以下引用
フランスの哲学者アランが、「読む」ことをめぐって、次のような興味深い言葉を残している。
「明らかに、私たちの思想は読書によって形づくられる。
そして読書とは、不滅の存在たちの意見を聞くことなのである」
『感情、情念、表徴』古賀昭一訳
……
この一節で「不滅の存在たち」とアランが呼ぶのは、死者である。
アランにおける死者とは、単に生者の記憶にある存在でないことは、先の一節が明らかに語っている。
たとえ生者が忘れるようなことがあっても死者は存在する。
書物を手に取るまで、私たちはその作者を知らないが死者となった作者は「生きている」。
死者は生者とは異なるかたちだが存在している。
この実感は、アランの哲学の根柢を形成している。
アランにとって「読む」とは、それを書いた者、すなわち死者と会い、その声を聴くことだった。
「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」若松英輔著 より
フランスの哲学者アランが、「読む」ことをめぐって、次のような興味深い言葉を残している。
「明らかに、私たちの思想は読書によって形づくられる。
そして読書とは、不滅の存在たちの意見を聞くことなのである」
『感情、情念、表徴』古賀昭一訳
……
この一節で「不滅の存在たち」とアランが呼ぶのは、死者である。
アランにおける死者とは、単に生者の記憶にある存在でないことは、先の一節が明らかに語っている。
たとえ生者が忘れるようなことがあっても死者は存在する。
書物を手に取るまで、私たちはその作者を知らないが死者となった作者は「生きている」。
死者は生者とは異なるかたちだが存在している。
この実感は、アランの哲学の根柢を形成している。
アランにとって「読む」とは、それを書いた者、すなわち死者と会い、その声を聴くことだった。
「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」若松英輔著 より
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