「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

「薔薇十字会の神智学」より

2014-08-30 21:52:24 | 「自由の哲学」
平河出版社 202p

高次の世界に参入しようとする者はある思考を他の思考から生じさせる、という考えに慣れ親しまねばなりません

そのような考え方は「自由の哲学」と「真理と学問」に展開されています

この二冊の本は、ある思考を受け取って、それをどこかに据えるというふうにではなく、一つの有機体のごとく思考が生長していくように書かれています

この二冊の本は、そこに書かれた内容が大事なのではなく、思考が自ら発生し、組み立てられていく、その展開の仕方が大事なのです

単に研究しようとするものにとっては、学習は霊学の基礎的な事実の認識であり、高次の世界に参入しようとする者にとっては、何らかの思考そのものから発生し、展開していく思考体系の中への沈潜を意味しています

以下、hasutama
抜粋してみる

ある思考を他の思考から生じさせる

一つの有機体のごとく
思考が生長していく

思考が自ら発生し、
組み立てられていく、
その展開の仕方

何らかの思考そのものから発生し、
展開していく思考体系の中への沈潜

思考が、私を自分の自己から引き離す?!

2014-08-10 22:02:21 | 第4章 知覚内容としての世界
note

我々は思考によってはじめて

自分を
主観として規定し
客観に対置させる
ことが出来る

思考を
単に主観的なもの
として捉えてはならない

この関連
(思考する自己を主観として客観に対置する)
を持ち込んだのは
主観ではなく思考である

主観は
主観であるから思考するのではなく
思考することにより主観として姿を現す

それゆえ
思考する存在としての人間が
営む活動は
単なる主観的な活動ではなく
主観、客観の概念を越えるようなもの

私は、
自分の個別的な主観が思考する
という言い方を決してすべきではない

むしろ主観は
思考の恩恵によって
生命を得る

以上のように
思考とは

自分の自己を越えて私を連れ出し
客観と結びつける

と同時に
私を主観として客観に対置させることで
私を客観から分離させる

hasutama

難しい
自分の言葉で捉え直してみる

観察時には世界を客観している
客観とは、対象と自分が直接関わっていないもの、行動の主体ではない状況で、ただ観ること

思考しはじめると、対象に概念を付け加える作業を私が行うという意味で主体的となり、その時には主観となる

ただの客観ばかりでは、私は世界のお客様、なりゆきまかせの傍観者のまま

しかし思考しはじめれば概念を付け加えるという、生産的な行動の主人公になる

私は私がいることの意味、価値を見出すことが出来るとすれば、生産的、創造的な行為によってだろう

でも私がはじめから主人公であるから、だから考え始めたとすることは出来ない
なぜなら、私は逆に、考えるという作業によってはじめて主人公になるのだから

考えることが私を、単なる世界の傍観の状態から引き離し、一人前の行為者として客観に向き合わせてくれる

客観された世界も、私が主人公になることで生かされると言えるかもしれない

ただし、思考を単に主観的なものと位置付けるのは間違っている
こうした、主観、客観の世界を生かすような対置と交流をもたらすもの、それが思考なのである

私の個人的な主観が思考するのではない、思考は、私が単に個人的主観として存在している場から連れ出し、その後に客観に向き合わせるのだから

思考は主観、客観両方を見渡すもの、その彼岸にあるものと言える

自分の言葉での捉え直し、以上

以下、感想

最後のところはまだピンと来ない
客観を越えるという言葉で
自分の自己、単に個人的な主観、
から私を引き離し、連れ出すことを
意味するようだが、まだ説明が足りなくてイメージがはっきりしない

思考が客観、主観を越えるというが、ではどのあたりに位置しているのか?も不明である

今後の文章の中でより明確なイメージに出会えますように











自己意識の対象化

2014-08-09 22:14:23 | 第4章 知覚内容としての世界
note

思考する存在=観察と思考の媒介者

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

観察中には、
対象は人間に
「与えられたもの」
として現れている

思考中には、
人間は
「自ら活動する存在」
として現れる

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

人間は、
対象を客観、
自らを主観、
として発見する

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

人間は

自分の思考を

観察に向けるところから
客観についての意識を持ち、

自分自身に向けることから、
自己意識を持つ

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

人間の意識は、
思考する意識であるゆえに、
自己意識であらざるを得ない

思考が
自分自身の活動に視線を向ける時には
その固有の本質=主観を
客観として対象にする

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

hasutama

本質として
観察は客観
思考は主観
である

人間の意識は
思考するからこそ
自己意識となる

思考が
自分を主観と位置付けるから

ゆえに
思考について思考するケースでは
主観を客観=自己意識を対象化
することになる

この本の中でシュタイナーは
思考を対象として思考することは
特殊なケースであり
その特異性に注目すべきだと言っていた
(三章)

