平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

英紙タイムズの報道

2005年04月12日 | Weblog
中国の反日デモについて、タイムズ紙がきちんとした論評をしています。中国政府が反日を煽ることは自分を損なうだけだと指摘しています。

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<中国反日デモ>「明らかに中国政府の暗黙の奨励」英紙報道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050411-00000108-mai-int

【欧州総局】中国で9、10両日にあった反日デモについて、英紙タイムズ(電子版)は11日付の社説で、「明らかに中国政府の暗黙の奨励で行われた」としたうえで、「暴徒化する群集心理を後押しすれば、最終的には自らが敗者になることを中国指導者は理解しなければならない」と指摘した。
 同紙社説は、中国政府が反日デモを奨励している理由として、経済格差や失業、汚職などの国内問題から国民の関心をそらせることと、アジアでの日本の政治的、経済的影響力を抑えるためであると分析した。
 反日デモの背景には、日本の歴史認識や教科書をめぐる問題もあると紹介したうえで、「日本の世論はもはや卑屈ではない」と指摘。一方で、小泉純一郎首相は靖国神社参拝や教科書の問題を解決し、「真の改革者」であることを証明しなければならないとした。
 また、10日付の米紙ワシントン・ポスト紙(同)は、北京の日本大使館の窓ガラスが割られたことなどを伝え、「反日デモは中国政府に容認されていた」と報じた。
(毎日新聞) - 4月11日20時23分更新

百匹目の猿(1996年3月)

2005年04月11日 | バックナンバー
昌美先生が富士聖地で「百匹目の猿」についてお話しましたので、バックナンバーを紹介します。

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 宮崎県串間市の沖合いに、幸島(こうじま)という小さな島がある。この島には野生の日本猿が生息している。地元の小学校教師、三戸サツヱさんは、その猿が奇妙な行動をしているのを発見した。若いメス猿がサツマイモを水で洗って食べ始めたのである。この習慣は徐々に仲間の猿に広がり、あるとき、一匹の猿がその習慣に加わると、残りのすべての猿が同じ振る舞いをするようになった。それだけではない。幸島の猿たち全員が水洗いの行動をするようになると、大分県の高崎山の猿たちも同じ行動を始めたという。いつのころからか、水洗いを猿全体の習性とするのに決定的な一撃を与えた最後の猿のことを、「百匹目の猿」と呼ぶようになった。それは実際に百匹目ということではなく、象徴的な意味で言われているのである。

 幸島と高崎山は海を隔てて離れているので、幸島の猿が高崎山へ行ったわけではない。また、猿たちが電話やファックスで連絡したわけでもない。なんの伝達手段もないのに、二つの猿群の間にはなんらかの情報伝達が行なわれたと考えざるをえない。百匹目の猿現象は、高次の意識や行動様式を身につけた個体が一定の数に達すると、外的な伝達手段がなくても、それが種全体に広がり、種の進化をうながすことを示しているように思われる。

 猿にそういう現象が起こるということは、人間にも同じ事象が起こる可能性があるということを示唆してはいないだろうか。人類の進化もまた、高次の意識を持った個人の出現によって推進されてきた。仏陀やイエス、孔子や老子などの聖賢は、人類の文明や精神生活のあり方を大きく変えたと言えよう。彼らの教えによって、人類は、人生には物質的欲望の充足よりももっと高い目標があるということを知ったのである。

 もっとも、彼らの教えはたしかに人類の心の糧となってはきたが、人類はいまだ真の平和からほど遠い状態にある。彼らの教えに無理があったからなのか、いまだその時期にいたっていなかったからなのか。いずれにせよ人類は、彼らの説いた愛と平和の教えに反して、宗教紛争や民族紛争の渦からいまだ逃れられず、二〇世紀末に滅亡の危機に直面している。この危機を乗りこえるためには、さらなる精神的飛躍が必要とされている。

 その進化を担っているのは一人ひとりの人間である。エゴイズムや闘争を生の自明の原理とするのではなく、愛、調和、平和を優先して生きる人間たちがある一定の数に達するとき、その意識は全人類に波及して、世界は一気に平和の方向へと変化するのではないだろうか。一人の変化が全体に影響を及ぼし、人類を変化させるのだ。言い換えれば、あなた自身が百匹目の猿(?)であるのかもしれない。

