「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

思想を嚙み砕くエクササイズ

2022-08-25 10:32:18 | 日記
更新しないとテンプレートが地味になってしまうので
頑張って更新する

こちらでほったらかしの自由の哲学・・
読み切っていないものの
ちらほらとめくる機会はある

本の内容を反芻し、行きつ戻りつするうちに
個々の言葉、内容の断片は、書かれた言葉たちから浮遊して
いろんな形で私に関わってきてくれて
小さな考えの種や発芽した繫殖物などが
日々を過ごす私の中にいつもあるように思われる

最近はfacebookやyoutubeで
自由の哲学を解説してくれていたりするので
本当に助かっている

その中で、本の内容以外にも面白いことを発見する
人によってシュタイナー思想への関り方が随分違うということもその一つ

シュタイナー思想が難解な言葉で語られているので(そう思われているので)
それを解るかどうかで階級差が発生する感じ
解る人がそういう態度をとるかどうかいうのもあるだろうし
難しいのが苦手と思ってしまった人が
自ら自分を下にしてしまったりもするのではないだろうか
それは勿体ないし、シュタイナー的でもないと思う

じゃあどうすればいいのだろう?

思うに難解さは少しずつほぐすことができるのでは?
歯のない子供ははじめはミルクで栄養補給する
歯のなくなった老人、飲みこみがうまく行かない人
食べ物を切ったり、ほぐしたり、とろみをつけたり
流動食にしたり
点滴もある

それを人にやってもらうだけでなく
自分でもやり方を身につけてみなくてはと思う
それって走る前の準備体操とか
身体を作るエクササイズにも似ているのではないだろうか

頭というより、どちらかというと身体的な能力を
必要としている気がする

・・・
さあ、テンプレート
使えるようになるかな?











個別的自我と知覚→感情・・個体としての私

2021-02-03 18:52:34 | 第6章 人間の個体性
表象は知覚と概念との中間にあって
知覚を指示するような特定の概念なのである
・・・・・・
現実は知覚と概念として
この現実の主観的な反映は表象として
我々に提示される
我々の人格が、ただ認識するものとしてしか
表されないとしたら
客観的なものの総体が、知覚、概念、表象において
与えられているだろう


思考は主観的なものではないと3章かどこかで言っていたし
概念は感覚的世界に重なるものだから、
あくまで客観的世界の側ということなのね
でも、個別の表象は個人的なものだから主観の側

私は概念は内面?の側と思っていたのだけど
内面だから主観、ということではないのか・・
自分の意識のどこからどこまでが内なのか外なのか
主観なのか客観なのか
ややっこしいから混乱してきます

しかし我々は、思考の助けを借りて
知覚を概念に関係させるだけでは満足しない

我々の特有の主体性、
つまり我々の個別的自我にも、
知覚を関係させようとする

この個別的な関わりの表現が、
快や不快となって現れてくる感情なのである


内界の内でも個別的な自我と知覚が関わると
感情が生まれるとのこと
個別的な自我は主体性であるらしい
では、個別的でない自我もあるということだろう
それと知覚の関りで概念が生まれる
この過程は思考と呼ばれている
(・・ってこと?)

思考と感情とは、我々がすでに考えたような
我々の二面的本性に対応している

思考とは、我々がそれを通じて
宇宙の普遍的事象に参加しているような要因であり

感情とは、それを通じて我々が
自分自身の存在の隘路に引きこもることが出来るような要因である
(※隘路・・あいろ 狭く通りにくい道)
我々の思考は我々を世界と結びつけるが
我々の感情は我々を自分自身の中に連れ戻し
こうしてはじめて我々を個体とする


あのね、私はこれまで
思考は自分の中のはたらきとして捉えていたの
二面性は2章で内界、外界、観察と思考とされていたのだとばかり思っていて
でも確かに、本質世界は孤立してあるのではなく
私自身も含まれる自然として感覚的世界と一元のものであるわけだけど・・?
本質は宇宙的な普遍世界にあるから、私の袋小路側ではない
私の袋小路に向かうのは感情・・その感情としての私は、
思考と違って普遍的ではなく、個別的で主観的な存在
この感情を持ってはじめて私は個体である・・ってこと
今のところ、あんまりしっくりこない感じです




月の光に充たされ、愛の熱を受け取る

2021-01-15 07:32:10 | 第8章 人生の諸要因
昼と夜

この自然現象のあり方は、人間にとっての「観察」と「思考」なのである
昼と夜があり、あ!これは観察と思考だ!とあてはめたのか
それとも、人間に必要なあり方として観察と思考があるから
地球に昼と夜があるのか
後者はこじつけのように思われるだろうが
でも実を言えば後者なのである

どうしたら目に見える世界以外の世界を確信できるのだろうか?
そもそも、目に見える世界以外の世界を求める心を持てるのだろうか?
非科学的とレッテルを貼ってしまいがちな目に見えない世界は
日常とかけ離れたものなのだろうか?

