「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

モラーリッシュファンタジーについての想像

2020-12-31 06:10:39 | でたらめもよい
まだ6章までしか、それもザクっと読んだだけなのに
言葉に惹かれてモラーリッシュファンタジーについて
これまで読んだ内容から想像を楽しんでいる
道徳的想像力と訳されているけど、なんかすっきりしない

moralischについて検索してみると
出てきたのはマルクスの機械の摩耗に関する話
工場の機械が消耗したかどうかの判断基準として
moralischが使われて、「道徳的摩耗」と以前は訳されていたが
それでは意味不だということで
その後は「社会基準的摩耗」となっているのだそうだ
しかし、基本的にmorarischは個人の行動についてのことを言うらしく
私的にはそのごちゃまぜで
個人の社会的行動基準のようなイメージを抱くことにした

道徳的というともうその言葉だけで
判断基準が含まれてしまっているようなイメージを
私は持ってしまって話が見えなくなる

道徳的想像力に勝手におりこうさんイメージを持ってしまうのだ
道徳的に想像するというように、想像を枠付けするのは
シュタイナーの意図ではないのではないか?と
まだその部分を読んでもいないのに
想像してみたのだ

だってそうでないと今まで読んできた部分や
シュティルナーの考えともずれてしまう

年末にモラーリッシュファンタジーの定義づけについて考えてみるなんて

来年はさらに理解が進みそうで楽しみである


活動する概念界の励まし

2020-12-30 11:55:39 | 第6章 人間の個体性
イメージに(と言っても単純な)浸っているうちに
シュタイナーの言う認識方法が
骨格にも染みてきた

何かを対象として感覚器がとらえたときに
表象が出来るには
私の内側からの概念の流れとの結合があるということ

ただそれだけのイメージがとても面白い

以前、「意識のお見合い会場」と書いたことがあったが
人間の意識の舞台は「概念と感覚界との出会いの場」と言った時に
以前は、感覚界の印象の意識への入り方についてあれこれ考えていた
シュタイナーもそのことについて言ったたくさんの思想家たちについて
事細かに批判を繰り広げていたし・・

でも6章では概念が知覚像を獲得し、個別の概念となる
それがその知覚内容の表象だとのこと

自分の内面からの概念のそんなに積極的な活動について
全く「考えて」(笑)いなかった
というか、すべてがあまりに無意識的にやっていることなので
あらためて「見る」ことが難しい

そしてあらためてそういう観点を持ってみるなら
そう言われてみればそうかな?という
でもそう考えるととても嬉しいし心強いし・・
内面の力はすごいのだし、受け身なだけではない!と
励まされる

同時に、問いも生まれる
概念は私の中を通ってきたのかしら?
概念界から来たのね?

そこからまた色々、思うことがあって
きりがない 

とりあえず・・ここまで







なんとなくの思惟空間

2020-12-16 09:31:59 | でたらめもよい
以下 昔の(と言っても3年前)の記事その2 
3年前の自分のほうが今の自分より自由に発想している!
歳かしら・・と思うと憂鬱になるが、
面白いから自由になれるようにオープンにしようと思う

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行き詰まるとは、空間的に立ちはだかるものがあることを意味している

それでそこでウロウロだらだらしてね

立ちはだかるものの向こう側について色々想像してみたりする

そこでは何を求められているのか考えたり

なんとか…抜け穴とか、ワープとか、方法があるはずなのだ

「立ちはだかるもの」が何か?とか、そもそもそれってあるのか?とか

で、思い付いたのは、そういう風にあれこれ思うことでそこに出来上がる踊り場みたいな空間 それこそが回り扉の新しい通路なんじゃないか?ということ

これからは進むときに通路を作りながら歩くのかもしれない

思考が大事というのは、思考して得られる内容というよりも、思考行為によって出来る空間 のほうが大事なんじゃないか?