中国への祈り

2005年04月10日 | Weblog
中国では反日暴動が起こっていますが、この暴動は中国政府によって煽動されている部分があります。

中国は、いまだに共産党の一党独裁体制が続き、言論の自由がない国です。政府にとって都合の悪い言論はすべて暴力によって封じ込められますが、都合のよい言説は流布が許可されます。中国に、政府の意向から離れた「市民団体」など存在しません。

中国では、政治が民主化されないのに、経済に資本主義が導入され、日本以上に拝金主義がはびこり、共産党幹部の汚職が蔓延しています。貧富の差が激しくなり、国民の不満が高まっています。

中国共産党は、国民の不満をそらせ、国内を統一する手段として反日を利用し、反日教育をしてきました。

しかし、このような手段はやがて共産党自身にはね返るでしょう。反日暴動は、いつ反共産党暴動に転化しないともかぎりません。

私たちは、彼らの憎悪に巻き込まれることなく、ダライ・ラマと同じように、中国人が一日も早く真理に目覚め、中国が民主化されることを祈りましょう。

ダライ・ラマ 平和を語る(2000年4月)

2005年04月09日 | バックナンバー
ダライ・ラマが来日中で、各地で講演会が開かれます。

・東京講演
 2005年4月9日(土)『思いやりと人間関係』
 会場:両国国技館
 ☆東京のチケットは"完売"とのことです。どうしても聞きたい方は、会場の前で「チケット求む」という掲示を掲げるとよいでしょう。

・熊本講演
 2005年4月10日(日)『心の平和から世界の平和へ』
 会場:熊本県立劇場コンサートホール

 2005年4月12日(火) 法話会『智慧と慈悲』
 会場:蓮華院誕生寺の奥之院 ほか

・金沢講演
 2005年4月16日(土)・4月17日(日)
 龍樹菩薩の『菩提心の解説(チャンチュプ・セムデール)』
 会場:石川県立音楽堂

詳細はこちら
  http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2005japan/index.html

私は2000年に東京でダライ・ラマの講演を聞きました。2000年の来日のときに書いたバックナンバーを紹介します。

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 四月にダライ・ラマ一四世が来日し、東京と京都で講演をする。

 ダライ・ラマは亡命チベットの政治的元首であり、チベット仏教の最高指導者でもある。政治的権力と宗教的権威をかねそなえるという点において、ローマ法王と似た立場にある。

 チベット仏教には、高僧が何度も輪廻転生して人びとを教え導くという信仰がある。いわゆる「転生活仏」はダライ・ラマだけではない。パンチェン・ラマやカルマパなど、数百人の高僧が転生すると信じられている。その中でも、観世音菩薩の転生者とされているダライ・ラマは最高の権威を有している。

 今回の来日は、京都精華大学が同学人文学部に環境社会学科を開設することを記念し、ダライ・ラマ法王を招聘したことがきっかけである。ところが、今年の初め、一四歳の少年カルマパ一七世が、中国からダライ・ラマのいるインドのダラムサラに出国(おそらく亡命)したことから、チベット問題が日本のマスコミの注目を集めることになった。

 チベット民族にはチベット語という固有の言語とチベット仏教という固有の文化がある。中国語と漢文化を持ち、共産主義を支配的イデオロギーとする現在の中国とは明らかに別民族である。チベットが中国の一部であるというのであれば、漢文化の影響を受けた日本も中国の一部ということになってしまう。チベットでは中国による人権侵害やチベット民族弾圧が続いており、国際的な批判が高まっている。

 チベット人の中には、武力をもって立ち上がらなければ民族の独立は永遠に達成できない、と考える人びとも少なくない。しかし、仏教徒として絶対的非暴力の立場に立つダライ・ラマは、武力闘争を否定している。

 彼は、最近出版されたばかりのリンザー著『ダライ・ラマ 平和を語る』(人文書院)の中で、「私のもっとも重要な関心はチベットの将来に向けられています。そしてそれは私たちの隣人であるインドと、とりわけ中国との関係に強く依存しています。私たちが非暴力的でありつづければ、中国人の中に肯定的な印象が生まれ、それは将来の協力を容易にするでしょう。私たちはこのようにして良いカルマをつくり出しているのです」と述べている。

