平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

百匹目の猿(1996年3月)

2005年04月11日 | バックナンバー
昌美先生が富士聖地で「百匹目の猿」についてお話しましたので、バックナンバーを紹介します。

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 宮崎県串間市の沖合いに、幸島(こうじま)という小さな島がある。この島には野生の日本猿が生息している。地元の小学校教師、三戸サツヱさんは、その猿が奇妙な行動をしているのを発見した。若いメス猿がサツマイモを水で洗って食べ始めたのである。この習慣は徐々に仲間の猿に広がり、あるとき、一匹の猿がその習慣に加わると、残りのすべての猿が同じ振る舞いをするようになった。それだけではない。幸島の猿たち全員が水洗いの行動をするようになると、大分県の高崎山の猿たちも同じ行動を始めたという。いつのころからか、水洗いを猿全体の習性とするのに決定的な一撃を与えた最後の猿のことを、「百匹目の猿」と呼ぶようになった。それは実際に百匹目ということではなく、象徴的な意味で言われているのである。

 幸島と高崎山は海を隔てて離れているので、幸島の猿が高崎山へ行ったわけではない。また、猿たちが電話やファックスで連絡したわけでもない。なんの伝達手段もないのに、二つの猿群の間にはなんらかの情報伝達が行なわれたと考えざるをえない。百匹目の猿現象は、高次の意識や行動様式を身につけた個体が一定の数に達すると、外的な伝達手段がなくても、それが種全体に広がり、種の進化をうながすことを示しているように思われる。

 猿にそういう現象が起こるということは、人間にも同じ事象が起こる可能性があるということを示唆してはいないだろうか。人類の進化もまた、高次の意識を持った個人の出現によって推進されてきた。仏陀やイエス、孔子や老子などの聖賢は、人類の文明や精神生活のあり方を大きく変えたと言えよう。彼らの教えによって、人類は、人生には物質的欲望の充足よりももっと高い目標があるということを知ったのである。

 もっとも、彼らの教えはたしかに人類の心の糧となってはきたが、人類はいまだ真の平和からほど遠い状態にある。彼らの教えに無理があったからなのか、いまだその時期にいたっていなかったからなのか。いずれにせよ人類は、彼らの説いた愛と平和の教えに反して、宗教紛争や民族紛争の渦からいまだ逃れられず、二〇世紀末に滅亡の危機に直面している。この危機を乗りこえるためには、さらなる精神的飛躍が必要とされている。

 その進化を担っているのは一人ひとりの人間である。エゴイズムや闘争を生の自明の原理とするのではなく、愛、調和、平和を優先して生きる人間たちがある一定の数に達するとき、その意識は全人類に波及して、世界は一気に平和の方向へと変化するのではないだろうか。一人の変化が全体に影響を及ぼし、人類を変化させるのだ。言い換えれば、あなた自身が百匹目の猿(?)であるのかもしれない。