平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

イスラム教との対話(3)

2005年04月05日 | Weblog
ユダヤ教、キリスト教、イスラムは一神教です。世間ではよく、一神教であるがために他の信仰を受け入れることができず、3つの宗教の間で戦争が起こるのだ、と言われることがあります。

しかしながら、名前こそ違え、3つの宗教の神は同じ神です。一神教ということは、神は一つしか存在しない、という信念体系です。3つの一神教は究極的には同じ神を信じているのに、そこに厳しい対立や戦争が起こるのは奇妙です。

私はむしろ、これらの3宗教が、それぞれが変更不可能な「聖典」を持っていて、その聖典に縛られていることが最大の問題だと思います。

たとえばイスラムの一夫多妻制は、イスラムが成立した当時は意味があったのかもしれませんが、明らかに今の時代にはあいません。武力や戦争の正当化についても同じことが言えます。にもかかわらず、それがコーランに神の言葉として記されている以上、それらを削除することはできません。神の言葉を変更・削除することは、神への冒涜になるからです。

ユダヤ教の聖書(旧約聖書)にも同じことが言えます。たとえば様々な食事規定や生活規定がそうです。また、キリスト教の新約聖書には、イエス・キリストを神のひとり子として絶対化し、ユダヤ人を敵視する記述があります。キリスト教はユダヤ教徒による迫害の中で成立したので、どうしても反ユダヤ主義的な要素が新約聖書には残っているのです。

聖書やコーランには、素晴らしい教えもありますが、時代に合わない要素や、差別や争いを助長する文言も含まれています。常識的に考えるならば、時代にそぐわないし、人類愛に反する教えがあれば、削除したり変更すればいいわけです。しかし、それができないのが、聖典に縛られた宗教の問題点です。大昔の聖典が人間の自由を縛り、社会の進歩を阻害し、紛争の種を蒔いているという側面があります。

仏教の場合は、こういう問題は少ないようです。何しろ、お釈迦様の名を使って語られている仏典が膨大で、その内容もあまりにも難解ですから、仏典全部を読むことすら困難です。しかも、その大部分が後世になって創作されたものであることが学問的に立証されています。仏典はあくまでも悟りのための材料にすぎません。仏典それ自体をいくら尊重しても、その内容を理解し、教えを正しく実践し、悟りを得なければ何にもなりません。

しかも、各経典の内容が多種多様です。それは新約聖書の4福音書の違いどころではありません。仏教の歴史上、異なった仏典を根拠にして様々の異なった宗派が生まれました。

それらの中で、自己の聖典を絶対化するという点で、3つの一神教に近い感性が感じられるのが、法華経系の宗派です。それは、法華経が「この教えが仏説の中で最高の教えである。ほかの教えは、法華経にいたる方便だ」と強調しているからです。法華経を信奉する日蓮系の一部の宗派が、なんとなくキリスト教やイスラムの原理主義に似た戦闘性を感じさせるのも、そんなところに理由があるのかもしれません。