 彼は同書の中でさらに、「私の日々の実践の中で、私は中国人について瞑想し、彼らに対する尊敬の念を成長させ、慈悲心を開発するように努めています。なぜかといいますと、彼らもまた苦しんでいるからです」とも述べている。暴力に暴力で対しては、決して平和は生まれない。平和の根元は慈悲の心である。私たち日本人は、チベットと中国に真の平和が訪れるように祈らなければならない。

ローマ法王の謝罪(2000年5月)

2005年04月08日 | バックナンバー
ヨハネ・パウロ2世が4月2日に逝去しました。偉大な法王でした。ここでは、5年前に書いたバックナンバーを掲載しておきます。

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 三月一二日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、カトリック教会の過去の過ちを認め、神に赦しを請う特別ミサを、バチカンのサンピエトロ寺院で開いた。聖職者や信者など一万人が集まったミサで法王は、キリスト教会の分裂、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義などに関する教会や信者の責任を認め、神に対し、「謙虚に告白している信徒の悔い改めを受け入れ、慈悲を与えるよう」求めた。世界に十億人の信徒を持つ、世界最大の宗派であるカトリック教会が、これほど包括的に歴史的な罪を認めるのは、二千年の教会史上でも初めてのことである。

 カトリックの最高指導者であるローマ法王は、イエスの高弟ペテロの後継者、キリストの権威の地上における代表者とされている。カトリックには「教皇の無謬性」という教義がある。神の代理人である教皇には一切の間違いはない、という教義である。しかし、ヨハネ・パウロ二世の告白をまつまでもなく、歴史的に見れば、キリスト教は数多くの過ちを犯してきた。カトリック教会は公式にはまだ「教皇の無謬性」という教義を捨ててはいないが、自己の過ちを率直に認めたことは画期的なことである。

 キリスト教にかぎらず、宗教はすべて自己の信仰を唯一絶対のものと見なす傾向がある。宗教的真理は、科学的真理のように論理と実証によって検証されるのではなく、信仰によって受容されるものなので、どうしても排他独善性が生じがちである。

 ある時代のある文化圏に一人の偉大な宗教的天才が現われる。人びとは、彼の説く教え、彼の示す人格、彼の起こす奇跡に魅了され、その人を神そのもの、あるいは神の代理人と見なす。その教えはたしかに真理のその時代や文化にそった表現であり、それによってその当時、多くの人びとが救われを見出したのだろう。しかし、時代が移り文化が異なれば、昔のままの表現では、理解も実行も難しくなる。それを昔のままに保持しようとすると、社会の進歩を妨げる。それを他の宗教の信者に強制しようとすると、宗教紛争が起こる。

 言語が有限である以上、いかなる宗教的天才でもいかなる教典でも、真理のすべてを表現することはできない。各宗教は、無限なる真理の一側面を照らし出したものであろう。そのことをわきまえれば、他の宗教を敵視することも排撃することもできなくなるはずである。二一世紀には、排他性自体が宗教の本質に反していることが理解されるようになるだろう。

 ローマ法王の謝罪は、宗教的寛容への大いなる第一歩であり、他の宗教も見ならうべき模範である。一九八九年のベルリンの壁の開放にも匹敵する歴史的な大偉業であると言えよう。

韓国への祈り

2005年04月07日 | Weblog
現在、竹島問題や教科書問題をめぐって、韓国で反日感情が高まっています。

日本にとって、竹島は日本固有の領土です。韓国は韓国領だと主張しています。

領土問題は、日韓両国が歴史的資料を出しあい、双方で学問的かつ冷静に事実を検証し、その事実を両国民に粉飾なく伝えて解決するしかありません。日韓両国だけでは解決できないというのであれば、国際司法裁判所(ICJ)でお互いに堂々と議論をし、第三者にどちらが正しいかを判断してもらえばいいのです。

小泉首相は、このことを冷静かつ率直に盧武鉉大統領に伝えるべきです。

その提案を受けるか受けないかは韓国側の問題です。それを受けないというのであれば、そういう冷静かつ学問的な議論をされては困る、ということになります。

韓国の反日運動は非常に感情的でヒステリックです。テレビや新聞で報道されるのはほんの一部で、インターネットにはもっと多くの映像があふれています。

こういう闘争と憎悪の感情想念に日本人も巻き込まれ、日本人もまた反韓感情を湧きあがらせ、同じような行動をしたり、憎悪や軽蔑の言辞をまき散らしては、相手と同じレベルに落ちることになります。

