「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

どこの誰かは知らないけれど/思考さん

2014-12-20 16:46:49 | 第3章 世界認識に仕える思考
行為自体の持つ作用力を、汎神論的に人格がある存在のように扱うシュタイナーの話し方に敏感になってみると、三章の題名ですでに、思考を独立して意思を持ったもののように表現していることに気がつく

世界の把握に奉仕する思考
とは、
思考は、世界の把握に奉仕する
と同じことである

思考には、奉仕する意思がはじめからそなわっていて、人間が世界を把握したい時にササッとやって来てくれる

ということは、思考ははじめから人間の内部に存在しているというよりも、人間が呼び出しをかけた時に、どこか別のところから来てくれるイメージである

思考はどこにいたのかな?

思考は世界を把握することに奉仕する

把握とは観察内容の関連付けによりその全体像をイメージングするということ

関連付け、イメージング、マッピング、のプロフェッショナルな思考さん

身を惜しまず人間に奉仕してくれる

自分の一部分なら改めて感謝もしにくかったけど、どこかから来てくれるとなると、どうもご足労いただいて…てことでお礼も言いやすい

と同時に、

いったいあなたは、どこから来た誰なの?と問いたくもなる


観察 ✖︎思考→事象の繋がりが明らかになる

2014-08-06 22:40:20 | 第3章 世界認識に仕える思考
ある事象に対する、観察と思考

*観察した結果

事象の諸部分を、
発生の経過に沿って
たどることが出来るようになる

ただし、諸部分の結合関連は不明

*事象に対応する、概念を見出した後

事象の諸部分や他の事象との
つながりが明らかになる

観察された事象と、
他の事象とのつながりは
観察と思考が結びつく時に
はじめて明白になる

hasutama

観察だけでもなく、思考だけでもない

観察✖︎思考

この、✖︎の記号部分に人間が、人間の意識があるのかもしれない

それぞれが所属する世界を
現象世界、概念世界というふうに設定するならばの話だが

シュタイナーは何度も概念的次元という言葉を使い、概念世界を一つの次元、世界として話をしている

現代では、一般にはそのような世界が現象世界以外に実際に存在していると考える人は少ないのではないだろうか

シュタイナーの思想は、ギリシア思想の復興の流れの中にあると高橋巖さんがおっしゃっているそうだ

プラトンが言ったイデア界=シュタイナーの概念的次元なのだろうか

おそらくこの根本的な世界設定の中で、人間の意識の存在を宇宙的に位置付けようとするシュタイナー氏

概念的次元に関して、この本の中で説明があるのかどうか







私が行なっているように見える概念形成

2014-08-04 22:16:17 | 第3章 世界認識に仕える思考
~note~

この私の活動(観察結果の反省により、概念を形成する)は、

・私の自立的な本性から出たもの
or
・意識内にある思想や思想の結合の規定に沿っている

どちらなのか?

とりあえず今は結論を出さず、

我々が絶えず
自分が関与せずに我々に与えられている対象や事象に対して、
ある関係に置かれるような
概念結合を求めるように
促されているのを感じている

という事実を確かめるだけにしておこう



この働き(概念を形成する)が、

・本当に我々の働きなのか?
or
・我々は変更しえない必然性に従って
遂行するのか

という問題については、
今のところ決定しないままでおこう



それ(概念形成)が我々の働きとして現れているということは、疑う余地がない

我々に、対象とその概念が
同時に与えられるのではないことは
自明である

我々が行為者であるというのは、見せかけ上のことかもしれない

しかしともかく、直接に観察すれば、事態はそのように現れている



そこで問題は、

我々がある事象に対して、
概念による対応物を付加することで、我々は何を得るのか?

ということである



~hasutama ~

回りくどい、ややこしい話し方ね💧

概念結合の作業が、
私の自立的な本性から出たものか、
それとも意識内の思想の結合規定に沿ったものか?

これはあとで考察の対象にしてくれるとのこと

自立的な本性から出たと結論しそうな雰囲気だけど
自立的な本性とは何なの?

また、「概念結合を求めるよう促す」のは誰で

概念結合作業を行うのは、もし私でないとするなら、一体誰なのだろう?

「私自身が概念結合作業の行為者である
というのは、見せかけ上のことかもしれない」
と言うのは、一般的にはすごく不思議なことではないだろうか

でも私としては、こう問いを持つことは府に落ちる気がする
実感として、考えた結果が自分の成果だというふうには、どうも思うことが出来ない

私が私であることさえも、見せかけ上のことかもね?なんて茶化されそう

「直接に観察」すれば、
「事態はそんな風に現象」
という言い方も、不思議
直接な観察でなければ、どんな観察があるのだろう
違う見方をするならば、事態も違った様相を見せる
そう言いたいのだろう

しかしそれはあとで考えるとして、
今はとりあえず、

ある事象に、
私が概念的対応物を付加する
そのことで私は何を得るか?

