山の頂から

やさしい風

二つの石

2007-11-29 00:44:56 | Weblog
 岡本正吾は美大の学生だった。
将来は絵で身を立てたいとの夢があったと書いている。
美大では油絵を専攻し才能は認められていた。
しかし、先の分からぬ世界で具体的に掴めることはなかった。

 神社の八朔祭は若い男女の出会いの場であった。
その日は夜通し連れ立っていることが認められていたらしい。
正吾とミツはその八朔祭で密かに逢えた。
ただただ、神社の境内を歩き取り留めもない会話を交わすだけだった。
ミツは聞き上手で正吾の絵に対する情熱を受け止めてくれたようだ。
しかし、ミツは将来家業を継ぐ身であった。
その事を考えると正吾は暗い気持ちになったと書いている。

 明恵は先にパリに留学していた。
正吾も父親から2年間の留学を許可されていた。
彼は是非ともパリへ行くつもりでいた。

二つの石

2007-11-28 00:35:45 | Weblog
 封筒は和紙で出来ていた。
表の宛名は黒々とした墨で書かれてあった。

 白田麻紀殿と書かれた文字を見たときに内容が判った様な錯覚を感じた麻紀。
穏やかな気持ちで読み進めた。
先ず突然手紙などを書いたことを詫びていた。
そうしてこの不思議な縁をどうしても表してみたいと書かれている。
岡本明恵というバイオリストは自分の従妹である。
その明恵とミツは女学校時代の親友であったと書かれていた。
麻紀はその事は全く知らなかった。
明恵は音楽大学を卒業後ヨーロッパに渡りウィーンで活躍したバイオリニストであると書かれている。が、40歳代で亡くなった。
彼女が海を渡るまで毎秋にバイオリンのサロン・コンサートを開いていた。
友人、知人を集め欠かさず続けていたと云う。
必ず毎回「シャコンヌ」を弾いたとも・・・
自分はそこでミツと知り合い互いに惹かれるようになったと綴られている。

 ああ~~、だから祖母はバッハが好きだったのかと納得した。
正吾の実家は大きな織物工場を営んでいたらしい。
多くの従業員を抱えるほどの規模だった。
今の時代と違って男女の交際は自由ではなかった。
手紙のやり取りが主で二人で逢うなどという機会はなかったのだ。
麻紀はドキドキしながら、しかし、冷静に読んでいった。

二つの石

2007-11-27 00:29:59 | Weblog
 麻紀は軽く頭を下げた。
その女性も美しい微笑みを見せながら首を傾げた。
片手にお弁当の包みらしきものを持っているようだ。
麻紀はひと廻り作品を鑑賞し暇を告げた。
外に出て、ごく自然にミツの名が口にされたことに違和感を感じなかった。
何かそうなることが判っているような感覚を持っていたのだ。
運命の糸と云うのがあれば、きっとこういうことかも知れないと思った。
しかし、その繋がりがどうあったのか見当もつかなかった。

 そして一カ月が過ぎた。
日常生活のリズムの中で岡本老人のことも意識せずに過ごしていた。
そうした或る日、一通の封書を受取った。
少し厚めのそれの差出人は岡本正吾と書かれてあった。

二つの石

2007-11-26 06:14:02 | Weblog
 麻紀は老人と一つの作品の前に並んで立った。
この前の作風と違うことに驚いたと告げると彼は微笑みながら
若い頃、パリに留学しマチスの絵に感動したと言う。
それからは抽象画も描くようになったと静かに答えた。
麻紀はその感覚が瑞々しいと感じたことを告げた。
すると描くことが生きる張りとなっていると彼。
そしてあなたの苗字が懐かしい人を思い出させたと突然に言った。
麻紀は彼に目をやりながら自分の住む街では他にないと答えた。
彼は麻紀に目を向けながら「ミツ」と云う名を口にした。
麻紀は自分の祖母であると応え、同時に自然な感情でいることに驚いた。
彼が祖母の名を口にすることが、以前から解っているような不思議さ。
けして運命論者ではないが、その説明のつかない縁の糸。
手繰り寄せられた不思議な糸の存在があるものだと思った。
同時に彼もそう感じているように感じるのだった。

 ドアーが静かに開いてすらりとした若い女性が入って来た。
手足の長い目の大きな若い女だった。
「お爺さま」と声をかけて微笑んだ。
彼も優しい眼差しを向けながら軽く手を挙げる。

二つの石

2007-11-24 01:43:14 | Weblog
 会場は狭かった。
麻紀は岡本正吾の姿を目で追った。
彼は2~3人の友人らしき男性と話をしていた。
麻紀には背を向けた恰好だった。
そっと作品を見て回ることにした。
会場の隅々に小ぶりなランの鉢が置かれ華やかな感じである。
作品は前回と全く雰囲気が違って少しデフォルメされた静物画がほとんどだった。
麻紀はその意外さに驚き、また彼の作品の幅に感心した。
明るい色調は元来の彼かも知れないと思った。
背後に人の気配を感じ、ハッと振り返ると老人が立っていた。
優しい眼差しで麻紀が訪ねてきた呉れたことに礼を言った。
麻紀は少し気恥ずかしい気もしたが気持ちが和んだ。
先ほどの人たちは帰ったようだった。
そして会場には他に誰もいなくなった。

