「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

人間にとって最も重要な対立

2013-10-16 07:30:41 | 第3章 世界認識に仕える思考
人間にとってのもっとも重要な対立であるとシュタイナーが言うのだから、観察と思考を一連の流れとしてではなく対立項としてイメージしてみるのだか、どうもはっきりしない

娘に聞いてみると

「社交的な人と内向的な人を思い浮かべてみれば?」

確かにね
主に観察世界に生きてる人
主に思考世界に生きてる人
社交が好きな人
内向的な人
をイメージしてみると、対立点はある程度納得出来る

一方、シュタイナーは、観察も思考も「精神の柱」であると言う
この二本の柱が、宇宙、世界を支えると言うのだろうが…

ということは、観察も精神の活動なのだろう

単に目が像を写すということと、観察は違うのだろうか?「意識化された観察」は、無意識の観察とはどう違うのだろう

意識化された思考と、無意識の思考があるのか

ふいに考えがわいてくるというような時には、それは意識化された思考なのかそうでないのか

細かく考えると、シュタイナーの言うイメージをどう受け取ればいいのかわからなくなる

とりあえず彼がそう言っているということと、今一つ私にはイメージできていないということを意識化することができた
^o^

おまけの写真

鮮やかな紫が美しい
アメジストセージ




思考の性質についての抜粋 その2

2013-10-12 12:03:39 | 第3章 世界認識に仕える思考
思考は特別なのだとシュタイナーは言うが、普段「よし今から思考するぞ」と区切って考えはじめるわけではない
目に見えない意識の流れや領域の区分、観察対象としての思考と感情の根本的相違なんて言われても、どうもすんなりと入ってこない
言葉の遊び的な、自分が導きたい結論にとって都合のよいこじつけじゃないの?と、めんどくさく思ってしまったりして^^;

しかし彼の言葉にそって、なんとかイメージをはっきりさせてみたい

われわれがどんな原理を打ちたてようとも、それはどこかでわれわれによって観察されたものであることが証明されなくてはならず、そしてまた他の人が後から辿ることのできる思考形式をとって明瞭に述べられなくてはならない

でもシュタイナーはほとんどの著作でそのような書き方をしていないのにね
と言いたくもなるが


思考が、またはその他の何かが宇宙進化の主要因であるのかについては、ここではまだ決定しないでおく

この話し方は相当唐突ではないだろうか
思考が宇宙進化の主要因だなんて、寝耳に水である
またはその他の何かがって何?

疑問には事欠かない文章である

馬についての思考と対象としての馬とは、われわれにとって別々に現れてくる

この言い方も笑える
別々にというのは、空間的なことだろうか
馬は、たとえば草原にあらわれ、そして「あれは馬である」という概念形式は意識上にある、ということ?
それとも、わたしの視覚が捉えた馬がわたしの意識上の見たものを写し出す「体験領域」にあらわれるが、それは同じ意識上でも「概念のお部屋」とは別だという意味だろうか

アンチテーゼとして、その違いを述べてくれていると捉えるとわかりやすいのかもしれない

観察結果は、意識の外側に認識できるのに対し、思考結果は、意識の内側に認識される
これは、INとOUT、まるで呼吸のようなものにも思われる

おまけの写真


鉢から庭に放ったオミナエシ
最近、庭仕事も自然農風
作業を月や惑星にも合わせたいが、
出来る時間が限られるので、今後の課題…というか、楽しみにとっておこう
それに、惑星の意味とかまるでわからないままで、そうすることに抵抗もある












アンチテーゼとしての観察と思考

2013-10-12 04:30:29 | 第3章 世界認識に仕える思考
観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点なのである

これまで哲学者はいろいろな基本的な対立から出発した

観念と現実、主観と客観、現象と物自体、自我と非我、理念と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などである

けれどもこれらすべての対立に観察と思考の対立が先行していること、これが人間にとっての最も重要な対立であることは、容易に理解できよう


いや全然容易に理解出来ない
こんなに大げさに言うけど、おかしくないだろうか
観察と思考が重要な活動だということは理解するが、この二つがなぜアンチテーゼだと言えるのかわからない
観察→思考と、一連の流れを作っている活動が(シュタイナー自身が何度もそう言っている)、なぜ対立していると言えるのか