について考えることにしましょう^_^;
とのこと

つづく















各界へ移動 /私の関与と非関与/事象と概念的過程

2014-08-02 23:30:51 | 第3章 世界認識に仕える思考
玉突きで突かれた玉がある

この玉は

その運動を、
どのように次の玉に伝えるか


観察する私

この時点では
観察される事象の経過に対し、
私は何の影響も及ぼさない状況に留まっている

ケース1
私が観察者のままである場合

第二の玉の運動について
私が何か言えるのは、
実際に第2の玉の運動が始まってから

ケース2
はじめの観察内容について
私が反省し始めた場合

私の反省は
事象についての概念を形成する

弾性を持った玉の概念
力学上の概念
✖︎
この場の特別な状況

(概念が形成されると、次の玉の動きを予測することが出来る)

ケース1では、私に関係なく事象が進行

ケース2では、起きた事象に対し私自身が概念的次元で行為者となり、対応する概念を形成するという、第二の事象を付加

🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾

概念的次元での概念形成という事象が起きるか起きないかは、私に依存している

私が
概念を形成する欲求を持たない場合
概念は形成されない

欲求を持つ場合、
私は
玉、弾性、運動、衝突等の諸概念と
観察結果とを
一定の関係におかれるような何らかの結合にもたらすまで安心出来ない



事象は私無しに起こる
vs
概念的過程は、
私の関与無しには起こり得ない



hasutama

これを、こんなに丁寧に(しつこく)言ってどうしようというのか?!
しかし、これがシュタイナーである^_^;
この過程を、私自身も楽しまなくては

舞台は物質世界と概念的次元の世界にまたがっている

事象が起きる

観察する

観察結果に概念を形成したい欲求が発動する

概念的次元で概念を形成する

概念を世界に公開
玉の動きを予測


それぞれが一体どこで行われているのか
私がどの程度関わっているのか
そこに注目すべきなのだろう

赤は物質界での現象として認められる、公開バージョンな事象

観察は肉体の感覚が行なうので感覚界でピンクとしてみた
行為者は私だが、感覚器としての私

概念形成の欲求の発動は、一体どこで起きるのかよくわからない
それは私によるものなのか
それについては本の中でもまだ?にいておいて、あとで論じるらしいのでとりあえず紫

概念形成は概念的次元の青
行為者は私(自我である私?)

概念が形成し終われば、概念を言葉として物質界に差し出すことができるので赤

現象観察、反省概念形成概念を言葉にする

物質界、感覚界、概念的次元を行き来してるイメージを持つと面白いなー

私は一人だけど、シュタイナーがよく言う私の物質界の体、アストラル界の体、霊界の体、のイメージも浮かぶ

確かに、こんな小さな、一瞬の経過の中でも、私が私の中で中心を移動させるというか、私が、まるでダンテの神曲の中で色々な界を旅するように移動しているのかもしれないというイメージがはっきりする

それと、この繰り返されている、

私の関与vs非関与

事象vs概念的過程

これは二章?で気になった、観察と思考の対立という言い方にも共通する、シュタイナーがすごくこだわりを持っている部分

なんかイメージできてくる感じ

おわり






























思考を特別扱いすることについて

2014-03-13 21:28:56 | 第3章 世界認識に仕える思考
引っかかることがあると、先に進めない

どうも先に進めないと気がついて、では何に引っかかるのか?と考える

現象があり、そこに違和感があれば意識が向かう

意識が向かうと、その現象は何故起こっているのか?と、原因を探し始める

私は3章の、観察対象として思考は特別だとする説明が、まだ完全には納得出来ない

感情は、同じ精神生活であっても観察対象として思考と同列に扱うことは出来ないとシュタイナーは言う

感情は精神生活であっても、外界の事象と同列に置いてかまわない

しかし、思考だけはそうではない

それは、思考は人間が生み出すものだから

時系列的に、生み出さないうちは存在していないのだから観察できない、という意味なら思考以外の何でもそうではないか
わざわざ神が世界を作り出し、それから眺めたと言い出すまでもなく
それに感情も、私が生み出したのだと言えないこともないのでは?

ただ、自我がどれぐらい主体的に関わっているかと考えると、確かに感情は思考に比べると、より外界への条件反射的なもので、意識的に生み出すものではない

自我と感情、自我と思考、を比べてみる

より自覚的、自発的、主体的なのは、思考である

それは納得できる