「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

subject 主観

2014-10-05 04:15:50 | 第4章 知覚内容としての世界
goo辞書

主観メモ

その1

主観
《subject》
1 ラテン語のsubjectum(下に置かれたもの)に由来し、スコラ哲学以来、18世紀ごろまでは性質・状態・作用を担う基体を意味した。近世以後は認識し行為する人間存在の中心である自我をいう。特にカントでは、先験的意識としての主観が設定された。⇔客観。→主体

2 その人ひとりのものの見方。「できるだけ―を排して評価する」⇔客観


hasutama

語源に、下に置かれたものという意味があったのは興味深い

お皿のように上に何かのせる容器

性質・状態・作用をのせる



その2
kotobank

しゅかん【主観】

対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき,またそのはたらきをなす者。通例,個別的な心理学的自我と同一視されるが,カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え,これが客観的認識を可能にするとする。 → 主体

自分ひとりだけの考え。 「 -だけで言うのは困る」 「それは君の-だ」

客観 〔西周(にしあまね)訳「心理学」(1878年)に英語 subject の訳語として載る〕


hasutama

『通例,個別的な心理学的自我と同一視されるが,カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え,これが客観的認識を可能にするとする。』

今まで、主観とは自我と同じようなものと漠然と思っていた

カント
『先験的意識としての主観』
『個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)』

シュタイナーが言う主観は
スコラ哲学以来の、語源に近い意味合いだが
カント的に超個人的となる条件として
お皿の上に思考という働きが乗っていることをはっきりさせたのだ

思考という働きが意識のお皿に乗っている時にのみ、人間の意識は能動的な行為者、創造者となり、その時の意識を主観、主体ということができる


wiki の『主体と客体』

なかなか面白い

ついでに見つけたけど難しい
カントの主観、自我に対する考えが解りそうな論文↓
'先験的意識としての主観'

思考活動する意識

2014-10-04 21:13:43 | 第4章 知覚内容としての世界
えーっと、どこだったかな?
思考を思考するというのは、非常に特殊な状況だということに注目すべきだと述べていたシュタイナー
どう特殊なのかよくわからなかった

それに対するヒント、答え?とも思われる部分が四章にある

『人間の意識が主観となるのは、思考する意識だからである

人間の意識は思考する意識であるゆえに、自己意識でなければならない

思考が自分自身の活動に目を向けるときには、思考活動にもっとも固有の本性である主観を客観視することになる』

私の自己意識なのかと思っていたけど、私の意識って私より思考のものだったの?

私の意識が能動的になって、主観としてあるときというのは、思考活動しているとき

私が自己意識を持つのは、私が思考を自分の思考に向けて、私自身の主観を客観したとき

『思考=私』であるとき

そんなときには私は自己を対世界に確立して中心として能動的に活動する

思考の恩寵がかっているときに

思考って誰?

思考のもっとも固有の本性が主観であるとは

主観とは何なのだろう?

能動性とは?





骨格で思考

2014-10-04 17:51:28 | 「自由の哲学」
『秘儀参入の道』p156

 逆説的に聞こえるかも知れませんが、『自由の哲学』のような本は単に理論を通して把握できるような本ではなく、人間全体を通して理解しなければならないものです。

実際、『自由の哲学』で思考について述べられている事は、人間は本来、内的認識を通して、自分の骨格を内的に感じる事を通して、思考を体験すると言う事を知らなければ理解できません。

鋭い思考とは脳によってではなく、骨格によってなされているのです。『自由の哲学』においてのように、思考が具体的になると,思考は人体全体を通過していくのです。