「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

意図されず、目的を自由に設定する

2014-12-14 06:06:25 | カント
参考までにカント理解の初心者本を眺めていたら、興味深いページを発見したのでノートする




p147

目的論的判断力の批判

「判断力批判」第2部

*科学&宗教---結果に対する原因を記述するという欲求がある点で同じ

*宗教---人間は何の為に存在するのかを常に問う

この問いには必ずしも答えることは出来なくても、目的の問題が含まれている

*機械論的科学---運動の法則として機能するモデルを創り出すことによって、自然は原理に従うということを示した

「目的論的判断力の批判」の狙いは、目的と意図の取り違えをさせないことである

意図

あることをしよう、ある状態にしようなどと心の中で考えること
また、その企て
an intention

ある目的に使うことが出来るとしても、はじめからそれを意図して作られたとは限らない



カント
意図を無視する

任意性、偶発性を認めた

任意(arbitrariness)
思うままに任せること、
当人の自由意思に任せること

つまり、人間は世界に存在するにあたり何かを意図されている(受動的)のではなく、目的を自分で設定する(能動的)

よって↓



世界は経験のために存在する

世界における一切のものは、何らかの目的の役に立つ
世界には無駄なものは何一つない
一切のものは、全体との関係の中で合目的的である

人類の目標は幸福であるというテーゼを拒否

心を耕すこと=文化こそ、人類における自然によって追求されるべき最終目的なのである

これが人間にさらに理念を受け入れやすくさせると同時に、また無制限なもの(自由)を思考する条件なのである

理性的存在者が、任意の目的一般を(自由に)設定できるような適性を生み出すこと、これこそ人間の心を耕すこと(文化)なのである




まとめ

任意され、偶発的世界に存在し
心を耕す、文化する

関係性を読み解き、目的を設定する能力、適性を身に付ける
理念を受け入れやすくする

無制限なものを思考する条件


茶色---hasutamaメモ
赤---シュタイナーと同じ考えだと思われるところ




超越論的と超越的

2014-08-01 12:49:08 | カント
以下、
超越論的は、超越的はで色分け

wikiより
超越論哲学

カント、フィヒテやシェリングなどに見られる哲学の態度

カントによれば、
哲学=「全ての哲学的認識のシステム」

超越論的とは、
どのようにして先天的認識が可能であるのか?
その可能性と根拠について問う認識

先天的認識=アプリオリ
経験的認識に先立つ自明的な認識や概念

超越論的な認識とは、
対象を認識する仕方に関する」
一切の認識


超越的原則とは、制限を踏み越えることを命じるような原則

超越論的」は
超越的」と異なる

西洋の哲学史においては、
古代ギリシャのピタゴラス教団
エレア派(総じて「イタリア学派」)
プラトン以来、
本質存在・真実存在は、知覚・経験の対象とはならない、
それらを超えたもの
、すなわち「超越的」なものであるという考え方が、主流の一角を占めてきた

これらの哲学者達は、こうした知覚・経験を超えた「超越的」な真実在には、理性・論理・数学などによってのみ接近・到達できると考えていた

こうした古代ギリシャ特有の「理性主義」「論理主義」的発想・作法は、キリスト教文化との混交・融合によって、中世の神学(スコラ学)へと受け継がれ、更には近代哲学の大陸合理論にも継承されるが、そもそも根拠となる「理性」自体の規定が曖昧なため、そこで生み出される認識内容は「独断論」のそしりを免れないものであった

また他方で、経験に依拠するイギリス経験論においては、端から経験を超えた「超越的」な真実在についての認識など期待できるはずもなく、ヒュームの懐疑論に至ってそれは決定的なものとなった

こうした状況を目の当たりにしたカントは、「理性自体の吟味・批判」を通じて、

「人間の適正な理性的認識は、どこまで可能なのか」

「人間の理性は、経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)と、どのように関わるべきなのか、関わり得るのか」

についての、境界策定・基準設定(メタ規定)を行うことで、「超越的」なものに対する考察・関与(すなわち形而上学)の余地を、適正な形で復興しようと試みた。


これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」(先験哲学)である。

したがって、ここでいう「超越論的」哲学という表現は、

「経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)- にまつわる適正な理性関与 (- の境界策定・基準設定(メタ規定)) - についての、
事前的な/先行的な/自覚的な」
哲学ということであり、「前超越的」「先超越的」「対超越的」「メタ超越的」等とも言い換えることができる


もの自体 =自由意志!?