韓国では日本の国旗が焼かれていますが、日本では今のところ、韓国の国旗を焼いたりするような不届き者はいません。それどころか、日本の世界平和の祈りのメンバーは、日韓両国の国旗にともに敬意を払い、日韓両国の間に真の調和が生まれることを心から祈っているのです。相手国の国旗を侮辱し焼く国民と、自国の国旗ばかりではなく、相手国の国旗にも敬意を払う国民と、どちらが品性が高いか、一目瞭然となります。

すべての韓国人があのような野蛮な行動に賛成しているわけではありません。韓国の中にも良識ある人々が数多くいます。しかし、一部の韓国人のヒステリー状態の中で、冷静な意見を言うことすらできなくなっているのです。盧武鉉氏は、反日を煽って政権への支持率を高めようとするのではなく、あくまでも国民に平静を求めるべきです。

私どもは、韓国人が一日も早く冷静さを取り戻し、大局的観点から日韓の平和と友好を考えるようになってくれることを祈るばかりです。

このようなとき、4月6日、7日、8日と、世界平和の祈りのメンバー数十名が韓国を訪問し、世界平和の祈りを捧げます。とくに、7日には、日韓両国の心ある人々によって、世界平和を祈る行事が開かれます。皆様もぜひ

「世界人類が平和でありますように
 日本と韓国が平和でありますように
 日本人と韓国人が幸せでありますように
 日本人と韓国人が一日も早く真理に目覚めますように」

とお祈り下されば幸いです。また印がおできになる方は、「日本人即神也」「韓国人即神也」の印をお組み下さい。

祈りはエネルギーです。パワーです。光です。

イスラム教との対話(4)

2005年04月06日 | Weblog
聖典にはもちろん真理が書かれています。真理は永遠ですが、大昔に書かれた聖典の中には時代的な制約も多く含まれています。

3つの一神教の信者も、現代において聖典に書かれている通りの生き方を実行しようとすると、不都合が生じることを感じています。ではどうしたらよいのでしょう? 聖典そのものは変えることができませんから、あとできるのは、聖典の解釈を変えることです。ユダヤ教では、聖書にプラスして、律法学者の解釈を集めたタルムードが第二の聖典とされています。ユダヤ教ではタルムードをもとにした聖書解釈のみが正しい解釈とされるのです。キリスト教でもイスラムでも、聖典を正しく解釈するための専門の学者や僧侶がいます。

しかしながら、解釈というのは、解釈者の立場によってどこまでも拡張できるものです。イスラム過激派のテロリストでも、コーランの解釈に基づいて人殺しを正当化しているわけです。3月31日の対話で示されたイスラムの解釈も、それはその人たちの解釈であって、別の解釈をするイスラム教徒もいるでしょう。サウジアラビアの王族は、コーランを都合よく解釈して一夫多妻を正当化しているわけです。

イスラムの方々の、イスラムへのネガティブな偏見を改めたいという熱意はわかりましたが、むしろ問題はイスラムの内部にあるのではないでしょうか。イスラムが本当に平和な宗教になり、他の宗教を対等な他者として承認し、イスラム諸国が貧富の差や腐敗や社会的不公正を解決すれば、そういう偏見は自然に消えていくでしょう。

同じことはキリスト教、ユダヤ教、その他の宗教についても言えると思います。

ところが往々にして、現在の社会問題は、教えを忠実に守らないところから発生しているのであり、教えを厳密に守りさえすれば、あらゆる問題は解決されるはずだ、と観念されることがあります。宗教が数千年前に教祖によって完璧な形で啓示されたと考えられているので、その理想形に戻りさえすればいい、というわけです。そこに生まれるのが聖典を絶対化するいわゆる宗教的原理主義です。

古い教典は現在とはまったく違った時代、社会、文化の中で説かれたものですから、それを現代に当てはめようとすると、とんでもない無理が起こります。宗教的原理主義は、今日の問題を解決するのではなく、いっそう悪化させかねません。

