「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

自然と私のつながり/私の内の自然 その1

2012-08-23 07:17:07 | 第2章 学問への基本的欲求
2章まで読んでみて、懸案の、序文の問い1の主旨が見えてきた

2章最後に、シュタイナーが決然と言い切っている箇所がある

カッコ内はhasutamaによる

我々が自然から疎外されたことは真実でも、
我々が自然の中にあり、そこに属しているのもまた真実


我々の内で脈打っているのは、(肉体であろうと、意識内のことであろうと)
自然の働き以外の何物でもない


私たちは、自然に還る道を、再び発見しなければならない

なぜ?
それが人間にとって、「意識」はじまって以来の課題となっているから
これが2章で述べられた学問への「基本的欲求」
私と世界を結び付けたい、世界を理解したい、欲求があるから

(この、「再び」というのはどういう意味だろう?)

この道を、どのように発見できるのか?

素朴に熟慮しさえすればわかるのは、
私たちは自然から身を引き離したといっても
それでもやはり何かしらを、
自然の中から私たち自身の(内面、意識の?)本質の中に取り入れたずである

私たち自身の内側にある、この自然のあり方を、
探し求めなくてはならない

そうすれば再び、(自然と私との)つながりを見出すことになるだろう







意識という場で、「私=自然」地点を発見する

2012-08-20 07:27:50 | 第2章 学問への基本的欲求
このブログを、「ノート」としてよかった
読んでいただくためというより、
自分のちらかった頭のなかを広げてみる場となっている

行きつ戻りつ、全体性の中で部分を見ていきたい
把握した内容を、わからないまま読みすすめてしまったところにフィードバックしないと、意味が分からない

そんなわけで、夕べは2章にチャレンジした

「学問への基本的な欲求」

人間の意識に

世界を見る私
見られた世界(自然)

この二つが、分断されて現れる

私と世界をどう結びつけるか
世界をどう理解するか
それが人間の基本的な欲求としてある

宗教、学問、芸術・・
様々な形で、人間はこの課題に向かってきた

一元論、二元論、唯物論、唯心論・・

これらが、一般の人間の心にどう映ったか、それを振り返ってみると、
それぞれに満足のいかない点が残る

この分断は、どのように解決されるのだろう?

アプローチとして、

1.私 VS 世界 の土俵は、「意識」という場である

2.私は自然から孤立していると感じられても、、私が自然から成り立っていることも真実である 私の内部にあるのも、自然の働きではないか?  

この問題(私と世界をつなげる道を見出す)を探求するにあたり、
人間の意識という場に注目し、
私の内部にある自然を見つけ、
そこから外部の自然(世界)とつながるという方法をとる 
それが可能な地点においては、
私はもはや私と言うより、
私以上の何物かであるはず

私以上の何物かとは?
そのポイントは
私と自然の合致点で
この自然と言うのは自然全体なのだから
すごいパワーポイントなのかもしれないと予測される
(北極点みたいなものか)



















私は宇宙を支えます・・?

2012-08-19 07:36:35 | 1918年の再販のための序文
序文にもどって・・

問い1がどういう意味なのか
わからないままである

「世界のあらゆるものの支え、基盤となるものがあり
 それが人間である
 それは明らかにできるのか?」

「私は、全てのものの基盤である
 それを立証できるのか?」

ということ?

人間の本質が「支え」
それはつまり、人間は本質的に世界の支えである
ということでいいのだろうか?

さらに広範囲に、

「人間は宇宙全体の、あらゆるものの支柱である」

「私は、宇宙全体の支柱である」

それを明らかに出来るのか?

また、この支えとは、物質的な支えなのか、精神的な意味なのか・・
そりゃあ、どう考えても精神的な意味だとしか思えない
・・でもシュタイナーだし何を言い出すか分からないのであって
精神的と限定できないかもしれない

そもそも精神的、物質的という分け方の通用する場と、
この問題提起の場は同じではない・・なんてこともありえる
へたをすると、全てを含んでいて

私は、物質的にも精神的にも、宇宙全体の支えである

となったりする
それ、私にとっての宇宙ということよね?
みんなにはみんなで、それぞれの宇宙ということでないと
あの人の宇宙の支柱が私だということになってしまう

問い2の、結論は問い1を肯定するかどうかにかかっている

もし問い1を肯定するなら、人間は自由だと結論できる
否定するなら、自由ではないことになる
それは、それぞれの人のスタンスによる

私は宇宙全体の支柱である
だから私は自由です

そんなことありえない
自由だなんて信じるのまぬけ

シュタイナーの言うことを真に受けていると
後者のような非難を受けることになり
それというのも彼の発想は
前者によるものだからである

でも前者の根拠はちゃんとあるということが
この本には書かれているはずなので
シュタイナーの言葉を真に受けたい人は
この本をちゃんと読んでおけば
自分を擁護することが出来るかもしれない(?)






自由と動機はどういう関係?

2012-08-18 10:38:24 | 第1章 人間の意識的行動
まったく・・整理が悪くて、本が行方不明に

先日電車移動中に一章を読んでみたので、
バッグのどれかに入っているはずなのだけど・・

思い出せる内容としては

人間が何かを行う自由について考えるとき
その行動の動機がどんなものか?を
本人がわかっているかどうか?

そこに注目することなく
自由について云々されてきたけど

「動機が自覚的かどうか?」に注目してみたい

という話だった・・

人間の自由と、動機の自覚
どうつながるのだろう?