二つの石

2007-11-22 01:36:58 | Weblog
 徐々に寒さを感じるようになった或る日、1通のハガキを受けとった。
麻紀宛に届いたそれを見てハッとした。
なんと鳥居の絵が描かれたハガキは、あの画廊で観た絵であった。
絵の個展への案内状だった。
差し出し人の名は岡本正吾。ああ、あの人・・・
そう、確か住所と名前を記帳してきたと思い出した。
期間は来週から2週間とある。しかも会場は隣街。
麻紀は行ってみてもいいなと思った。
あの絵の作者の印象が悪くなかったし・・・
不思議と是非行ってみようという気になった。

 隣街はその昔は織物で栄えた場所だった。
何軒もの機家があり着道楽の街と言われた。
しかし、現在はその機家も殆どが衰退したらしい。
活気のない街だが落ち着いた雰囲気が以外にも若い女性達には魅力だった。
麻紀もそこに在る美術館には何度も訪れている。
お気に入りの喫茶店もあった。

 会場はすぐに分かった。
少しドキドキしながらドアーを開けた。

二つの石

2007-11-21 00:48:08 | Weblog
 麻紀は祖母を身近に感じた。
と云うのもミツが人を愛し縁が結ばれたいと願ったのは
恐らく現在の自分と同じくらいの年齢に違いない。
そう思うとミツをより身近な女性として意識できるのだ。
祖母は活発な女性ではなかったが、かと言って引っ込み思案な風でもなかった。
思慮深く、が、決して頑なで冗談も通じない女でもなかった。
しかし、麻紀はあくまでも孫としての視線であり彼女の全てを
理解していたわけではなかった。
今、もしミツに逢えたらどんな話をするのだろうか。
麻紀は想像がつかなかった。
ミツを心に思うことで何故か柔らかい気持ちになれた。

 自分の部屋に戻って気に入りのバッハのバイオリン無伴奏のCDをかけた。
ミツがいつも聴いていた曲だ。特にシャコンヌが好きだった。
麻紀は子どもの頃からそれを聴いて育ち耳に慣れていた。
そしてその曲を聴くと気持ちが安らいだ。
ミツの愛した曲のイメージと愛した人のそれが重なって感じられる夜だった。

二つの石

2007-11-19 20:17:51 | Weblog
 居間に降りて麻紀は母の正子に声をかけた。
正子は煮物をしていた。
キッチン中良い匂いが立ちこめていた。
正子は料理が好きな女だった。
手早くあっという間に作るのが得意で自慢でもあった。
夫の義彦の酒の肴は幾種類も揃えた。
麻紀もキッチンで立ち働く母の姿は気に入っていたのだ。
何でも話はする方だったが今日の事は何故か躊躇った。
別に隠し立てをする気ではなかったが自分の胸に仕舞い込んだ。
それとなく仏間の祖母の遺影に目を遣ってそれが好いのだと思った。
でも、友人と母校へは行って来たと話した。
正子は元来あっさりとした性格で、それ以上は聞きもしなかった。
何となく麻紀はホッとした。
それが又、不思議な感情だった。
麻紀はミツに会いたかった。心底から会いたいと思った。

二つの石

2007-11-18 23:09:11 | Weblog
 家の明かりを見てホッとした。
母の正子は会社の役員でもあるのだが、今日は家に帰っていた。
麻紀は帰宅の挨拶もそこそこに自分の部屋に急いだ。
机の引き出しを開け友禅の小袋に入れてある祖母の石を取り出す。
「ああ~~、やっぱり同じ。」麻紀は確信していたものが現実であったことに
満足に似たような気持になった。
両の石とも「ぎょく」だった。
それはよく似た石で、彫られている字体も一緒だ。
片仮名ではあるが同じ人物が彫ったと思われる。
麻紀は泣きたいような興奮を味わった。
これって何?いったいどういう巡り合わせ?
次第に鳥肌が立つような感覚を覚えた麻紀。
 すると階下から母の呼ぶ声がした。
「は~い」と返事はしたものの身体が動かない。
祖母ミツの穏やかに微笑む顔が思い浮かんだ。

二つの石

2007-11-18 06:57:06 | Weblog
 麻紀は石を見つめながら家のものと同じであることを確信していた。
それは不思議な感情なのだ。
勘とでもいうのか拾い上げた時からそう感じた。
説明のつかない漠とした思いがずっと心の隅にあった。
何なのだろ・・・この思いはと考えるうちに家のある駅に着いた。
改札口を抜けて家の方向へ帰る道に出るところで「あっ」と思った。
あの絵の作者、画廊の老人の名は確か「正吾」だった。
でもそれが何故?
麻紀は急に胸がドキドキとしてくるのだった。
本当にそれが何なの?と自問自答を繰り返しながら・・・