しかも、聖典に忠実な原理主義といったって、何らかの解釈に基づいているわけで、その解釈が唯一正しいという保証はどこにもありません。自分の信念を教典にかこつけて正当化している部分がないとは言えません。

各宗教が教典の絶対化という呪縛から離れなければ、宗教間の紛争は終わらないのではないでしょうか。

『ミリからの贈り物』はこう述べています。

「昔のしきたりや、教えを全て信じてはいけないよ。
信じて良いものと、そうでないものを
自分で判断したらいいよ。
判断する時は、
自由を感じないものは
信じない方が良いよ。
何もかも信じて、
しきたりどおりにやったら、
泥船に乗っていることになるよ。
自由に生きることを学んでいる人は
宝船だよ。」(33ページ)

10歳にもならない少女のほうが、ユダヤ教律法学者、キリスト教神学者、イスラム教のイマームよりも、はるかにまともなことを述べています。こんな当たり前のことがわからないところに、宗教に翻弄される人類の悲劇があるのでしょう。

イスラム教との対話(3)

2005年04月05日 | Weblog
ユダヤ教、キリスト教、イスラムは一神教です。世間ではよく、一神教であるがために他の信仰を受け入れることができず、3つの宗教の間で戦争が起こるのだ、と言われることがあります。

しかしながら、名前こそ違え、3つの宗教の神は同じ神です。一神教ということは、神は一つしか存在しない、という信念体系です。3つの一神教は究極的には同じ神を信じているのに、そこに厳しい対立や戦争が起こるのは奇妙です。

私はむしろ、これらの3宗教が、それぞれが変更不可能な「聖典」を持っていて、その聖典に縛られていることが最大の問題だと思います。

たとえばイスラムの一夫多妻制は、イスラムが成立した当時は意味があったのかもしれませんが、明らかに今の時代にはあいません。武力や戦争の正当化についても同じことが言えます。にもかかわらず、それがコーランに神の言葉として記されている以上、それらを削除することはできません。神の言葉を変更・削除することは、神への冒涜になるからです。

ユダヤ教の聖書(旧約聖書)にも同じことが言えます。たとえば様々な食事規定や生活規定がそうです。また、キリスト教の新約聖書には、イエス・キリストを神のひとり子として絶対化し、ユダヤ人を敵視する記述があります。キリスト教はユダヤ教徒による迫害の中で成立したので、どうしても反ユダヤ主義的な要素が新約聖書には残っているのです。

聖書やコーランには、素晴らしい教えもありますが、時代に合わない要素や、差別や争いを助長する文言も含まれています。常識的に考えるならば、時代にそぐわないし、人類愛に反する教えがあれば、削除したり変更すればいいわけです。しかし、それができないのが、聖典に縛られた宗教の問題点です。大昔の聖典が人間の自由を縛り、社会の進歩を阻害し、紛争の種を蒔いているという側面があります。

仏教の場合は、こういう問題は少ないようです。何しろ、お釈迦様の名を使って語られている仏典が膨大で、その内容もあまりにも難解ですから、仏典全部を読むことすら困難です。しかも、その大部分が後世になって創作されたものであることが学問的に立証されています。仏典はあくまでも悟りのための材料にすぎません。仏典それ自体をいくら尊重しても、その内容を理解し、教えを正しく実践し、悟りを得なければ何にもなりません。

しかも、各経典の内容が多種多様です。それは新約聖書の4福音書の違いどころではありません。仏教の歴史上、異なった仏典を根拠にして様々の異なった宗派が生まれました。

それらの中で、自己の聖典を絶対化するという点で、3つの一神教に近い感性が感じられるのが、法華経系の宗派です。それは、法華経が「この教えが仏説の中で最高の教えである。ほかの教えは、法華経にいたる方便だ」と強調しているからです。法華経を信奉する日蓮系の一部の宗派が、なんとなくキリスト教やイスラムの原理主義に似た戦闘性を感じさせるのも、そんなところに理由があるのかもしれません。

イスラム教との対話(2)

2005年04月04日 | Weblog
イスラムの人々が述べるように、日本人が欧米のメディアによってイスラムに対してバイアスのかかった情報を与えられ、イスラムに対して否定的な先入観を植え付けられているということは、たしかにそういう一面があると思います。そういう偏見をなくしてイスラムの教えを正しく理解することは大切だと思います。しかし、私個人としては、イスラムの素晴らしさ、正しさが強調されればされるほど、いわゆる贔屓の引き倒しという感じがしました。

