「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

動機には、考えが染み通っているから

2014-01-30 16:28:37 | 第1章 人間の意識的行動
行為者が、その行為を行った動機をわかっていないような場合には、その行為者が自由であるとは言えない

では、行為者が行為の理由を知っている場合には、自由だと言えるのだろうか?

何かを自覚しているとは、どういうことであり、また、行為の理由、動機はどのようにして出来上がったのだろう?

行為の動機の形成や、それを自覚しているとはどういうことかについて、そのコンセプトを形作るには、
人間の魂が行う、考えるという活動について知ることが不可欠である

というのも、行為が純粋に動物的な欲望の領域を越えるやいなや、私たちの動機には「考え」が染み通っているからである


自由について論じていて、それがいつの間にか「思考」にすり替わるのはなぜなのか、なかなかすっきりしない

シュタイナーの考えの道筋をはっきりさせたくなる

自由の哲学でありながら、自由て大事よねというより、思考て大事よねと大概言われている

自由には思考が大事ということなのだろうが

自由より思考のほうが、なんだか真面目でストイックな響きがある

そこに、なんとなく面白くないというか、ほんとに強く自由を望んでのことなのか、人間の自由を確信するつもりはあるのか、人間個人への信頼はどの程度なのか、などと思いめぐらす

だから、自由について語るときに、思考を持ち出してくることの理由は、何回も確認したくなってくるのである

これ、もしかして思考の哲学でもいいんじゃない?と思う
でもそれだと、思考の思考、哲学の哲学と、繰り返すようなものだろうか

この本自体が、謎解きの知恵の輪みたいになっている気がしてきた




問いの方向を定める

2013-11-29 20:31:49 | 第1章 人間の意識的行動
一章、自分なりなまとめ

一章は、自由への問いの答に向かうに当たり、どこを通って行けばいいのか、その方向を定めるために費やされている

一般に、おおざっぱに「意志→行為」とみなされ、そこでの自由が論じられるが、自由をそのポイントで見つけようとするのは、的外れかもしれない
(問いの方向性がズレたままの議論となってしまう)

まずは、行動への意志がなぜ芽生えたのかを自覚している場合としていない場合を、同じように論ずることは出来ない

無自覚な行為に対して、人間の自由を云々するのは論外である

残るは自覚的な行為である

そこで、必然的に、一章の表題である「人間の意識的な行動」のほうに向かうこととなる

意識的な行動とは、どのようなものか

それは、なぜそうするのか、その理由を自分ではっきり認識しているような行動である

行動の理由を自覚しているかどうかについて論じられることが少ないのは、人間を2パターンに分けてしまいがちだからである

行動的な人は行動するばかりで哲学などしない
哲学する人は哲学するばかりで行動しない

私たちは、「認識し、そしてその結果をもとにして行動する」に向かってみよう
(そちらに問いを向けてみよう)

では、行動の理由を認識するとはどういうことか

「行動の理由を認識する」ことが、いったいどのような意味を持っているのか

「何かについて知る」ことの意味を理解しようとするなら、思考活動の意味を問わねばならないだろう

思考活動の意味を知ること抜きには、行動を自覚することの意味をも理解することは出来ない

以下
ちくま学芸文庫
「自由の哲学」一章より 抜粋

思考が一般に何を意味するか
を認識するとき、
人間の行動にとって
思考がどんな役割を演じるか
も明らかになるであろう

(心情が動機だという人がいるが)
心情が行動の動機を直接作り出すのではない
思考内容こそが感情の父なのである

問題を我々の望む仕方で扱おうと思う

人間の行動の本質を思考の根源から問い直すことの必要性がますます明らかにされねばならない

だからまず、この問いに向かおうと思う


おまけの写真
ヒヤシンスの水耕栽培



自由と動機はどういう関係?

2012-08-18 10:38:24 | 第1章 人間の意識的行動
まったく・・整理が悪くて、本が行方不明に

先日電車移動中に一章を読んでみたので、
バッグのどれかに入っているはずなのだけど・・

思い出せる内容としては

人間が何かを行う自由について考えるとき
その行動の動機がどんなものか?を
本人がわかっているかどうか?

そこに注目することなく
自由について云々されてきたけど

「動機が自覚的かどうか?」に注目してみたい

という話だった・・

人間の自由と、動機の自覚
どうつながるのだろう?

なぜ、今ブログを書こうとしたか、自分でわかっている?
その動機は、う~んと、暇ができたし書きたかったから
なぜ書きたかったかというと・・

外界の印象がどんどん流れていくと、
ちょっと待ってくれよ!という気持ちが強くなってくる
何かを書くと落ち着く
頭がそれを要求する
そういう時間が必要である
ブログで書くのは、この過程をだれかと一緒に楽しめるとしたら嬉しい!
そう思っているから

そもそもは、
自由の哲学を丁寧に読みたいからよ

なぜ丁寧に読みたいかというと
なぜ?
あまり自覚できていない

やっぱり、一緒に読む過程を楽しめるオキツさんがいてくれるのが嬉しいから
(勝手に名前出してごめんなさい)

それから
シュタイナーの世界を、ただの迷妄としてしまわないためにも、
彼の霊学の根拠となる(?)この本の言葉を、
ちゃんと理解しておきたいから

じゃ、なぜ彼の霊学の根拠となる言葉を、理解したいのか?

それは、彼の霊学・・というより、
自分自身の人生の霊学?神秘学を面白いと思っているから・・か・・

詩的言語と、科学的言語が、つながる可能性があるのか?興味があるし

あと、この世界を無価値にしたくない・・ということもあるかも

え?それどういうことだろう?

・・きりが無いが
それにしても、今、自分の「中に」この動機が
存在しているということは間違いない

この動機を私がはあくしているのとしないのと、
何が違うのだろう?

やりたい→やる
やりたい動機を発見→やる

大脳を通過したかどうか?かな

「やりたい」は先にあるのが絶対なのだろうか?
やりたくない→動機を発見→やる
もあるか?

あと・・ついでに思い出したのは・・
何かをやるのは奨励されるけど
やらないことは認められない傾向がある

それはそうだ
やらないことは見えないから
でも、やればいいってものでもないのに、
やらないことを選ぶことが必要な時に
それが必要だと認めてくれる人は少ない
だから自分でそれを選ぶことは労力がいる場合もある

シュタイナーが「やらない衝動」を認めてくれる一文に出会ったとき
すごく嬉しかったのを覚えている
でもそれが何に書いてあったのか忘れてしまった

これは、今思うと動機に関係しているのではないだろうか?
動機の自覚が無いままに、何かをやる、頑張ることがいいと
思っていることもあるだろう
周りの人間も、わかりやすいからそれを応援するし

でもふと立ち止まりたくなるときがある
行動が、自分が行っているのに受動的になってしまっているとき
仕切りなおすために、しばらくの間完全に静止することが必要になることが
あるのではないだろうか?
それはすごく積極的な価値のある行為なのだけど
みんなは心配してしまい、どうしてやらないの?となるだろう

動機は自分の中にあるものだけど
自発的なものと、外から与えられたもの、押し付けられたもの、
自然に芽生えるもの、いろいろあるだろうな

つらつらとイメージしてみたら・・

自覚的な動機、無自覚な動機
それが
人間の行動の自由にどう関係しているのか
見えてくる気がした

動機の内容を完全に理解しているかどうかというより、
動機がちゃんと自分の内部に存在しているか?が
自由な行動に関連しているのではないだろうか