山の頂から

やさしい風

やっぱり、言っちゃった!

2008-09-30 15:52:37 | Weblog
  朝からスッキリしない天気に、
うち沈みがちになるのを奮い立たせ開店準備をした。
仔犬を連れたお客様が今日の一番客。
今やペットは家族の一員。確かに可愛いし癒される。

 神社の石段を30人ほどの小学生が下りてきた。
多勢の引率者がいた。どうやら、障害児童らしい。他県の学校だ。
皆、ドカドカと縁台に座り込んだ。
一休みするのかと思ったので黙って見ていた。
が、先生らしき人が児童達に「シートを出しなさい」と指示をした。
っん?と思う間もなく「お弁当を食べましょう~」

 ちょ、ちょっと待ってよ!! 幾らなんでも、少しおかしくない?
私は、この手の行動が許せないのだ。
指導者たるべき、いい年齢をした人物が揃っていながら、
まったくの礼儀に欠けている。 一言が言いたい!!

 「いらっしゃいませ~」 顔はにこやかに進み出た。
「ご利用は一向に構いません。が、私有地です。
何なりのご挨拶が欲しいのですが・・・・」
引率者たちはポカンとした顔を見せた。
しかし、中の一人が進み出て「お借りします」と頭を下げた。
私は「どうぞ、お使いください」とニッコリ。
唯それだけだった。 気分はスッキリした。

 「予約もせずに済みませんでした」と言われたが、
それにしても「こんにちは~」の挨拶を、
子供たちに指導すべきだろうと腹で思った。
が、口には出さず「マナーに欠けたことが嫌いなもんで」と答えた。
少~~し、社会性に欠けた集団だった。

犬も歩けば…

2008-09-28 00:44:42 | Weblog
 
 先日、或る市のボランティァが独居老人を誘う催しで、
当店にみえた。世間で云われる様に、その多さに驚いた。
家庭のやむなき事情で一人暮らしを続ける方、子供のいない方と、
立場は様々なようだ。皆さん小奇麗な装いで明るく和やかに歓談をされていた。
が、日々、胸のどこかで不安を持っておいでなのではと考える。

 実家の近所には或る宗教団体の信者の多いことに驚いた。
二軒先、四五軒先とうっかり悪口も言えない距離に住まわっている。
忌中などあろうものなら、すり手で持って近寄ってくると或る人が言っていた。
悲しみに打ち沈んでいようものなら、巧みな優しい言葉をかけてくるというのだ。

 ふた七日が済んだ頃、我が家にも早速、署名運動とやらでやってきた。
どうやら選挙がらみとみたが、オチオチ油断もできない。
母は気丈な人間だが、独りでいることの不安を感じた。
矢張り、暫くはきょうだいで≪宿直当番≫を続けようと思う。
まったく、最近は≪犬も歩けば・・・≫並みに、その信者がウウジャウジャしてる。

 日本の正当な保守派がしっかりと政治の舵取りをしないと、
近隣の【微笑外交】に丸め込まれ、絡み取られてしまいかねない。
その危機に我々はハタと気付かないとエライ事になると、
中韓を知り尽くした方が警告を発している。
名古屋の中村区などは【犬も歩けば・・・】の中国人で溢れているそうだ。

 秋の空がいやに様変わりをしているように、
日本の国も又、左派のとんでもない連中にかき回されたら・・・恐ろしい~~

ああ、戦友~

2008-09-24 15:46:39 | Weblog
 
 父の戦友は多方、鬼籍に入る。
が、今やたった一人、遠く静岡県でミカンを栽培している方と、
電話や手紙でやり取りをしていた。
戦争という過酷な中で、寝食、生死の堺を伴にした仲間は、
兄弟以上の感情があったようだ。
その方は父より一歳年上だが、互いの安否を気遣い、
電話で元気な声を聞き合って安堵仕合っていた。

 昨夕、実家に出向くと父の霊前に一通の手紙が広げられていた。
しっかりとした筆跡。「俺より若い君が・・・無念だ」との短い文面。
その短さ故に行間から、驚きと落胆が読み取れた。
妹と読みつつハラハラと涙が零れた。