私も少しイスラムの勉強をしたことがありますが、イスラムでは聖戦(ジハード)が正当化されています。戦いを正当化する文言があると、たとえ「料理」のためとはいえ、そういう教えは悪用される可能性があります。現に、オサマ・ビン・ラディンでも自爆テロリストでも、イスラムによって自分たちの行為を正当化しているわけです。そういう正当化の根拠に使われる余地があるということ自体、教えに問題があるわけです。創始者のムハンマド自身、戦争の生涯を送った人です。

また、イスラムは他宗教に寛容ということですが、たしかに中世においてイスラム文化圏ではユダヤ教徒もキリスト教徒も自分の信仰を持つことが許され、中世ヨーロッパにおけるような宗教裁判、宗教迫害はありませんでした。そこで、イスラムの支配が続いていた1492年まで、スペインでユダヤ人が繁栄することができました。しかし、キリスト教徒によってスペインが再征服(レコンキスタ)されると、ユダヤ人は長年生活してきた土地から追放されました。キリスト教とイスラムとを比較すると、その当時はイスラムのほうがはるかに寛容であったことはたしかです。

しかしながら、この寛容は、あくまでもイスラムの優位性を前提とした上での寛容なのです。中世においては、ユダヤ教徒やキリスト教徒は、特別な税金(人頭税)を納めてはじめてその信仰が許されました。異教徒の扱い方にも差別がありました。イスラムでは聖書も聖典の一部として認めていますので、ユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」として、聖書を信じない仏教徒やヒンズー教徒よりも上位に置かれていました。イスラムの寛容とは、そのようなイスラム的秩序の中での寛容なのです。

これは、他の宗教を対等な他者として真に尊重した上での寛容性とは違うと思います。

イスラムは、モーセもイエスも預言者として認めますが、あくまでもムハンマド(マホメット)が最高で最後の預言者です。イスラムは、ムハンマド以降も、神のみ心を伝える預言者が出現することを認めません。もし認めるのであれば、そういう新たな預言者の教えも素直に学び、イスラム自体が変化するはずです。しかし、イスラムにはそういうことは起こりませんでした。つまり、イスラムにおいて、宗教はムハンマドで最高点に到達し、それ以降は、ただその教えを学ぶだけ、ということになっているわけです。

これはキリスト教においても仏教においても同じです。イエスを超える神の子、お釈迦様を超える覚者はいないとされているのです(ただし仏教には、「仏に会ったら仏を殺せ」というような教えもありますが)。しかし、人類の精神的進歩の頂点が数千年前の過去において到達され、その後の人類は決してそこに到達できないという考え方自体がおかしいと私は思っています。

イスラム教との対話(1)

2005年04月03日 | Weblog
3月31日に「未来構想フォーラム」という集まりで、「文明と宗教を探る:イスラム教リーダーとの対話」という催しが開かれました。これは、アメリカ人のイスラム教徒のグループが来日したので、彼らを招いて行なわれた行事です。

この催しには、駐日スーダン大使のオマール氏や、福岡在住のパキスタン人のムガール氏なども参加しました。

ムガール氏は、かのムガール帝国の末裔だそうで、『イスラムは日本を変えるか?』(文芸社)という本の著者です。
http://www.mughal.net/japanbook/

テレビの討論番組にも出たことがあるそうですが、私は見たことがありません。

オマール氏もムガール氏も日本語が堪能でした。とくにムガール氏の饒舌ぶりはたいへんなもので、日本語から英語への同時通訳の方が、もう少しゆっくり話してくれないと困る、と言ったほどでした。

明治以降、欧米文化を積極的に導入した日本人は、キリスト教については比較的知識がありますが、イスラム教のことはあまり知りません。イスラムというと、911同時多発テロ、自爆テロ、ジハード(聖戦)などといった物騒なことばかりを連想します。この日の集まりでは、イスラム教に対するそういう否定的な先入観を改めてほしい、というイスラムの人々の熱意が感じられました。たとえば――

