平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

過去を水に流す(2001年9月)

2005年04月26日 | バックナンバー
昨日、ドイツ人・ローマ法王の過去のことを書いたので、それに関連したバックナンバーです――

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 この夏、ドイツのボンとベルリンを再訪する機会があった。私が留学していたころは、ボンは旧西ドイツの首都であったが、現在では首都機能がほとんどベルリンに移される中、のどかな地方都市に戻りつつあるとの印象を受けた。

 ライン川のほとりを散策していると、以前は見かけなかった事物に出くわした。地面に、イスラエルの国旗にも使われているダビデの星の形をした岩が置かれている。近くの碑文を読んでみると、その場所には以前シナゴーグ(ユダヤ教会堂)があったのだが、一九三八年の暴動で破壊されたそうである。ナチスの蛮行を忘れないために、五〇年後の一九八八年にこの記念碑が造られたという。私がボンを離れたのは一九八〇年であるから、見ていないはずである。

 統一ドイツの首都となったベルリンはあちらこちらに建築現場が見られた。その中でもとくに大規模なのが、ベルリンの中心ブランデンブルク門のすぐそばにあるホロコースト記念碑の敷地である。これはまたライヒスターク(国会)の近くという位置でもある。首都のど真ん中に、自分たちの過去の犯罪の記念碑を作ろうというわけである。

 ごくわずかの観察しかしていないので正確なことは言えないが、最近のドイツではこの種の記念碑や記念館が増えているように思える。

 過去を反省することは大切である。しかし、過ぎ去った悲惨な出来事の記憶をいつまでも保存し続けることが、はたして人間性の本質にかなったことなのだろうか。現在のドイツ人の大部分は戦後生まれで、戦争ともホロコーストとも無関係である。そのような人々に、先祖が行なったおぞましい犯罪の証拠写真を突きつけ、いつまでも反省を迫るということは、その人々への威圧にもなりかねない。一度犯した罪はいつになったら許されるのであろうか。父が犯した罪の責任は子孫が未来永劫に担わなければならないのであろうか。現在のドイツと過去のナチスを結びつけるのはもういい加減にしてほしい、というのが一般のドイツ人の正直な気持ちであろう。

 その中でもとくにいきり立った人々が、「ホロコーストはなかった」と主張し、ユダヤ関係の施設や墓を冒涜する行動に出る。そうすると、さらにまた、ドイツ人は過去を反省していない、という非難が加えられる。ユダヤ人が自分たちの受けた被害を強調しているかぎり、ドイツ人も許されたと感じることができない。そこにいらだちが生まれ、かえってユダヤ人への憎悪が蒸し返される。こうして、反ユダヤ主義という過去の亡霊が、ネオナチとなって実際に再び呼び出される。一種の悪循環である。

 過去をどこかで断ち切らなければ、人間は過去に縛られたままである。それは被害者であるユダヤ人にとっても不幸なことである。「過去を水に流す」という日本の言葉は、実は深い意味があるのではないか。