「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

有機的な思考/試論

2015-01-03 07:19:36 | 「自由の哲学」
自分が書いた前の投稿を読み返していて気がついた

いつの間にか、シュタイナー氏の思考の展開を、その種のクエスチョンのところからリフレインしている自分がいる

それで、その思考の展開から受け取る図像的なイメージはやはり植物だ
ある思考の展開が、言葉の種から始まる植物だとするなら、人間の意識が大地である

シュタイナーが提起した問題提起が種子、2つの対立する方向性(観察方向と思考方向)、等を双葉として太陽の光に向かう有機的思考植物?

そうそう…種の発芽の2つの方向性も加味しなければ
種からは、地中と地表、この2つの方向に発根、発芽がある

もし種からの発芽、発根にあてはめてみるなら、この世界は大地的物質世界としてあり、だから観察は発根方向だと言える
そして太陽へと向かう空間は、人間の意識の上空、思考方向にある



本性

2014-12-27 17:58:49 | 「自由の哲学」
考えてみれば
この言葉も耳慣れないものだ
→「本性」

おまえの本性は…
本性がわかった

って、もし言うとしても悪いほうに使う気がする

根は優しい
根性は悪くない

などと、根っこがつくと、少し良いニュアンスになる

naturは
おそらく、
この世界に在る時の、そもそもの在り方
ということか
となると、「そもそも」って何だろう

日本語の「そもそも」は、そもそも…;^_^
土台、元来、はじめは…、
などを意味するようだ

人間の在り方が、出産によって産まれた肉体や脳の在り方の中でも、人間以外の動物には無い、人間ならではの本性というものがあると考えるとして

人間だけということなら、やはりシュタイナーが自由の哲学の始めで問いを向けていった「意識」「自意識」にそれがあることになるだろうな

自意識は自分と世界を分断するところから、つまり思考の作用が始まる時に生起する

だから「本性=自意識=思考の作用による」
ってことになり、
人間の本性のクリアーな出現は、思考の作用をどの程度受け入れたかによる


骨格で思考

2014-10-04 17:51:28 | 「自由の哲学」
『秘儀参入の道』p156

 逆説的に聞こえるかも知れませんが、『自由の哲学』のような本は単に理論を通して把握できるような本ではなく、人間全体を通して理解しなければならないものです。

実際、『自由の哲学』で思考について述べられている事は、人間は本来、内的認識を通して、自分の骨格を内的に感じる事を通して、思考を体験すると言う事を知らなければ理解できません。

鋭い思考とは脳によってではなく、骨格によってなされているのです。『自由の哲学』においてのように、思考が具体的になると,思考は人体全体を通過していくのです。

 

思考の恩寵

2014-09-27 22:04:28 | 「自由の哲学」
三章 1918年の再版への補足

思考活動においてだけ、
自我は
その活動のあらゆる細部に至るまで、
自分の活動と一体となった存在
であることを知っている

四章

高橋氏訳 76p

思考は

主観と客観の彼方にあって、
この二つの概念を
すべての他の概念と同じように
作りあげる

思考する主観としての我々が
概念を対象と結びつけるとき、
この関係は単なる主観的なものとは解されない

この(概念と対象との)
関係を生じさせるのは
主観ではなく、
思考なのだからである

主観は
それが主観だから思考するのではない

それが思考する能力を持つからこそ
自分を主観として表す

思考する存在としての人間が行う活動は、
単なる主観的な活動なのではなく、
主観と客観という両概念を
超えた活動なのである

だから、
私の個的な主観が
思考するのだとは言えない

むしろ
「私の主観は
思考の恩寵の下に生きている」
と言うべきである

思考は
私を私の自我の彼方に導き
客観と結びつてくれる

けれども思考はまた
私を主観として客観に対比させることによって
私を客観からも引き離す








気になる言葉 / 表象 理念の具体化

2014-09-02 07:00:51 | 「自由の哲学」
人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。

だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。

道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。

したがって道徳的想像力をもった人だけが道徳的に生産的であると言える。

高橋巌氏訳