平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

イスラム教との対話(4)

2005年04月06日 | Weblog
聖典にはもちろん真理が書かれています。真理は永遠ですが、大昔に書かれた聖典の中には時代的な制約も多く含まれています。

3つの一神教の信者も、現代において聖典に書かれている通りの生き方を実行しようとすると、不都合が生じることを感じています。ではどうしたらよいのでしょう? 聖典そのものは変えることができませんから、あとできるのは、聖典の解釈を変えることです。ユダヤ教では、聖書にプラスして、律法学者の解釈を集めたタルムードが第二の聖典とされています。ユダヤ教ではタルムードをもとにした聖書解釈のみが正しい解釈とされるのです。キリスト教でもイスラムでも、聖典を正しく解釈するための専門の学者や僧侶がいます。

しかしながら、解釈というのは、解釈者の立場によってどこまでも拡張できるものです。イスラム過激派のテロリストでも、コーランの解釈に基づいて人殺しを正当化しているわけです。3月31日の対話で示されたイスラムの解釈も、それはその人たちの解釈であって、別の解釈をするイスラム教徒もいるでしょう。サウジアラビアの王族は、コーランを都合よく解釈して一夫多妻を正当化しているわけです。

イスラムの方々の、イスラムへのネガティブな偏見を改めたいという熱意はわかりましたが、むしろ問題はイスラムの内部にあるのではないでしょうか。イスラムが本当に平和な宗教になり、他の宗教を対等な他者として承認し、イスラム諸国が貧富の差や腐敗や社会的不公正を解決すれば、そういう偏見は自然に消えていくでしょう。

同じことはキリスト教、ユダヤ教、その他の宗教についても言えると思います。

ところが往々にして、現在の社会問題は、教えを忠実に守らないところから発生しているのであり、教えを厳密に守りさえすれば、あらゆる問題は解決されるはずだ、と観念されることがあります。宗教が数千年前に教祖によって完璧な形で啓示されたと考えられているので、その理想形に戻りさえすればいい、というわけです。そこに生まれるのが聖典を絶対化するいわゆる宗教的原理主義です。

古い教典は現在とはまったく違った時代、社会、文化の中で説かれたものですから、それを現代に当てはめようとすると、とんでもない無理が起こります。宗教的原理主義は、今日の問題を解決するのではなく、いっそう悪化させかねません。

しかも、聖典に忠実な原理主義といったって、何らかの解釈に基づいているわけで、その解釈が唯一正しいという保証はどこにもありません。自分の信念を教典にかこつけて正当化している部分がないとは言えません。

各宗教が教典の絶対化という呪縛から離れなければ、宗教間の紛争は終わらないのではないでしょうか。

『ミリからの贈り物』はこう述べています。

「昔のしきたりや、教えを全て信じてはいけないよ。
信じて良いものと、そうでないものを
自分で判断したらいいよ。
判断する時は、
自由を感じないものは
信じない方が良いよ。
何もかも信じて、
しきたりどおりにやったら、
泥船に乗っていることになるよ。
自由に生きることを学んでいる人は
宝船だよ。」(33ページ)

10歳にもならない少女のほうが、ユダヤ教律法学者、キリスト教神学者、イスラム教のイマームよりも、はるかにまともなことを述べています。こんな当たり前のことがわからないところに、宗教に翻弄される人類の悲劇があるのでしょう。