2014-08-01 10:57:41 | カント
「もの自体」wikiを見ると、さらに興味深いことが書かれている

内容

自由
超越論的自由とは「物自体」として要請されたものである。
というのも、「行為」の結果は知ることができるが、その行為を起こした「自由意志」は現象界に属するものではない。
しかし、因果律によって存在が証明できない、この「自由意志」が要請されることによって、その行為に対する道徳的責任を問うことができる。
ゆえに「自由」の存在は正当化されるのである。

影響

カント以後のドイツ哲学者では、ヘーゲルやフィヒテにみられるように、「物自体」という概念を斥け自我や主観のみが実在するという独我論に近い立場をとる。
ただ、ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている。
意志の優越を説く教説がニーチェやベルクソン、ウィリアム・ジェームズ、デューイらに主張されていることを合わせ考えると、経験によって与えられず認識されもしない「物自体」の世界が自由意志の根拠として20世紀の哲学者に残されたともいえる。


経験によって与えられず
認識されもしない
「物自体」の世界

自由意志の根拠


ちゅうもーく!
シュタイナーが自由の哲学でやろうとしていることと、すごく関係している

だって、
シュタイナー氏は、たしか…

人生で個人的に経験し観察したことを
思考し、
その思考結果をまた思考するときには
場所移動し^_^
生きてるところじゃない場に出ますので、
その場を発見すれば
人間の意思の自由はある!と言えるようになると、
そう言っていたよね

その場というのは、もの自体の場なんじゃない?

もう一度
確認してみたい

何だかスリリングである
シュタイナーがニーチェを評価するのも、意志の問題がもの自体の存在と関わってくるからなのかもしれない

ニーチェがもの自体のことをどう扱ったのかも気になってくる

「ショウペンハウアーは、もの自体と意志を同一視」というのも興味深い

むむー


頑張るカント/もの自体

2014-08-01 09:23:34 | カント
wiki 「もの自体」より

言うまでもなく、この「物自体」という発想・概念は、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類、すなわち、「理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にあるものであり、それをカントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)の枠内で表現した言葉・概念である


大陸合理論においては、こうした超越的概念に対する思索が、相変わらず素朴・野放図に行われたまま、独断論乱立の温床となり、他方で、経験に依拠するイギリス経験論では、ヒュームに至り、それは(当然の帰結として)懐疑・断念の対象となってしまった。

こうした状況に収拾を付けつつ、また同時に、この伝統的な超越的概念も擁護・救済し、「形而上学」(人間・世界の可能性・潜在性に対する想像力)を適正に復興すべく、「理性自体の吟味」を通じて、「人間は超越的概念(物自体)に対して、どこまで理性的・適正に思惟・接近し得るのか、知り得るのか」を境界策定(メタ規定)し、示そうとしたのが、カントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)である。


hasutama メモ


「大陸合理論においては、こうした超越的概念に対する思索が、相変わらず素朴・野放図に行われたまま、独断論乱立の温床となり…」

大陸=ヨーロッパ
イギリスは大陸に入らない?

合理論=演繹法が真理の探求の方法

演繹法=理性を使い内省、反省(思考にあたる?)することにより原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする

演繹=一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論方法

対義語は帰納

演繹の導出関係は前提を認めるなら絶対的、必然的に正しい

実際上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられれば、誤った結論が導き出されることがある


「他方で、経験に依拠するイギリス経験論では、ヒュームに至り、それは(当然の帰結として)懐疑・断念の対象となってしまった。」

イギリス経験論の「経験」
=客観的で公的な実験、観察

☝︎イギリス経験論で言う経験とは、シュタイナーが言うような個人的経験のことではない

イギリス経験論は、
哲学的唯物論や
実証主義
と結びついており、

大陸合理主義や
認識は直観的に得られるとする、
直観主義、神秘主義、
超経験主義的なものについて
語ろうとする形而上学
と対立する


「こうした状況に収拾を付けつつ、また同時に、この伝統的な超越的概念も擁護・救済し…」

そうだったのかー
理性を批判するために批判したというより、
こんな状況を、なんとかカントかしなきゃ大変^_^;
てことで、頑張ってくれたのねー

苦しい状況、どのように頑張ったのか?

「『形而上学』(人間・世界の可能性・潜在性に対する想像力)を適正に復興すべく…」

ふむふむ…

「『理性自体の吟味』を通じて、

『人間は超越的概念(物自体)に対して、どこまで理性的・適正に思惟・接近し得るのか、知り得るのか?』

を境界策定(メタ規定)し、
示そうとしたのが、

カントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)である。」


「もの自体」=以下にメモ

1.超越的概念

2.古代ギリシャの
エレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた
「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念

3.上記を継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類

↑(ルネサンス期の?)

4.理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にあるもの

wiki 他 参照







「現象」と「もの自体」

2014-08-01 06:02:45 | カント
カントnote

✳︎理性の認識範囲を確定

人間の感性的直感は
「現象」に対しては適用出来ても
「もの自体」には適用出来ない

ゆえに
神、魂などの形而上学的なテーマというものは、学問的な知識にはあてはまらない

しかし、実践的には道徳的な信仰としては重要である


hasutamaの、素朴すぎる疑問


現象=?
もの自体=?