なぜ、今ブログを書こうとしたか、自分でわかっている?
その動機は、う~んと、暇ができたし書きたかったから
なぜ書きたかったかというと・・

外界の印象がどんどん流れていくと、
ちょっと待ってくれよ!という気持ちが強くなってくる
何かを書くと落ち着く
頭がそれを要求する
そういう時間が必要である
ブログで書くのは、この過程をだれかと一緒に楽しめるとしたら嬉しい!
そう思っているから

そもそもは、
自由の哲学を丁寧に読みたいからよ

なぜ丁寧に読みたいかというと
なぜ?
あまり自覚できていない

やっぱり、一緒に読む過程を楽しめるオキツさんがいてくれるのが嬉しいから
(勝手に名前出してごめんなさい)

それから
シュタイナーの世界を、ただの迷妄としてしまわないためにも、
彼の霊学の根拠となる(?)この本の言葉を、
ちゃんと理解しておきたいから

じゃ、なぜ彼の霊学の根拠となる言葉を、理解したいのか?

それは、彼の霊学・・というより、
自分自身の人生の霊学?神秘学を面白いと思っているから・・か・・

詩的言語と、科学的言語が、つながる可能性があるのか?興味があるし

あと、この世界を無価値にしたくない・・ということもあるかも

え?それどういうことだろう?

・・きりが無いが
それにしても、今、自分の「中に」この動機が
存在しているということは間違いない

この動機を私がはあくしているのとしないのと、
何が違うのだろう?

やりたい→やる
やりたい動機を発見→やる

大脳を通過したかどうか?かな

「やりたい」は先にあるのが絶対なのだろうか?
やりたくない→動機を発見→やる
もあるか?

あと・・ついでに思い出したのは・・
何かをやるのは奨励されるけど
やらないことは認められない傾向がある

それはそうだ
やらないことは見えないから
でも、やればいいってものでもないのに、
やらないことを選ぶことが必要な時に
それが必要だと認めてくれる人は少ない
だから自分でそれを選ぶことは労力がいる場合もある

シュタイナーが「やらない衝動」を認めてくれる一文に出会ったとき
すごく嬉しかったのを覚えている
でもそれが何に書いてあったのか忘れてしまった

これは、今思うと動機に関係しているのではないだろうか?
動機の自覚が無いままに、何かをやる、頑張ることがいいと
思っていることもあるだろう
周りの人間も、わかりやすいからそれを応援するし

でもふと立ち止まりたくなるときがある
行動が、自分が行っているのに受動的になってしまっているとき
仕切りなおすために、しばらくの間完全に静止することが必要になることが
あるのではないだろうか?
それはすごく積極的な価値のある行為なのだけど
みんなは心配してしまい、どうしてやらないの?となるだろう

動機は自分の中にあるものだけど
自発的なものと、外から与えられたもの、押し付けられたもの、
自然に芽生えるもの、いろいろあるだろうな

つらつらとイメージしてみたら・・

自覚的な動機、無自覚な動機
それが
人間の行動の自由にどう関係しているのか
見えてくる気がした

動機の内容を完全に理解しているかどうかというより、
動機がちゃんと自分の内部に存在しているか?が
自由な行動に関連しているのではないだろうか












序文で頓挫中(汗)

2012-08-06 17:00:30 | 1918年の再販のための序文
家にたまたまあった「自由の哲学」は、人智学出版社のものです

まず前書きに取り組もうとしたら、いきなり頓挫
この本の論述が、すべてそこに帰結していくという重要な二つの「問い」があるようだが、その「問い1」が述べられている文の意味がつかめないの

人間の本質を直感して、その直感が、生活体験や科学を通じて人間に出会うほかの全てのものの支柱であることが判明する可能性は存在するのか?

これについて人は、このような直感はそれ自身を支えることが出来ず、したがって懐疑論や批判によって不確実なものの範囲においやられてしまうのではないか、という感じを抱いている。


イザラ書房のものでは

われわれが人間の本性を考察する場合、いくら体験や学問を深めていっても、それだけでは十分に解明できない事柄にどうしても行き着いてしまうが、そういう事柄すべてにも有効な考察方法が一体存在するのか、ということである。懐疑論や批判主義はこの問題を解決不可能な領域に追いやっている。

ドイツ語が読めればいいのに、宇宙語みたいにわからない
しかたがないから、英文を持って来てみた

Is it possible to find a view of the essential nature of man such as will give us a foundation for everything else that comes to meet us ― whether through life experience or through science ― which we feel is otherwise not self-supporting and therefore liable to be driven by doubt and criticism into the realm of uncertainty?

どの文がどの単語にかかるのかの解釈で、訳は違ってくる・・

うーん、うーん

英文を眺め回して、hasutama意訳に挑戦してみると、

 人間に与えられている資質の何かが、私達に向かってくるあらゆるものに対して、その根拠を与える・・そういう見解に至ることは出来るのか?

 実際自分が体験したとか、それとも科学的に調べた結果とか、そういうものでなければ、私たちは、それをあやふやなものと感じて、疑いや批判によって、不確実なものの範疇に押しやってしまいがちではないだろうか?


はー、わからない

犬になった気分
でもこの絵文字の犬かわいくて好きー♪

それとも・・

 実際経験したことにせよ、科学的に調べたものにせよ、私達に向かってくる全てのものに対して、その根拠を与える、そのような資質を、人間が持っているという見解に至ることは可能なのだろうか?

 この見解に至れないとしたら、私たちは自分で自分を支えることが出来ず、疑いや批判によって、まるで不確かなもののなかに投げ出されてしまったように感じるのではないでしょうか?


このほうがしっくりくる

あら?本に出ている訳と全然違う

もーわからない、不確かなものの中に放り込まれ、
・・絵文字で遊んでいる
おしまい