・イスラムというのは「平和」という意味。
・妻を4人まで持てるという一夫多妻制は、歴史的に必要があって生まれたもので、必ず第一夫人の許可が必要。
・イスラムは平和的な宗教で、決して異宗教の信徒にイスラムを強制したことはない。ムハンマドはキリスト教におけるイエスのような神の子ではなく、預言者であり、イスラムは多くの時代に色々な預言者が出現することを認めている。イスラムが求めているのは、異宗教との対話と共存である。
・今アメリカではキリスト教からイスラム教に改宗する人々が毎月1万人いる。それは、家庭崩壊、アル中、麻薬、ホームレスなどといった問題に、イスラムが具体的な解決策を提供するからである。

このように、イスラムがいかに素晴らしい平和的な宗教であるかが強調されました。

これに対して参加した非イスラム教徒(日本人と日本人以外の方)からは、

・それではなぜ自爆テロが起こるのか。イスラム教徒自身がやめさせるように説得すべきではないか。
・同じイスラム教徒どうしで戦ったり殺しあったりしているのはなぜか。
・イスラムは死後生についてどう教えているのか。
・イスラム圏ではなぜ民主主義が定着せず、腐敗がはびこっているのか。
・イスラムが武力やジハードを認めるのはなぜか。
・なぜ女性が解放されていないのか。
・日本でもイスラムの女性がヴェールをかぶっているのは、「郷に入っては郷に従え」という日本のルールに反しているのではないか。

という質問が出ました。それに対してもそれなりの答えが行なわれました(答えがなかったものもありました)。

たとえば、「イスラムというのは原理原則である。原理原則は包丁のようなものである。包丁は料理にも使えれば、人殺しにも使える。包丁は本来料理に使うべきもので、人殺しに使うのは犯罪者であり、間違っている」というような答えです。

また「コーランが一夫多妻制を認めているのは、この世では貧しくて妻を持てない男性に、死んだら天国で4人の妻を持てると教えれば、未来に対して希望を与えることができるからだ」「イスラム初期に、戦争で多くの男性が死んだので、残った未亡人や子供たちを庇護するという歴史的意味あいがあったが、今はそういうことは必要ないし、そういうことをする人も少ない」「サウジアラビアの王族は大金持ちだから多くの妻を持てる。それは日本でも金持ちが2号さん、3号さんを持っているのと同じだ。コーランは決してサウジアラビアの王族のようなことを勧めているわけではない。イスラムの正しい教えからすると彼らは間違っている」というような答えです。

しかし、どうも核心からずれた答えが多く、質問者は必ずしも納得していないようでした。時間も足りなく、議論が深まったとは言えませんでした。

バグダッドでの平和行事(5)――後日談

2005年04月02日 | Weblog
これは3月24日の「バグダッドでの平和行事(4)」の続きです。

エリヤフさんのレポートで言及されているオーストラリア人女性、ドナ・マルハーンさんは、(2)にもあるように、イラク人を援助する活動をなさっていた女性です。今回の行事の準備のために多大の尽力をしてくれました。

3月20日の行事の少しあと、ドナさんは4月に、米軍に包囲されたファルージャでの人道支援活動中、イラク人武装グループに誘拐されましたが、20数時間後に解放されました。

同じころ、高遠菜穂子さんら3人の日本人も誘拐され、日本中が大騒ぎになったことは、皆さんもまだ覚えていることと思います。ドナさんと高遠さんは、お互いにイラクのストリート・チルドレンを援助する仲間同士でした。

ドナさんは、解放されたあと、ファルージャでの人道活動中、米軍によって射撃された、と報告しました。
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/341

トワイマンはドナさんの誘拐と解放について彼のメールで報告しました。
http://emissary.jugem.cc/?eid=26

高遠さんらは「自己責任」論で激しいバッシングを受けましたが、ドナさんの米軍射撃の情報を流したために、トワイマンのところにも抗議が寄せられたようです。彼は「私がイラクで会った多くの米軍兵士たちはイラクの癒やしのために貢献していたし、イラク人の状況も以前よりよくなっている」という弁明のメールを出しています。
http://emissary.jugem.cc/?eid=27

イラク戦争に疑念を表するアメリカ人は非国民のように言われますから、これもしかたがないことでしょう。

ただし、米軍が、ちょっとでも怪しいと思う人々をほとんど無差別に銃撃していることは、最近のイタリア人ジャーナリスト解放事件のときにはっきりしました。それも、米軍兵士が反米勢力の自爆攻撃におびえきっているからです。

