そうね!!
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おやすみ (オズ)
2009-04-09 23:31:03
お邪魔して読んでましたが、
なんだかお腹が痛くなってきました。
又、出直します。
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Unknown (はー)
2009-04-09 23:11:46
ひーさんとのご縁から
興味を持つようになった
東北ですけれど~
平家も 源氏の義経も
繋がってきて不思議です~
藤沢と義経のご縁は深く
今年は一歩前進するつもり 
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お晩です (あーさん)
2009-04-09 22:03:28
正一位出直し大明神  あれっ コレ前にも言ったかな?
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酔漢さんへ (ひー)
2009-04-09 20:46:52
父上様は七ヶ浜でも発掘をしてましたよね。あの資料館もいけずにいます。
多賀城廃寺の本当の寺の名前が今更ながらわかりました。
その件は、桜が満開になったら書こうかと思います。
調べたいことやりたいことが沢山あります。
若い時は勉強もせずに遊んでいたのに…不思議なものです。
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みっちゃんへ (ひー)
2009-04-09 20:36:43
ピッチ上げて、UPしないと、ネタが溜まってきました。
面倒な歴史の話しはバスしたいのですが、ご了承下さい。
また、人形でてきますよ~
早くこれ終わらせないと。
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多賀城の発掘で (酔漢です )
2009-04-09 17:08:55
お久しぶりでございました。
父が多賀城の発掘に参加しておりましたので、そのあたりの歴史を、先生方から聞いた事がございます。
合戦が盛んに行われた時期であった為、文献が残っていないんだとか・・。
まだ、まだ解明されてない事が多い事に気づきます。
「藤原の郷」機会があればでかけます。
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この最後の金ぴか (みっちゃん)
2009-04-09 12:32:08
頭部ってとこで思い出しましたわ(・_・)前にもココで拝見したこと~
朱蒙、太王四神紀、三国志と時代劇オタクここんとこなってますけどぉ~
こちらのドラマリポートの合戦風景も臨場感ありますわね~
そして・・・
やっぱ人形が置いてあるのがエエな~♪ 
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ミモザさんへ (ひー)
2009-04-09 07:41:15
消えて無かったようです。
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ミモザさんへ (ひー)
2009-04-09 07:39:18
活字が多くてすみません。
簡単に説明と思うのですが、難しいです。
戦いに負けた後が、清衡にとって苦しい人生になります。
炎立つを見ませんでしたが、逆に先入観が無くていいかも?
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クロンシュタットさんへ (ひー)
2009-04-09 07:32:52
田村麻呂はアテルイを擁護するのですが、結局処刑されました。
ここまで書いたので、もう少し書かせていただきます。
首里城は丁度私が行ってた頃に、出来上がったかと。
私の知り合いのお爺様が首里城に勤めていた最後の方で、首里城建設に協力をしたそうです。
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あら? (ミモザ)
2009-04-09 06:59:10
お早う御座います~♪
コメントをかいたのに消えてしまいました?
(炎立つ)は毎回見ていましたのに
ストーリーは忘れかけていました。
ひーさんのおかげで、もう一度
思い出しながら拝読しています。
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長い戦乱でしたね。 (ミモザ)
2009-04-09 06:54:05
お早う御座います~♪
私も(炎立つ)を毎回見ていましたが
ストーリーも忘れつつあり、ひーさんの
記事で少しずつ、思い出しながら
読んでいます。
次回も楽しみに待つ事にします。
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塩竈五郎ひー之輔殿! (クロンシュタット)
2009-04-09 06:11:30
「炎(ほむら)立つ」は全て見ました。
だって多賀城が出てくる大河ドラマですからね。
とにかく日本の歴史上の善玉スーパースター「源氏」が、悩みを抱えてはいるが悪玉として描かれていたことが斬新でした。
蝦夷の末裔を自任する私にとっては、溜飲の下がる思いでした。
でも、のこぎり引きの処刑のシーンは辛かったです・・・・

「地方の時代」「個性の時代といった言葉がもてはやされていた頃でして、大河ドラマも琉球と奥州の組み合わせで、しかもマイナーな史実でしたね。
そういえば復元直後の首里城に行ったことがあります。
朱色が眩しすぎ!


返信する
維真尽さんへ (ひー)
2009-04-08 23:40:09
この辺は、金が採れましたからね。
義経を平泉に連れて来た、吉次は金売り吉次と言われ、京に金を持っていって、商売していたのです。
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papieeさんへ (ひー)
2009-04-08 23:36:17
記事の件了解です。
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あーさんへ (ひー)
2009-04-08 23:34:56
あっ足算・・・そうだ!・・・
ところが、これ前九年だけのようで、後三年はまた別に4年かかってます。
たぶん、どちらも始まりがハッキリしていなからなのかも??
ただのゴロ合わせだったりして?
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いっくさんへ (ひー)
2009-04-08 23:29:04
とうちゃんに付き合ってるいっくさんは偉いです。
太平記・・・古いですね。
大河ドラマはすべて中途半端です。
若い時は殆ど、家に居なくて、夜は宴会・・
もしくは、海外ですからね~
衛星放送が唯一の楽しみでしたが、やってた番組は囲碁だったりとか・・・これについていつか記事にします。
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papieeさんへ (ひー)
2009-04-08 23:23:10
おばんです!
まぁ、模型みたいな金色堂ですね。
戦いは、この後また勃発します。
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金色堂~ (維真尽(^^))
2009-04-08 21:57:09
まさに~
光り輝く御堂だったんです~ね (^_-)~☆
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朝の話ですが (papiee)
2009-04-08 21:52:55
ひーさん、朝の話の件ですが・・・
明日更新の予定でしたが
1日遅れて更新します。
すみません・・・

今お仕事中かな?
頑張ってくださいね
返信する
お晩です (あーさん)
2009-04-08 21:23:40
前九年、後三年  合計十二年・・・ですね。

金色堂 いっぺん鞘のないのを観てみたいものです。
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Unknown (いっく)
2009-04-08 21:14:34
安宅の関のエピソードは好きだわ

今、とーちゃんに付き合わされて太平記(真田広之主演の大河ドラマ)を見せられてます
この頃は藤原の郷はまだできてないですね
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Unknown (papiee)
2009-04-08 19:44:32
やっぱり、本物の金色堂は違いますね~。
立派です。ここで起こった歴史の全てが
詰まってる感じがします。

12年間も戦いは続いたのですね~。
戦いに参戦してなくて良かった私・・・。


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桃源児さんへ (ひー)
2009-04-08 18:22:51
おばんです。
まぁ、かなり簡素化された金色堂ですが、何かの背景に使われたのかも知れませんね。
この記事はズーット書きたかったのですが、短く書くのが大変です。
東北のこの歴史は、大河ドラマになったものの知らない人が沢山居ますからね。
この後、後三年の役で初代清衡の話しになります。
それは、最後の方に書こうかと。。。。
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Unknown (桃源児)
2009-04-08 17:56:21
金色堂、ここでも見られるんですね。
前九年の役、九年どころか十二年だったんですね。
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