 三ケ日ミカンで有名な産地から、出来あきにはミカンが送られてきた。
味の濃い美味しいミカンを、我々も相伴に預かったのだ。

 父が亡くなって直ぐに、母はどうしても知らせることが出来ないでいた。
その方は、数年前の朝、突然に奥さまを亡くされた。
さらに遡ること数年前には、たった一人の御子息を事故で亡くされていた。
ふた七日が過ぎて、母も気持ちを落ち着けて電話で話せると、
漸く決心がつき、昨日、知らせたと言った。
大変驚かれ、そして沈黙の後にお悔やみの言葉を頂戴したという。

 肺癌と脳腫瘍で亡くなったジョージ・ハリソンは、
≪生きている時間の大部分は死に対するリハーサル≫と自覚していたそうだ。

   私たち全てにとって、この場所を立ち去らなければならない時が来る。
   その時が来たら、あなたと共に私をこの場所に存在させてきた
   聖母マリア様さえ、何もなさるべきことが無い。
   死を迎えるための技法、それと同等とか、
   それ以上のものなど無いということは、
   私がいろいろ試行錯誤してきた人生の中に、
   なにも無かったということと同じなのだよ。
            ‹アート・オブ・ダイング›より

 命を育てている静岡の方は、恐らく命の儚さも実感しておられることだろう。
そして、ご自分の寿命をしっかりと全うして、
また、極楽で父との再会を果たして欲しい。
父は、その日を≪異国の丘≫で待っているかも知れない。

【死ぬ作法】と【送る作法】

2008-09-22 12:57:45 | Weblog
  
 朝食のとき母が、昨夜、父の夢を見たと涙ぐんだ。
「ハッ」と目覚めたが、その経過が分からないと寂しく言う。

 最近発売された雑誌に「死ぬ作法」との見出しを見て買い求めた。
その中で、「尊厳ある死など幻想である」と書かれた個所がある。
昨夜まで普通に暮らし、家族団欒を楽しんでいたが、
翌朝、冷たくなっている。まさに眠るような「死」
誰もが思い描く理想的な「老衰による大往生」の自然死。
しかし、外科医、S・B・ヌーランドは絵空事だと言い放つ。
 比較的平穏に旅立って行く人でさえ、数日あるいは数週間は、
精神的、肉体的にいやというほど苦痛を味わうという。
つまり、【概ね、死ぬことは苦しい営み】だというのだ。

 そう云われれば、父も2~3日前から頭痛やだるさを訴えた。
今まで一度も口にはしなかった。また、握る手を何度も握り返すのだった。
もっと何かを伝えたかったのかも知れないと母が悔やむ。
が、息を引き取る間際まで母や私達の名を呼び、存在に頷いてくれた父。
我々家族は、父に残された時間をかけて、それなりに別れを交せた。
或る意味、理想的と云えるのかも知れないと思い始めた。

 父親が、朝、布団の中で息を引き取っていた知人がいる。
80歳後半のその方の死は、まさに‹大往生›と誰もが言った。
前夜、全く何の変わった様子もなく会話を交わしての翌朝の永久の別れ。
余りに呆気なく、心の準備も無いままに去られた家族の驚きと悲しみ。

 父の死を経験して初めて、その心の痛みが理解できた。
悲しいかな、人間は経験を通してのみ実感をものにするのだ。

 今朝、母が夢に見た父はもしかしたら寂しい~と訴えたのか?
いや、穏やかにに微笑んでいたと思いたい。


      喪の家の屋根に激しい秋の雨      初桜


納棺師

2008-09-19 22:31:43 | Weblog
 
 映画「おくりびと」が話題となっている。

 父の葬儀で初めて納棺師なる職業を知った。
身内一同を前にして、その控室で納棺の儀式は行われた。

 二晩を家で過ごした父の亡骸は、
思いがけない多くの方の門送りを受け家を後にした。
昔は家で死出の旅路を整え、棺に納められて家を出たものだ。
しかし、現代は斎場でその儀を行うと説明を受けた。
一体何をどう行うのか想像もつかないでいた。