その特異性とは
主観を客観する
自己意識を対象化する
ということのようだ

その時の、
対象化される側ではなく、
する側の意識を、
シュタイナーは魂と呼んでいた
(以前このブログで考察した

生産後の思考を観照する側の意識
2014/2/14 )

四章では、人間の意識の状況を丁寧に観察、思考していくようだ

それにしても感心させられるのは、
前の章ごとに浮かび上がらせてきたそれぞれの内容が、後の章で完全に生きてくることである
それも図形的にはっきりと浮かび上がるように、段階的に緻密に話が展開されていく
これを「科学」とシュタイナーが名付けたことが納得出来てくる
















観察 ✖︎思考→事象の繋がりが明らかになる

2014-08-06 22:40:20 | 第3章 世界認識に仕える思考
ある事象に対する、観察と思考

*観察した結果

事象の諸部分を、
発生の経過に沿って
たどることが出来るようになる

ただし、諸部分の結合関連は不明

*事象に対応する、概念を見出した後

事象の諸部分や他の事象との
つながりが明らかになる

観察された事象と、
他の事象とのつながりは
観察と思考が結びつく時に
はじめて明白になる

hasutama

観察だけでもなく、思考だけでもない

観察✖︎思考

この、✖︎の記号部分に人間が、人間の意識があるのかもしれない

それぞれが所属する世界を
現象世界、概念世界というふうに設定するならばの話だが

シュタイナーは何度も概念的次元という言葉を使い、概念世界を一つの次元、世界として話をしている

現代では、一般にはそのような世界が現象世界以外に実際に存在していると考える人は少ないのではないだろうか

シュタイナーの思想は、ギリシア思想の復興の流れの中にあると高橋巖さんがおっしゃっているそうだ

プラトンが言ったイデア界=シュタイナーの概念的次元なのだろうか

おそらくこの根本的な世界設定の中で、人間の意識の存在を宇宙的に位置付けようとするシュタイナー氏

概念的次元に関して、この本の中で説明があるのかどうか







私が行なっているように見える概念形成

2014-08-04 22:16:17 | 第3章 世界認識に仕える思考
~note~

この私の活動(観察結果の反省により、概念を形成する)は、

・私の自立的な本性から出たもの
or
・意識内にある思想や思想の結合の規定に沿っている

どちらなのか?

とりあえず今は結論を出さず、

我々が絶えず
自分が関与せずに我々に与えられている対象や事象に対して、
ある関係に置かれるような
概念結合を求めるように
促されているのを感じている

という事実を確かめるだけにしておこう



この働き(概念を形成する)が、

・本当に我々の働きなのか?
or
・我々は変更しえない必然性に従って
遂行するのか

という問題については、
今のところ決定しないままでおこう



それ(概念形成)が我々の働きとして現れているということは、疑う余地がない

我々に、対象とその概念が
同時に与えられるのではないことは
自明である

我々が行為者であるというのは、見せかけ上のことかもしれない

しかしともかく、直接に観察すれば、事態はそのように現れている



そこで問題は、

我々がある事象に対して、
概念による対応物を付加することで、我々は何を得るのか?

ということである



~hasutama ~

回りくどい、ややこしい話し方ね💧

概念結合の作業が、
私の自立的な本性から出たものか、
それとも意識内の思想の結合規定に沿ったものか?

これはあとで考察の対象にしてくれるとのこと

自立的な本性から出たと結論しそうな雰囲気だけど
自立的な本性とは何なの?

また、「概念結合を求めるよう促す」のは誰で

概念結合作業を行うのは、もし私でないとするなら、一体誰なのだろう?

「私自身が概念結合作業の行為者である
というのは、見せかけ上のことかもしれない」
と言うのは、一般的にはすごく不思議なことではないだろうか

でも私としては、こう問いを持つことは府に落ちる気がする
実感として、考えた結果が自分の成果だというふうには、どうも思うことが出来ない

私が私であることさえも、見せかけ上のことかもね?なんて茶化されそう

「直接に観察」すれば、
「事態はそんな風に現象」
という言い方も、不思議
直接な観察でなければ、どんな観察があるのだろう
違う見方をするならば、事態も違った様相を見せる
そう言いたいのだろう

しかしそれはあとで考えるとして、
今はとりあえず、

ある事象に、
私が概念的対応物を付加する
そのことで私は何を得るか?

について考えることにしましょう^_^;
とのこと

つづく