イラク戦争開始後2年間の

米軍の死者は1500人以上
イラク民間人の死者は約2万人~約4万人
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2005/03/2.html

だそうです。

悲劇としか言いようがありません。

この悲劇を解決するには、トワイマンの上記のメールで紹介されている、「ジョージ・ブッシュを非難するのをやめて、そのかわり彼のために祈ることはできないの?」という、サイキック・チルドレンの言葉を思い出す必要があります。何よりも、エリヤフさんが述べているように、バグダッドでまかれた平和の祈りの種を大きく育てていかなければなりません。

ドナさんは、その後、イラクに再入国し、現在はパレスチナで活動しています。自分の信ずる道を命をかけて歩んでいる強い女性です。
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/487

生神様(2005年3月)

2005年04月01日 | バックナンバー
 「稲むらの火」が、新年度から小学六年の道徳副読本に再び掲載されるという。この物語は、安政元年(一八五四年)の南海沖地震で、紀伊半島を津波が襲った時の実話がもとになっている。

 紀州有田郡広村(現在は広川町)で醤油製造を営む濱口儀兵衛は、高台に住んでいた。地震の直後に海を見ると、海がどんどん後退してゆき、海底が露出していることに気づいた。これは津波の前兆にちがいない、と彼はすぐにわかった。低地に住む村人を救うためにはどうしたらよいか。儀兵衛は収穫間近の自分の田の稲むらすべてに火をつけた。火を見た村人たちは、火事だと思って儀兵衛の家に駆けつけてきた。そこに津波が押しよせてきた。儀兵衛の自己犠牲的行為によって、大勢の村人の命が救われたのであった。

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、死者二万人以上を出した一八九六年の三陸大津波の際に、新聞で濱口儀兵衛についての記事を読み、それをもとに「生神様」という作品を書いた。それがのちに、地元の小学校の先生の手によって、国語の教材「稲むらの火」として書き直され、教科書に採用されたのであった。

 今回、この物語があらためて教科書に採り上げられたのは、地震・津波に対する国民の防災意識を高めるためであろう。地震学者は、近い将来、東海地震や南海沖地震が発生する可能性を指摘している。災害時には、一人ひとりが瞬時にいかなる判断を下し、いかなる行動を取るかが、被害を大きくもし小さくもする。その意味で時宜にかなった決定である。

 ただし、この物語には、このような防災面以上の意義があるだろう。この物語が今なお感動を呼ぶのは、濱口儀兵衛(ハーンの物語や教科書では五兵衛)が、村人を救うために大切な稲を惜しげもなく燃やしたからである。

 濱口儀兵衛にかぎらず、日本には、歴史上の著名人や有名人物ではなくても、私財や時には自分の命まで投げ出して、人々や郷土のために尽くした人が存在した。たとえば、三浦綾子の小説『塩狩峠』では、主人公は坂道を暴走しそうになる列車を止めるため、自分の体を文字通り車輪の下に投げ出すが、その実在のモデルは、長野政雄というクリスチャン青年である。

 私たち一般人には、濱口儀兵衛や長野政雄のような行為はなかなかなしがたいが、そういう「生神様」が存在したということを知るだけでも、心が洗われ、高められる。私たちは、このような先人を持ったことを誇りにしてよいし、後世に語り継いでいかなければならないと思う。その意味で、今後もこのような物語を積極的に教科書に採り上げてもらいたいものである。

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昨年の新潟中越地震、スマトラ沖大地震に続き、3月には福岡県西部で地震が起こり、インドネシアでは再度、巨大地震が起こりました。明らかに、地球的規模で地殻が変動する時期に入ってきております。

人類はいたずらに恐怖するのではなく、あらためて大地や海をはじめ、地球世界に愛と感謝の念を捧げていく必要があると思います。江本勝さんの水の結晶写真が示しているように、水をはじめ万物は、人類の想念波動の影響を受けるからです。愛と感謝の祈りは、地球に蓄積された破壊的エネルギーを中和し、解消し、自然災害を小さくすませてくれるに違いありません。「地球さん、ありがとうございます」