「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

シュティルナー 唯一者とは

2013-09-06 07:20:24 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
「自由の哲学」を精読しようとしているが、すぐに気になるところ、ひっかかる表現に出会ってぼんやりとしてしまう

今は1章から3章の間で行ったり来たりしていて、最近少し4章にも放浪し始めた

ぼんやりした時間を積極的に過ごすため、シュタイナー本人が「自由の哲学」では同じ主張を違う形で表現したと述べているというシュティルナーの考えについて調べてみている

娘が、研究中のマックス・エルンストというシュールレアリズム画家の評伝の中に、シュティルナーのことが出ていると教えてくれたのでメモしておく

マックス・エルンストは成長するにしたがって、オカルトや魔術的秘教に強く惹かれるようになる。15歳のとき、彼は父親と教会への反抗心から、一冊の本を手にした「唯一者とその所有」であった。

1845年初版を見たこの哲学的な著作はフォイエルバッハからの引用ではじまる。

「人間であること、
これこそ人間至高の本質である。」

シュティルナーは、人間は動植物同様、何者によっても命じられることなく、なんの責務ももたず、規定されることもない、と主張する。

あまりにも長く、人の本能的な能力が教師や聖職者によって抑圧されてきた、とシュティルナーは考える。

もっとも重要なのは、自我が別の自我を思いやる「キリストの魔法の輪」から抜け出すことである、と彼は言う。

「『私』より下にあるあらゆる真実は『私』にとって好ましい。

しかし、『私』より上にあるただひとつの真実、『私』が『私』を裁かねばならぬ、というそのたったひとつの真実だけは私の関知するところではない…。

『私』は無数にある『私的なるもの』のなかの単にひとつの『私』ではなく、『私』は唯一の『私』である。

『私』はただひとつである。
したがって、『私の』欲望も、『私の』行為も、ようするに『私』に関わるあらゆるものはただひとつなのである。

そして、この唯一の『私』としてのみ、『私』はすべてのものを、『私』の所有とするのであり、同様に『私』はただこういう『私』としてのみ動き、発展するのである。

人間として、人類の一員として『私』は発展するのではない、『私』は『私』として発展していくのである。
これが『唯一者』の意味するところである。」


ローター・フィッシャー著 「Max Ernst」より

おまけの写真


竹細工 先輩の作品作り

第一編 旧時代と新時代の人々 近代人 精神

2013-09-02 14:37:55 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
~「自由の哲学」序文に出てきた「人間の本質」とフォイエルバッハについて~

以下 唯一者とその所有 より

我々は単に我々自身の本質を思い違えた だからそれを他界に求めたのだ
しかし今、神が我々の唯一の人間的本質であることがわかったとき、我々は再びそれを我々のものとして承認し、そして他界からこの世界にそれを引き戻さなければならない

精神である神に、フォイエルバッハは「我々の本質」という名を与える

「人間の本質は人間最高の実在である 今宗教によって最高の実在は、たしかに神と呼ばれている、そして客観的本質とみなされている しかし真実それは人間自身の本質にすぎない ゆえに世界史の回転期は以降最早神は人間に神として現れず、人間が神として現れるということである」byフォイエルバッハ


ここからのシュティルナーがまた面白くて笑ってしまう

これに対して我々は答える

最高の存在は実際人間の本質である 、しかしそれは、彼の本質であって、彼自身ではないのだから、我々がそれを彼以外に見て「神」としてそれを考察しても、あるいは彼のうちにそれを発見して、そしてそれを「人間の本質」あるいは「人間」と呼んでも、それが無形だということは依然として変わらない

自分は神でも人間でも、最高な本質でも、自分の本質でもない

だから大体において自分がその本質を自分の内にあると考えても外にみると考えてもまったく同一である

否、我々は実際いつでも最高実在を同時に内外両様の他界性として考える

なぜなら、「神の精神」は、キリスト教的見解によれば、「また我々の精神」である 、そして「我々のうちに住んでいる」、それは天にも我々のうちにも住む

哀れなる我々はその「住居」である、そしてフォイエルバッハが進んでその天上の住居を破壊し、そしてことごとくそれを我々に移そうとするなら、その時吾々(その地上の室内)は雑踏を極めるだろう

さてこの枝葉の議論の後、我々は精神の最初の創造、精神それ自身にかえる

精神は自分以外の或る物である

しかしこの他の物というのは何であるか?

