「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

表象 イメージ

2016-07-27 10:13:19 | 第4章 知覚内容としての世界
どのようにして外界が思考の舞台となる意識に入るのか?

その人なりな表象、イメージという形を与えられて、その形を舞台に載せるということになるのだと思う

表象とは聞き慣れない言葉だ

他の著作では表象についてシュタイナーはどんなことを言っているのだろう?

「感覚界から自由な表象は、感覚性に満ちた表象とは全く別の影響を人間の本性に及ぼす」

「古代秘秘教講義」より

人間が作る表象であるはずが、
その表象が人間に影響を及ぼすと言う

感覚界から自由な表象

感覚性に満ちた表象

それぞれどのような影響を及ぼすというのだろう?!









お見合い会場としての「意識の場」

2015-02-10 23:15:37 | 第4章 知覚内容としての世界

観察内容と概念の出会いは、
思考する存在の
「意識という場」で起きる


「意識の場」に、
いかにして
世界の観察内容が
入り込むのか


hasutama

「意識の場に、いかにして世界の観察内容が入り込むのか」
という問いを持つこと自体に、戸惑ってしまう

目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いをかいだり
目の前の世界の様子は意識するしないに関わらず、一瞬のうちに認識してしまっているのに、あらためて、「その内容がどのように入り込むか?」と
問題にするのは、バカバカしい気がしたのである

幾人かの友人にこの問いについて話してみたところ、一人の友人が、
最近新聞から切り抜いたエッセイで、「思う」と「考える」は違うという内容のものがあったから、コピーしてポストに入れておいてくれるとのこと
有難いことだ

感じる、思う、考える

その違いは?

「意識という場」において、観察内容と概念が出会う

意識という場は、いわばお見合い会場なのだろうか

意識という場は、もしかしたら二階建てやマンション構造など、複雑な作りになっているのかもしれない

だとすると、その中で、お見合い会場はどこなのだろう

感じる、思う、は、概念とのお見合いを斡旋していないのか

考える、がそれを一手に引き受けているというわけか

「考える」のお見合い斡旋おばちゃんに、概念と出会わせてもらいに意識の場へ入場する、そのときの「世界の観察内容」は、どのような出で立ちなのだろう

ただだらしなく受け取られた内容なんかとは、ちょっと違うのだろうか?










4章 考察の道筋

2015-01-31 12:32:40 | 第4章 知覚内容としての世界
4章 考察の道筋
……読んだところまで

思考は、観察内容を観察を越える道筋である概念と結びつける

観察内容と概念の出会いは、思考する存在の意識という場で起きる

思考する存在(意識の場)の主体性獲得は思考の一作用

思考作用により、意識は自己を含んだ世界を包括すると同時に、観察対象である世界に独立した存在として対峙する

意識の場に、いかにして世界の観察内容が入り込むのか

意識の場で、思考と出会う「知覚内容」

2015-01-30 22:08:42 | 第4章 知覚内容としての世界
4章11~

メモ


意識という場で、
思考と出会う要素
としての
観察対象は、
どのような仕方で
意識内に入り込むのか?」

観察領域から、
思考によって持ち込まれた全てのものを除外したものが、
純粋観察内容である

まだ思考が働く前の、
直接的に与えられている
純粋観察内容と、
意識する主観との関係

明らかにしようとするのが、
これからのテーマである

この考察にあたり、
直接的な知覚対象を、
知覚内容と名付ける

意識的な主観が、
観察を通して
対象についての知識を得る場合に、
その観察の対象を
知覚内容と呼ぶ
(観察の経過ではなく)

知覚内容と言い、
感覚内容と言わないのは、
生理学的に
感覚は知覚よりも狭い意味で用いられているからである

私自身の特定の感情を、
知覚内容と呼べても、
生理学的に
感覚内容と呼ぶことは出来ない

私の感情も、
それが私の知覚内容になるならば、
そこから知識を得ることができる

我々が
思考についての知識を
観察を通して得るのも、
はじめて意識の中に現れる思考を
知覚内容と呼べるときである


hasutama
ポイント

シュタイナーによる
考察にあたっての言葉の定義

知覚内容とは

意識的な主観が、
観察を通して
対象についての知識を得る場合に
用いられる言葉


「意識的な主観」と言い出すことで、人間の意識という場が、前提として用意されており、さらに、これから対象を吟味するぞ!という志向性やその能力(思考力)を持っている主体がちゃんと存在していることをはっきりさせている(クリアーな意識の場や思考力があるから「主体」が存在出来るわけだが)

「直接的に与えられている」観察内容
という言い方は、
はじめから誰かの考えで関連付けられたり組織化されていない、世界から直に個々の人間に与えられる世界情報ということか










思考、世界、私

2015-01-30 06:27:16 | 第4章 知覚内容としての世界
4章をざっと読んでみたら、はじめは思考の本質的な働きを明確にし、そこから思考する存在としての人間の本質を導き出す

それから、思考とは反対側、内界ではなく外界に向かい感覚によって観察された世界が、いかに人間に与えられた条件によって左右され、限定されているものかということについて述べているようだ

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《思考の本質的な働き、本性の抜粋》

思考から、概念と理念が生じる

思考は、思考自身を基礎に持ち、他の何物からも限定されない

観察は思考を求め、思考によってはじめて、ある体験を他の体験と結びつける途が見出せる

思考は観察を越えて先へ進もうとする

思考の最も固有の本性とは主観であり、思考が自分自身の活動に眼を向けるときには、主観を客観対象として持つことになる

だか思考が単なる主観的な活動とするのは誤りで、思考は主観と客観の彼方にあり、主観と客観の概念を全ての他の概念と同じように作り上げる

思考が、概念と観察対象とを関係づけるのであって、主観が行なうのではない

主観はそれが主観だから思考するのではなく、思考する能力を持つからこそ自分を主観として表わす

思考の恩寵の下に、人間の主観は生きている

思考は私を自我の彼方に導き、客観へと結びつける
また同時に、私を主観として客観に対比させ、客観からも引き離す



以上のhasutamaまとめ

人間の二重の本性(=世界から孤立しながら、同時に世界に含まれていると感じる)は、思考する存在である故に生じる

人間は思考することによって、自分と世界を包摂し、また自分を事実と向かい合う個体にする

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世界につつまれ、同時に相対する

これを図形的にはっきりさせてみる
すると、
じゃあ、世界はどうやって人間の中に入るのかしら?となる

すっぽりと取り込まれるにしても、対峙するにしても、私の中に世界が完全に受容されるとか、理解されるということとは違うからね

今日はここまで