これを思惟空間と呼んでみたいと思う

シュタイナーの気迫

2020-12-16 09:16:58 | ゲーテ的世界観の認識論要項
以下、2017年に書いてほったらかしになっていた下書きなのだが
今自由の哲学を読んでいてつながってくる
シュタイナーの気迫と題をつけていたのも今の自分にとって
励ましとなる気がする

13. 認識

認識論によってのみ
「思考が世界の核心である」
という見解に到達できる


認識論=思考と(思考以外の)現実の関連を示す

(思考以外の)とつけるのは、シュタイナー的には思考も現実だから

思考と経験の関係を知るには認識論以外には無い

「ある精神的または感覚的存在=世界の原動力」
ということを知るためには、
その存在と現実の関係を探究しないわけにはいかない


その存在=ある精神的、感覚的存在=人間=世界の原動力

ある事象の本質を見いだそうとする場合
この探究は常に世界の理念内容に立ち戻ることを意味している





表象とは個別化された概念である件

2020-12-16 09:05:22 | 第6章 人間の個体性
なんとかシュタイナーの意図をくみ取ろうと自由の哲学を開いてみる
よくわからないことがあった時
自分の思った疑問は、他の人はどう思ったのだろう?と
すぐにweb上に答えを見つけてしまおうとする
でも同じ疑問を抱く人がいないときはそれが見つからない

人の意識が外界に向かった時
それについて何かを考える場合には
人は内界にも空間を持つと言っていい
外界vs内界の構図がその時に生まれる
でも外界の何かについて考えるのであるから
外界の印象を内界で扱うことになる
隔たっている世界をまたいで、どのように外界は内界に入り込むのか?

その疑問を持つこと自体がなんだか変な気がしてしまう

だが論旨がそのように展開して
知覚内容はうんぬんうんぬんと様々な論客を相手取って
シュタイナーは反駁論を繰り広げた
そして最終的には世界の側から
何かの情報が人の中に入り込んでくるという
その考え方そのものが違うのだという

表象は、その方向からでは
知覚との関係をはっきりさせることは出来ないとのこと

だから別のやり方で、正しい道を行くのだそうだ

表象とは個別化された概念であるという
あんなに表象についての他の説に対して反駁していて
急に今それを言い出されるとびっくりしてしまう

表象とは一定の知覚に関わりを持つ私の直感だ
表象は知覚に従って形成されたもので
観察の瞬間に概念と知覚が提携することで生まれる
概念は、知覚を通じて個別的な形態をとり
この特定の知覚との関りを獲得したと言える

表象は知覚と概念の中間にあって
知覚を指示するような特定の概念だ

その表象を形成する事物の総和を、経験と呼ぶことが出来る


・・だそうだ
なんだ、それを先に言ってはだめだったの?
あまりに長くややこしい反駁に疲れてしまって
少し恨みがましくなってしまう

「指示する」は観察の瞬間にも、これはリンゴだ、ミカンだというように
概念(言葉の)側から指し示すという意味かな
「指示する」ことが含んでいる意味は人間の意識の場での出来事として
意識に対して二つの方向性の力が働いているということだと思う
「見えたものの像」と「それを指示する概念」が
意識に同時に知覚されるときに新たな個別的な表象となる?
こらは人の意識の舞台上での出来事とは言え
意識的に行っているというより、ほとんど無意識に行われていることだろう
何かを見たその瞬間にも、内側(概念の側)からの働きかけがあって初めて
そのものがそのものとして出現するということ?

外から中に入り込むことばかりに気を取られていたのは
シュタイナー自身がそこに注目すると言ったからなのにな

でもその経過を踏んだことで、意識に普段気付かないうちにも働いている
概念というもののあり方をはっきり認識することが出来たのかもしれない
それがシュタイナーの意図なら、それを理解できてよかった
(そうかどうか、確信が持てないけれど)

知覚内容は外界からのものだけではないから
知覚も二つの方向性があることになる
その知覚が瞬時に同時に可能だということ

ゲーテに近づいてきた気がする

おさらい ↓

表象は外から与えられた知覚像だとばかり考えてきたが
実は内界(概念)からの働きも加わって形成されたもので
私が出会った個々の事物に対応した個別的な概念である
それが蓄積すると自分の経験値となる