2.憑かれた人々 へと続く


率直にも皮肉にも思える話し方が面白い

シュタイナーが自由の哲学の内容について、シュティルナーの考えを形を変えて述べたのだと言っていたというのだから、もしかしたらどこかでこの「神」や「人間の本質」が、シュタイナーの言う宇宙創造の先端である人間の認識力、思考能力と結びつくのだろうか?




第一編 人間編 旧時代と新時代の人々 近代人 精神

2013-09-01 14:23:15 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
どこでこの精神世界に到達すべきであるか?

それ自身から以外のどこで?

それはそれ自身を現さなければならない

そしてそれが物語る言葉、それがそれ自身を示し黙示する、これらがその世界である

……

その精神はそれ自身のためにその精神世界を創造しなければならない、そしてそれが創造するまで精神ではない

かくしてこの創造がそれを精神にする、そしてその創造によって我々は創造者であるそれを知るのである

それ等のうちにそれが生きる、それ等がこの世界なのである

さて、その精神とは何か?

それは精神界の創造者である!

「唯一者とその所有」のこのあたりは、「自由の哲学」の三章で思考を思考する状況の特殊性についてシュタイナーが一生懸命説明していることに似ている

精神は精神そのものが生み出した場所でのみ完全に自由であるということ

でもシュティルナーはこのことを特に礼賛しようとしているのではなく、必然的な一通過点として説明しているのである


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第一編 人間編 近代人

2013-08-30 12:34:20 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
我々をして古代人によって残された遺産をとって、活動する労働者として、能う限りそれを使用せしめよ…それをすっかり費っちまえ!

世界が我々の脚下に、我々と我々の天の下に遥かに侮蔑されて横たわっている、世界の大きな腕は最早そこに突き込まれない。

そしてその昏迷させるような呼吸がやってこない。

それがよし挑発的の姿勢をとるとも、それは我々の感覚以外の何物をも混惑することは出来ない。

それは精神を惑わすことは出来ない…そして結局我々は実際精神ばかりである。

一度物の真相を捉えたところで、精神はまたそれらの上に達した、そして解放され、天的になり、自由になって、かれ等の束縛を脱した。

そう「精神的自由」が語る。


しかし、それは単にこの世の中から去ってそして世界から自由な一存在をそれ自身から作ったけれど、実際はこの世界を絶滅させることは出来ない。

だから、この世界はそれに対して取り去ることの出来ない躓きの種として、不信な存在として残る。

そして一方、それが精神及び精神的のこと以外に何物をも認識しないから、それは永久にそれとともに世界を霊化せんとする欲望、即ち、それをブラックリストから救済せんとする欲望を携帯しなければならない。

だから、青年のように、それは世界の救済若しくは改善に対する様々なる計画を抱いて歩きまわる。

唯一者とその所有 第一編 アトランダム

2013-08-30 07:48:42 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
人間がこの世の光を瞥見(べっけん)する瞬間から彼は彼自身を発見しようとする。
そして彼が自分以外のものと一緒に雑色混合の中に動揺している紛乱から彼自身を把握しようとする。/第一編 人間編 人生 冒頭

「古代人にとってこの世界は一個の真理であった」とフォイエルバッハが言っている。しかし彼は「真理の背後にある虚偽を探そうと努めた、そして遂に彼らは実際探しあてた」と重要な付け加えをすることをわすれている。/第一編 人間編 古代人

「古代人にとって世界が真理であった」と上に言われたように、我々は茲では「近代人にとって精神が真理であった」と言わなければならない。しかし此処でも、彼らの如く、我々は「彼らが真理の背後にある虚偽を探そうと努めた、そして遂に彼らは実際探しあてた」という追加を略してはならない。/第一編 人間編 近代人