平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

イスラム教との対話(2)

2005年04月04日 | Weblog
イスラムの人々が述べるように、日本人が欧米のメディアによってイスラムに対してバイアスのかかった情報を与えられ、イスラムに対して否定的な先入観を植え付けられているということは、たしかにそういう一面があると思います。そういう偏見をなくしてイスラムの教えを正しく理解することは大切だと思います。しかし、私個人としては、イスラムの素晴らしさ、正しさが強調されればされるほど、いわゆる贔屓の引き倒しという感じがしました。

私も少しイスラムの勉強をしたことがありますが、イスラムでは聖戦(ジハード)が正当化されています。戦いを正当化する文言があると、たとえ「料理」のためとはいえ、そういう教えは悪用される可能性があります。現に、オサマ・ビン・ラディンでも自爆テロリストでも、イスラムによって自分たちの行為を正当化しているわけです。そういう正当化の根拠に使われる余地があるということ自体、教えに問題があるわけです。創始者のムハンマド自身、戦争の生涯を送った人です。

また、イスラムは他宗教に寛容ということですが、たしかに中世においてイスラム文化圏ではユダヤ教徒もキリスト教徒も自分の信仰を持つことが許され、中世ヨーロッパにおけるような宗教裁判、宗教迫害はありませんでした。そこで、イスラムの支配が続いていた1492年まで、スペインでユダヤ人が繁栄することができました。しかし、キリスト教徒によってスペインが再征服(レコンキスタ)されると、ユダヤ人は長年生活してきた土地から追放されました。キリスト教とイスラムとを比較すると、その当時はイスラムのほうがはるかに寛容であったことはたしかです。

しかしながら、この寛容は、あくまでもイスラムの優位性を前提とした上での寛容なのです。中世においては、ユダヤ教徒やキリスト教徒は、特別な税金(人頭税)を納めてはじめてその信仰が許されました。異教徒の扱い方にも差別がありました。イスラムでは聖書も聖典の一部として認めていますので、ユダヤ教徒やキリスト教徒は「啓典の民」として、聖書を信じない仏教徒やヒンズー教徒よりも上位に置かれていました。イスラムの寛容とは、そのようなイスラム的秩序の中での寛容なのです。

これは、他の宗教を対等な他者として真に尊重した上での寛容性とは違うと思います。

イスラムは、モーセもイエスも預言者として認めますが、あくまでもムハンマド(マホメット)が最高で最後の預言者です。イスラムは、ムハンマド以降も、神のみ心を伝える預言者が出現することを認めません。もし認めるのであれば、そういう新たな預言者の教えも素直に学び、イスラム自体が変化するはずです。しかし、イスラムにはそういうことは起こりませんでした。つまり、イスラムにおいて、宗教はムハンマドで最高点に到達し、それ以降は、ただその教えを学ぶだけ、ということになっているわけです。

これはキリスト教においても仏教においても同じです。イエスを超える神の子、お釈迦様を超える覚者はいないとされているのです(ただし仏教には、「仏に会ったら仏を殺せ」というような教えもありますが)。しかし、人類の精神的進歩の頂点が数千年前の過去において到達され、その後の人類は決してそこに到達できないという考え方自体がおかしいと私は思っています。