 納棺師であると挨拶を受けたのは三十代後半の女性であった。
穏やかな微笑みを浮かべ厳かに粛々と儀は始まった。
弟が泣きながらアイロンを当てたスーツ。
既に真新しい下着をつけた父の亡骸に、先ずはワイシャツが着せられた。
一同が固唾をのむ中、ズボン、スーツと少しの滞りもない。
ネクタイそして胸にチーフを収めた時は、思わず感嘆のため息が出た。

 ドライシャンプーを施し髪は整えられた。
母は愛おしそうに父愛用のクシで撫で付ける。
そして各人が小さな湿ったコットンを受取り、
亡骸の顔や手足を拭く。何度も声をかけながら顔を拭いた。

 そうして納棺師の女性はおもむろに化粧箱を取り出し、
顔をローションで拭き、乳液をつけクリームが塗られた。
ファンデーションをつけ、粉をはたく。
薄らと頬紅を指し、唇には艶の出るリップを。

 まるで眠っているかのような父の顔。
生前の父なら「何をするんだ!バッカモノ~」と言ったに違いない。
何も言わず、なされるがままの父に涙が溢れた。

 本当に凄い技術である。 しかし、私にはとても出来そうにないと思った。
誇りと亡骸に対する崇高な心構えがなければ務まらないと思う。
旅立つ父は、チョッピリはにかみながら鏡を覗き、
「俺も満更ではないなぁ」なんて言ったかも・・・

エピローグ

2008-09-14 21:19:03 | Weblog
 残暑が厳しいとはいえ、やはり里は秋の風。
空を行く雲は、目に痛いほど眩しい。
ふと空を見上げては小さな溜息を洩らす自分に気付く。

 初七日が過ぎて斎場への支払いを終える。
後の始末をきっちりとし、これほどまでに子の行く末を考えた父に、
改めて敬服をしている。
≪美田≫こそ残さなかったが、終の棲家に関しても甘えなかった父。
その、きっぱりとした姿勢に泪を零す。

 亡くなる数日前、弟の手を取って涙した父は、
恐らく、自分には許された時間のないことを悟っていたに違いない。
口にこそ出さなかったが「後を頼む!」と言いたかったのだと思う。

 今夜は十五夜。
けんちん汁を作って仮の祭壇にあげた。
小学校の6年生の時、宿題で出された十五夜の絵。
絵の上手い父が描いてくれたことを思い出した。
誰が見ても児童が描いたようには見えなかったっけ。
すっかり忘れていたことが鮮明によみがえった。

 暫くは、見るもの聞くもの全てに父を重ねる癖が付きそう・・・
今年は、どんな紅葉を目にすることが出来るだろうか。

両親の播いた種

2008-09-14 06:40:08 | Weblog
  父の葬儀に際して心寄せて下さった方々の温かさに、
感激をしている。こんなにも他人は優しく温かかったのかと、
今更ながら実感した。そして、こんな時に思わずその人となりを知った。

 両親は共に何一つ財をなしたわけではないが、義理と人情を欠かさず、
他人の痛みを己の痛みとして感じ、それに際してかけた心を、
返して下さったひとの多さに驚いた。
数十年も行き来も無かった方が「お悔やみ欄」を見て駆けつけてくれた。
そんな方が多くいて、本当に感激している。

 きょうだいで、しみじみと両親の生きざまを思い、
残された者は同じように他人の痛みを感じられるような人間として、
この先を生きねばならないと話し合った。

両親の播いた種は、また、ここで芽を出そうとしている。

不思議なことが…

2008-09-13 21:12:33 | Weblog
  朝の光に救われる思いの毎日。
が、目を離すと父の遺影の前で涙する母がいる。
しばらくの間は母を独りにはしておけないと感じている。

