「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

感覚器のスイッチ

2013-12-31 15:07:12 | 雑感
ちょっと大胆な仮説

私自身に起きた主観的スポットライト現象について

それが確かに起きた事実としてみた場合

なぜ起きたのか?

そう考えると面白いことに気がつく

シュタイナーが言っている、魂の中に問いを持つこと

概念の領域に踏み込むこと

通常の状態からの移動

思考についての思考

自分の問いについて問うことが、計らずもその状態に合致してしまったのだとしたらどうだろう

しかし、たとえそうだったとしても、誰かとそれを共有することは出来ない

文字にスポットライトが当たるにせよ、目の中に星が飛び込むにせよ(以前、考え事に集中しすぎていたらそんなことがあった)、シュタイナーが「おいでやす」するにしても、結局それは私の感覚器だけがそう捉えたのであって、いくら近くに人がいても同じ経験をすることはない

私が問いを問いながらいた地点が、仮に概念の世界や霊界だったとしてみよう

だとしたら、それは同じこの場所で、私の感覚器が何らかの形でそれに対して開かれた状態になることによって、その存在を感知することになるものだと思われる



問いは私のどこにある?

2013-12-30 08:52:02 | 1918年の再販のための序文
「問う」について「考えて」、あるいは「問う」ている状態にあって、自由の哲学の二つの中心課題に関するシュタイナーの言葉を読み返してみたら、またあらためて「おやっ!?」となることが出来ることに気がついた

問いの存在を、自分の魂の領域の中に見つけ出すことが出来た人は、その領域を深く洞察することによって、二つの謎を解くのに必要な鍵を、手に入れるであろう

認識とは、本来そのような在り方をしている
人間の魂のすべてのいとなみに深く関わる認識の在り方こそが、その認識の正当性と有効性を証明している


ここで新たに問いを持ちたくなるのは、彼が「魂」と言い出したところである

はしょって言うと

問いの存在を

自分の魂の領域の中に見つけ出すことの出来た人は

人間の魂のすべてのいとなみに深く関わる認識

を行えて

そういった認識こそが正当かつ有効である

とのことだ

この言葉からは色々なイメージがわくので

(なんでわざわざ領域なんて言うの?とか)

またあとで続きを書きたい

しかし一番の印象は、「問い」に対するシュタイナー氏からの励ましである

そういえば、彼はいつも問いに対する励ましとして存在してくれている

とんでもなくわけのわからないことをたくさん言って、それから、自分の言うことを盲信しないで、あなたの人生の中で、それに対する追認作業とか吟味をしてみてねと言う

巨大な「?」の中に置いてけぼりにしてくれる

そんな優しさ^_^;


















意識の肉体の増殖

2013-12-29 19:30:03 | 雑感
今日浮かんだイメージ

問いを持ちながら生きるとき、
人間は答に向かって開かれている

答がいくらあっても、人が開かれていないなら、何にも出会うことは出来ない

問いは私の限界点に存在し、そこに訪れる答は、新しく加わる私部分となる

問いの地点において私は増殖する

私の意識の肉体の増殖
成長








概念のコラージュ

2013-12-27 19:36:21 | 雑感
確か以前読んだコリン・ウィルソンのシュタイナー研究本に、シュタイナーの思想は借り物のつぎはぎという批判があると書かれていたように思う

他の人の哲学書をたくさん読んだわけではないから、一般的にも哲学はいくつかの既存の考え方の組み合わせによって出来上がるものなのかもしれないし、私には普通の状態がわからないのである

しかし、少し調べてみただけでも、その批判もやむを得ないと思われるほど彼の思想がプラトン、ゲーテ等の言ったままの、あるいはちょっとアレンジしたような内容の組み合わせから成り立っていると確認出来る

ただ、シュタイナーの味方をして考えれば、偉大、天才と世間でたたえられている人の、その偉大さを、真に理解出来る人は非常に少ないのではないだろうか

哲学は概念を素材にした芸術であるとシュタイナー自身が言っているが(確か…)、
偉大な思想、概念の完全な理解者である彼でなければ、それらを実際の人生に意味あるかたちで生かせるよう、有機的に結びつけることは出来なかったのではないだろうか

ある考えが生まれることが宇宙史的な創造なら、思想は宇宙の素材なのかも

シュタイナーのお料理で、宇宙的創造を味わうとは贅沢でしょう?













主観的スポットライト現象のこと

2013-12-27 16:45:30 | 雑感
思うままに書いてみる

半年、それ以上、ずーっと自由の哲学1~3章を行きつ戻りつさまよっているのだが

その間にシュティルナー、プラトンを少しかじって、しかしこれもまた新たなさまよいを生み出し、まるで樹海に迷いこんだおばさんである
方向もわからず、いったいここはどこ?私は誰?状態

どこが入口で出口?思わぬところから入り、変なところに出るけれど、それがまた新たな入口だったりする

ところが、昨晩また久しぶりに自由の哲学3章を開いてみると、不思議な現象が起きた
(客観的には、何も起きていないようにしか見えない)

まるでスポットライトが当たっているように明るく浮かび上がってくる文章がある

今までなかったイメージが、ふいにくっきりと浮かんで、シュタイナー氏の思考の筋道にちょっと合流、というか、もっとずうずうしく、しかし正直に言えば、彼が自分のイメージとその筋道を照らし出して、先へといざなってくれるような…

もしや…少し先に進めるかな^_^;