例えば、あまりにも見える世界の価値観のみを重視している母に
どうしたら説明できるかな・・
でも、母は神話の故郷島根の人
太陽や月に対する信仰のような素朴な畏敬の念を持っている一面もある

何か共有できることはないかと
ちょっと祈るような気持ちで「魂の暦」を買い求め開いてみた
美しい装丁は内面に向かう「青の中に黄色」のパステル画で
夜空の月のよう・・


その日のための暦のページには

(私のとんでも訳と夜空バージョンの解説)
私が自分自身の精神の深みに向かい
魂の国に到達したとき


夜空を見上げ、心が月に向かい
昼の光では見えなかった
私の想いそこに見出すとき

その中心にある愛の源泉から流れ来るものに
私は浸されるでしょう


月の光に照らされるとき
(それは私自身の中心にある憧れの想い、愛が、光となっている)
その愛の源泉から流れ来るものに私は浸されるでしょう

孤独で虚しいものに思われていた
私の魂の奥底での想いや憧れが


光がないときには、
暗く虚ろなものとして封じられていた私の想いが

言葉の世界の、火の力によって満たされる

言葉の世界、世界創造の言葉・・つまり理念界の
熱をともなった力によって充たされるでしょう

冬の凍てつく夜空に月を見上げる時
その光の中で見つけられるものがあるかも?
言葉にできなくて意識にのぼらなくても、
感じ取っていて染みているものってあると思う
だから素朴な心を持つ母を、その全体として信頼することは出来るのである
・・って偉そうです(^-^;

と、まあ母はともかく

8章最後に添えられた1918年の新版のための補遺で
「沈潜する思考」のあり方は、
自分の内面の働きの中に流れている力によって
可能になるとされている
それは「精神化された愛の力」なのだそうで
この魂の暦の言葉にある「言葉の世界の火の力」というのは
まさにこのことだと思ったので、ノートしてみたのだった



モラーリッシュファンタジーについての想像

2020-12-31 06:10:39 | でたらめもよい
まだ6章までしか、それもザクっと読んだだけなのに
言葉に惹かれてモラーリッシュファンタジーについて
これまで読んだ内容から想像を楽しんでいる
道徳的想像力と訳されているけど、なんかすっきりしない

moralischについて検索してみると
出てきたのはマルクスの機械の摩耗に関する話
工場の機械が消耗したかどうかの判断基準として
moralischが使われて、「道徳的摩耗」と以前は訳されていたが
それでは意味不だということで
その後は「社会基準的摩耗」となっているのだそうだ
しかし、基本的にmorarischは個人の行動についてのことを言うらしく
私的にはそのごちゃまぜで
個人の社会的行動基準のようなイメージを抱くことにした

道徳的というともうその言葉だけで
判断基準が含まれてしまっているようなイメージを
私は持ってしまって話が見えなくなる

道徳的想像力に勝手におりこうさんイメージを持ってしまうのだ
道徳的に想像するというように、想像を枠付けするのは
シュタイナーの意図ではないのではないか?と
まだその部分を読んでもいないのに
想像してみたのだ

だってそうでないと今まで読んできた部分や
シュティルナーの考えともずれてしまう

年末にモラーリッシュファンタジーの定義づけについて考えてみるなんて

来年はさらに理解が進みそうで楽しみである


活動する概念界の励まし

2020-12-30 11:55:39 | 第6章 人間の個体性
イメージに(と言っても単純な)浸っているうちに
シュタイナーの言う認識方法が
骨格にも染みてきた

何かを対象として感覚器がとらえたときに
表象が出来るには
私の内側からの概念の流れとの結合があるということ

ただそれだけのイメージがとても面白い

以前、「意識のお見合い会場」と書いたことがあったが
人間の意識の舞台は「概念と感覚界との出会いの場」と言った時に
以前は、感覚界の印象の意識への入り方についてあれこれ考えていた
シュタイナーもそのことについて言ったたくさんの思想家たちについて
事細かに批判を繰り広げていたし・・

でも6章では概念が知覚像を獲得し、個別の概念となる
それがその知覚内容の表象だとのこと

自分の内面からの概念のそんなに積極的な活動について
全く「考えて」(笑)いなかった
というか、すべてがあまりに無意識的にやっていることなので
あらためて「見る」ことが難しい

そしてあらためてそういう観点を持ってみるなら
そう言われてみればそうかな?という
でもそう考えるととても嬉しいし心強いし・・
内面の力はすごいのだし、受け身なだけではない!と
励まされる

同時に、問いも生まれる
概念は私の中を通ってきたのかしら?
概念界から来たのね?

そこからまた色々、思うことがあって
きりがない 

とりあえず・・ここまで