 あの日、9月8日の未明に闘病先の病院を後にした父の亡骸。
自宅には全く同時に到着する予定だったが我々が先に着いた。
弟が付き添った亡骸は、いったいどうしたのかと訝っていた。

 バタバタと仮祭壇が設えられ、父の住み慣れた居間に亡骸は安置された。
「父さんの永年勤務した警察署を見せてきたよ」と、
嘆き悲しむ母の背を擦りながら弟は言った。
今年、栃木警察署は建て替えられ他に移転していた。
しかし、旧社は未だ取り壊されることなく存在していたのだ。
父の棺を揺すりながら「父さん、これが最期だ」と言ったという。

 妹達4人と亡骸を囲んでいた時のこと、
仮祭壇で「バチッ」と小さな火花が散った。
突然のことに4人は目を丸くして驚いたが、あれは一体何だったのだろう?
そして妹が小さく叫んだ。何の痛みも無く出血もせず親知らず歯が抜けたと言う。
更に、葬儀の日にももう一つのそれが何の前触れもなく抜け落ちた。

 子煩悩だった父。他人に迷惑をかけることを最も嫌った父。
死ぬ時までも子を思ってくれたのかと再び涙が溢れた。
11日の葬儀を終えて、めっきり小さくなった母。
余り泣き暮れていると父の仏道の修行の妨げになるからね、母さん。
でも、やっぱり寂しさは増すばかりよねぇ・・・

父に敬礼

2008-09-12 23:04:57 | Weblog
 9月7日、父は85歳の生涯を静かに閉じた。
癌の転移による結末である。
入院に際して当初から、父に残された時間は少ないことを告げられた。
家族にとっては毎日が覚悟の日々であった。
そんな中で80歳の母による看病は、誰も真似の出来ない、
慈愛にあふれたものだった。

 警察官の妻として36年間、陰になり日向になりながら勤め、
六十余年の日々を過ごしてきた母。
日に日に衰えてゆく父の身体を擦りながら懸命に励ます姿は、
まさに観音様を感じさせた。

 父の葬儀の日程が決まっても、私には受け入れられないでいた。
しかし、新聞の「お悔やみ欄」に父の名を見たとき、
現実であるのことを実感し、朝の散歩道で泣いた。
母の悲しみは、その身が消えててしまうかと思うようだった。

 喪主である弟は、懸命に悲しみを堪え気丈にその勤めをこなしていたが、
納棺に着せるスーツの皴をアイロンで取りながら、
声を出して泣く姿を見た時、男の悲しみの深さを知った。

 幼い頃、勤めに出る父に向って敬礼をした弟。
長じて父と同じ道を歩み、責任ある地位に昇りつめた弟が、
葬儀の最後、会葬の皆さんへの挨拶を終え、
敬慕と尊敬、感謝の全てをこめて、
クルリと遺影に向かい直立不動で敬礼をした。

 「父さん、ありがとうございました!!」
そして、さようなら。

父さん・・・

2008-09-06 23:39:58 | Weblog
  蒸し暑く霧が一面に立ち込めた朝だった。
モモを促して散歩を終わし5時半前には家を出た。
この時間でも結構散歩をしている人が多い。
6時少し前に母と病室に到着。今日の父は調子が悪そうだった。
涙ぐみながら父の身の回りの世話をする母が気になった。
ひとまず帰宅し、また出直そうと考えた。

 今日の父は状態がよくない。皆、心配をして集まった。
日中は頗る好天。連絡を取ると店は忙しそうだった。皮肉なものだ。
いったん帰宅をすると洗いものは山のよう。
有り難いが辛い現実。
一生懸命、片づけをし病室へ戻ると、友人の御主人が亡くなったとのメールが入る。
まだ50歳代だ。つい先日、玉子焼きを食べに来てくれたのに・・・
癌の再発だった。 言いようのない虚脱感。
まるで大きな嵐が吹き荒れるような感じのこの季節。

 「父さん、父さん、父さん~~」と車を走らせながら心で叫ぶ。
若くて元気な頃の父ばかりが思い浮かぶ毎日。