観察と思考が、どのように対立しているのか

疑問ばかり出てきて、解決がすぐには見つからないかもしれない
とりあえず疑問に思ったことをメモしておいて、あとで答えや説明があると思われる箇所が見つかった時に、それに注目出来るための前提となるとよいと思う

自分の根本原理について語る哲学者は誰でも、概念形式をつまり思考を使用しなければならず

概念形式=思考

話が飛ぶが、概念形式、思考は植物に似ていると思う
植物には、はじめのコンセプトがあり、その形式を守って進行していく
あるパターンを厳守する植物
植物には生命というより法則を感じる
システムに浸透されていることは、生命にとって死を取り込んでいると言えないだろうか

もし私の全てがある一つだけの概念に浸透されるとしたら、人間というより一機関となってしまうだろう

概念形式=思考は、固定化すればパターン、システムとなる

シュタイナーが「本性の直覚」、「領域の発見」、「発露」などと面白い言葉の使い方をするのは、上記のようなことと関係しているのかもしれない

おまけの写真

稲穂が美しい季節になった



意識、思考、解放

2013-10-11 07:47:13 | 第3章 世界認識に仕える思考
我々の働きかけ無しに存在する対象、出来事

この言い方は面白い
自分を取り巻く世界は、そういうものだらけ
自分の存在も、私の働きかけで存在したようには思われないのだから
謎だらけの中に、?となっている私の意識がある

それに関係する概念と概念相互の結びつきとを見出そうと努力する必要を我々が感じている

私の意識は、謎に取り囲まれているのだから、どうしたってそうなるだろう


この私の活動が私の独立した本性の発露なのか

独立した本性の発露というのは、私自身の意識の性質とその働きのあり方ということだろうか
私の独立した本性って何なのだろう
なぜ「私の独立した本性」という言い方をするのか
本質と言っても同じ?

それは、意識の中にあるもの?

意識はその在り方によって、おのずと問いを持ち、またその答えを求めると言えないこともない

その方向性や、方法は、人それぞれだ

意識の存在の前提があり、おのずと行われる意識の活動をそれぞれが固有に行っている

それは食物を消化するのとどう違うのだろうか?そう変わらないような気もしてしまう

また、固有の活動だから主体性があるとは、必ずしも言えないのではないだろうか

自分の意識に自分が振り回されてしまうということもあるだろう

よいと思ったことに、いつか自分が縛られてる…なんてこともあるかもしれない

意識の、問い→答えの循環をより解き放たれたものにすることを「意識」するかどうか

それがなければ意識の機能は半分
死んでいるようなものではないだろうか
意識の活動は、「私の独立した」ではなくなってしまう

意識の活動以前に、意識が本当に私のものであるかどうかを考えてみると、それとて確信は持てない
私のものとは、そもそもどういうことなのだろう
意識自体、私の手と同じ程度に、ある機能として与えられたものなら、その由来について、私が関係していないもののひとつであるということだ

では、それを把握する私の意識はどうなるのだろう それだって同じことではないだろうか

まだ、思考を思考する、についてシュタイナーの言う特別の場を、よくつかみきれていない

意識上にあって、考えるという活動が繰り広げられているときには、同じ意識も、何か別の領域との交流というか、意識にも地や空があるとしたら、ただの意識は地中に眠っており、考える時には空気中に出る、そんな状況が思い浮かぶ

うーむ、なんとも支離滅裂

おまけの写真

レッチ・フィールド・エンジェル

名前の由来は、レッチフィールド大聖堂の敷地で「大天使ガブリエル」が彫刻されたパネルが見つかったのにちなんで

聖書中でのガブリエルの役目は、神の言葉を人間に伝えること





思考の性質についての抜粋 その1

2013-10-08 20:18:22 | 第3章 世界認識に仕える思考
認識に仕える (章名)考察は経過についての概念を作るという目的を持っている

私の働きかけなしに進行している出来事に対して、(私の働きかけによって)概念の領域で進行する第二の経過を付け加える

概念による操作

概念的な経過

関係する概念と、概念相互の結びつきを見出そうと努力する

その行為が、本当に我々の行為なのか、動かし難い必然性に従わされているのかという問いは、さしあたり未解決のままにしておきたい


概念の取扱いが、本当に自分がやっているかどうかは、まだ結論を出さない…のだそうだ
個人的には、考えは自分が行っているとは言えない気がしている
結論が先の章でどうなるのか楽しみだ

おまけの写真

バラ園にて
メアリー・マグダリン